
哲学・思想 1
ニーチェは今も、「自分の力で考えよ!」と叫んでいる
今、まさに日が昇ろうとしているこの朝の時間帯において、私は、濃いコーヒーを味わいながらリヒャルト・シュトラウスの交響詩、『ツアラトウスト
ラはかく語りき』を聴いている。この曲は、シュトラウスがニーチェの大著、『ツアラトウストラはかく語りき』に深い感銘を受けて作曲した作品である。
長年にわたり、基本的には、"活字"のみでニーチェの哲学に触れている私にとっては、この曲を聴くと、程よく「ニーチェの"活字"とシュトラウス
の"音"の融合」の恩恵を受け、より望ましい状態で深遠なるニーチェの哲学に触れることが可能となる。
ニヒリズムを提唱した19世紀後半のドイツの哲学者、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)は、「人間は、まず第一に自らの本質
を問い直し、厳しく辛い現実を直視し、その上で自分自身の力で逞しく生きなければならない」と主張した人物である。
本来において、人間が所有している”より強大になろうと闘う意志”、”競争に打ち勝つ力を目指す意志”、つまり「権力への意志」は、今、人間が
生きる社会においては全く生命力のない状態と化してしまっている。大衆社会においては、人間一人ひとりが持つ「権力への意志」はまさに画一
化されてしまい、それぞれの人間は、自分の人生における目標さえも見失ってしまっている。ニーチェは、このような時代の潮流における現象を「ニ
ヒリズム」と呼び、このような時代に突入した原因を解明し、それを指摘することに努めた哲学者である。
ニーチェは、このような問題を引き起こす最大の原因は、キリスト教道徳にあると主張した。即ち、彼は、「キリスト教の教義それ自体が、力強く生
きようとする人々の足を引っ張り、人々を画一化させてしまっている」と考えたのだ。
このような状況を嘆き悲しんだニーチェは、「神は死んだ!」と唱え、キリスト教が支配する奴隷道徳から人々が解放されることを強く望んだ。そし
て、彼は、「人間は、キリスト教道徳に代わる新しい価値観を自分の力で作り出さなければならない」と唱えたのだ。
「神は死んだ!」、だから、我々人間は、”神ではない何らかの生きる支え”を見い出さなければならない。そこでニーチェは、人間は、「権力への
意志」を持ち、獅子の精神と小児の想像力をもって逞しく生きる「超人」にならなければならないと唱えた。
ニーチェはさらに、理想とする超人とは、神のように彼岸にあるのではなく、現実を現実のものとして肯定し、自らの生命を充実させることに全力
投球し、力溢れる自己を生き抜く自由人、即ち、「力の意志の体現者」を指すと述べた。そして、「すべての神は死んだ。今や我々は、超人が生き
ることを欲す」とエネルギッシュに唱える。
ニーチェは、自身の身を削って”思索しない西洋文明社会”に対して警告の鐘を鳴らした哲学者である。19世紀後半において、ニーチェは、既存
の宗教観・価値観・思想に支配されていた人間社会に対して自ら”偉大な警告”を発し、当時の西洋文明社会に、「今こそ目を覚ませ。今こそ、自
分の力で思索し、自分の足で歩け!」と個々の人間に強く訴えたのだ。
今、21世紀初頭の”思索しない東洋文明社会”に生きる私は、ニーチェの『ツアラトウストラはかく語りき』の力を借りて、少しでも自分自身の力で
思索するよう試みている。
実際、道はすこぶる険しい。だが、「試みる甲斐はある」と、私は感じる。
注)
ニーチェは、ドイツのザクセン州において、牧師の子として誕生。ニーチェは、ボンとライプチヒの大学で神学と哲学を修め、1869年、24歳でスイ
スのバーゼル大学教授(古典文献学)に就任。しかし、健康を害し35歳で大学を辞職し、持病と闘いながら厳しい孤独生活の下で深い思索を重
ね、著書を著し続けた。45歳になると発狂、その後は母と妹に看病されて毎日を過ごす。主著は、『悲劇の誕生』『人間的な、あまりにも人間的な』
『権力への意志』『ツアラトウストラはかく語りき』『善悪の彼岸』など。
アリストテレスの「正義」について考える
我々は、社会生活においてしばしば「正義」という言葉を用いるが、今、改めて、この概念について再考することを試みたい。言うまでもなく、正義
の概念については、古代から現在に至るまで様々な考え方が述べられてきた。そこで今回は、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスが唱えた正
義について触れることにする。
アリストテレス(Aristoteles, 384-322B.C.)は、個人の「徳」が社会的に表象されたものが正義であると考えた。彼は、国家は国民一人ひとりがそ
のオ−ガナイザ−として組織されており、その運営はすべての国民の協力で成り立つものと解したのだ。人間は自分一人だけでは生きられない
わけであるから、"国家を形成する"というその行為はいわば「人間の本性」であると解した。
国家形成の基本となる原理は、「国民が相互に善を与え合う」という行為である。そうした行為を「友愛」と呼び、それは国家の結合原理として捉
えられた。理想の国家を維持していくためには、それと並行してそこには「正義」が必要となる。アリストテレスは、「正義」こそが人間の共同体であ
る「国家」を維持していく上において最も重要な要素であると説く。
アリストテレスの正義は、プラトンのような抽象的な正義ではなく、現実を直視した極めて具体的な正義であった。即ち、正義は、まず時間的空
間や場所を超越して通用する(1)「全体的正義」、そして、公正を意味する(2)「部分的正義」に分けられる。
さらに、部分的正義は、それぞれの人間が彼の地位や役割に応じて働いた結果、果たされた功績にしたがって名誉や報酬が付与される「配分
的正義」、そして、ある罪に対して一定の罰を加えるという、個人差を考慮することなく利害の不均衡を調整する「調整的正義」の二つに分類され
た。アリストテレスは、ポリス(都市国家)の現実を直視し、その現実を受け入れようとしていたため、人間に地位や能力の差があることは当然の
事実であると考え、「配分的正義」を"正義の原則"と説いたのであった。
承知のように、ギリシア神話に登場する「正義の神」は、片手に"公正"を意味する「秤」を持ち、もう一方の手には"裁き"を意味する「剱」を持って
いる。正義の神は、正義の追及は、社会秩序を維持するために「法」を尊重し、皆がそれを誠意をもって守ることが前提とされる。そして、法を破る
者は、法によって裁きが行なわれ、それに対して「刑罰」が下されることが"正義の実践"となるということを意味しているのだ。
このように、古代ギリシア時代は、「正義とは何か」という、人間にとって極めて基本的な問題についてエネルギッシュな思索が展開された時代
であった。だが、残念なことに、現代においては、そうした古代の哲学者の偉業を深く学び、それを現代における"現実の世の中"で活かそうとする
人は極めて少ない。
例えば、政治の世界である。「国の政治を担う者には、確固たる哲学と理念がなければならない」という考え方は、現代日本の空虚な政治の世
界において再考されるべき問題である。ところが、現代の日本の政治においては、常に政党間における権力抗争ばかりが台頭し、本来、議論す
べきことが議論されずに政治が行われてしまう傾向にある。
日本は、しばしば、西洋の人々から「日本の政治は空虚である」と評される。その理由は、外国のマスメディアで、日本国内におけるそうした政
治のネガティブな風潮について報じられることがあるからだ。
幸い、日本には、考えるための環境・材料が豊富にある。長い歴史を通して円熟した"絢爛たる日本文化"に身を置く我々日本人は、さらに自分
たちの文化の「尊さ」「重み」に触れ、それを基盤として、少しでも「考えるべき問題について考える」ということを試みるべきではないだろうか。
アリストテレスの言う、「国家形成の基本となる原理は、"国民が相互に善を与え合う"」という考え方・・・。日本の世の中を振り返る今、私はしみ
じみとこの言葉を噛み締める。
注)
アリストテレスは、トラキア地方のギリシア人植民地スタゲイロスにおいて、マケドニア王の侍医の子として生まれた。17歳の頃にアテネに移り、
プラトンが開いていたアカデメイア学園の門を叩く。その後、アリストテレスは、学園で20年にわたって研究する一方、プラトンを助けて後輩の指導
も行った。プラトンの死後は、アテネを離れ、マケドニア王フィリップから招聘されアレクサンダー(当時13歳、後に大王になる)の家庭教師になっ
た。マケドニアがアテネを支配すると、アリストテレスはアテネに戻り、市の東北郊外にリュケイオン学園を開設した。主な著書は、『形而上学』『ニ
コマコス倫理学』『政治学』『アテネ人の国制』『修辞学』など。
「人間の尊厳」を追及した中世イタリアの神学者、トマス・アクィナス
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)は、中世イタリアのスコラ学最大の神学者・哲学者であり、同時に、ドミニコ会士、教会博士
(doctor ecclesiae)でもある。
トマスの代表的著作は、言うまでもなく『神学大全』(Summa theologiae)である。12世紀から13世紀にわたって多数のスコラ神学者(オセール
のギレルムス、ヘイルズのアレクサンデルなど)によって『神学大全』(Summa theologiae)が執筆されたが、その中でも、トマス・アクィナスの著書
が最も評価されているといってよい。
トマスの『神学大全』は三部から成るものであり、第一部の執筆は1266年、彼が41歳の時である。1274年、トマスは第三部の最終部分を仕
上げようとしている時期にこの世を去ってしまったが、ドミニコ会における彼の友人、ピペルノのレギナルドスが、トマスの『命題集注解』(Scriptum
super libros sententiarum)から該当する部分を抜粋・編纂して完成させた。
彼はこの中で「人間の生命」、そして「人間の尊厳・尊厳性」の概念について詳細に論じている(トマスが用いるラテン語のdignitasは、「尊厳」の
他、「威厳」「品位」「重要性」「優位性」「威厳」「身分」「役割」などを意味するものだ)。
トマスは、こう述べる。「生命は神によって人間に授けられた何らかの賜物であり、殺し、かつ生かすところの彼方の権能の下にある」と。これは、
トマスが『神学大全』において構築した「人間の生命」についての”大前提”として解することができる。
キリスト教においては、旧約聖書以来、生命は神からの賜物であり、神と呼ばれる存在は、「命の道」を提供する「生ける水の泉」であり「命の
水」である。そして、新約聖書においては、神は、「豊かな命を与える者」であり、「生命を与える霊」であると述べられている。
中世の神学者は、「神」や「生命」について、それらの全てを聖書の立場から立脚して論じたわけであるが、トマスの場合はそうではなかった。
トマスは、それらを探求するにあたり、古代ギリシアのアリストテレスから強い影響を受けた。彼は、アリストテレスの著書『政治学』(Politica)の
一節を引用し、『神学大全』においてこの世に存在する生命・いのちの価値について格付けを行う。
即ち、生命の"階級"は、@低位に位置する存在は「生きているもの」(vivum)、A中間に位置する存在は「動物」(animal)、B上位に位置するもの
は「人間」(homo)であり、Cこれらの最上位にあるものが命への導き手としての「主」である、と。
トマスは、植物のように生きているところのものは、一般的にはすべての動物のためにあり、そして動物たちは人間のためにあると説く。だから、
もし、人間が植物を動物に役立たせるために使用し、動物を人間に役立たせるために使用したとしても、それは決して不当なことではない。この考
え方は、アリストテレスが『政治学』第1巻第8章で述べているところからしても明白である、と述べた。
即ち、植物を動物の使用に供するために、また動物を人間の使用に供するために殺すことは、神的な秩序づけそのものからして許されている。こ
れは、事物の秩序においては、「不完全なものは、より完全なもののために存在する」という大前提から出発し、生成のプロセスにおいても、まず
第一に植物のように@「生きているもの」があり、次にA「動物」、そしてB「人間」が出現したのであるから、植物は動物のためにあり、人間は動
物のためにあるということだ。
そもそも、すべての人間は動物の一種である。そして、人間は、他の動物よりも上位に位置づけられている存在である。そうである理由は、我々
人間には、理性によってなされる「真理についての認識能力」があるからである。
理性は、まさに「神の似像」(imago Dei)といえるものである。トマスは、「理性」と「知性」は、人間にあってはそれぞれ別の能力であると捉えるこ
とはできないとした。即ち、理性的被造物が、それ以外の被造物を越える所以のものは「知性」「精神」にある、としたのだ。
非理性的な存在である動物や植物も、人間と同じように"神的な秩序づけ"によって維持されているのであるが、それらは「理性的生命」を持って
はいない。それらは、常に、他者を介して「自然本性的な衝動」によって動かされているだけのことなのである。言うなれば、動物や植物は自然本
性的な奴隷状態にあるのであり、究極的には、「人間の使用に供される宿命を背負っている」ということである。
『神学大全』では、「人格の品位」「諸々の人格の重要性」「人格の威厳」「人格の重要性」という表現が用いられている。この「人格」という語は
"persona"であり、「品位」「威厳」「重要性」という語は"dignitas"が用いられている。
当初、トマスは、personaという語を、「神について適切に語られる」、あるいは「神に対して最高度に適合する」と定義づけをしていた。そして後
に、何らかの"優越性"、つまり、dignitasの要素を有する人間(さらには、理性的本性を有するすべて固体)に対してpersonaと呼ぶようになった。
トマスは、理性的な本性において自在するところのものは「非常な優位」を持つ、と説く。ここにおいて、トマスは、人間を、”理性的なもの”と捉え
ていたことがうかがえる。
非常な優位・尊厳性を保持する者は、「理性」を巧みに作用させ、認識したり知的に捉えることができる限りにおいては、そうした存在者を人間と
して解することができる。トマスにおいては、非常な優位・尊厳性のある人間とは、いわゆる「理性的存在者」のみを指す。罪人や悪人などの非理
性的動物としての人間は、確かにヒトではあるが、そうした者たちを「尊厳」の所有者とみなすことはできない、とした。
注)
トマスは、ナポリ郊外のアクィノ領・ロッカセッカ城で誕生。5歳の時、モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院に入り、その後、ナポリ大学で学
ぶ。1244年、ドミニコ会に入会、45年にパリでアルベルトス・マグヌスに師事。1256年には神学教授資格を授与され、同年、第1回パリ大学神
学部教授に就任。72年にはイタリアに戻りナポリ大学などで教えていたが74年に没した。
ホッブスの「社会契約論」について
ホッブス(Thomas Hobbes, 1588-1679)は、主著『リヴァイサン』において欧州で初めて社会契約論を形作った哲学者である。社会契約論は、「人
民がそれぞれの権利を保護する目的を実現する上で、人民自らが相互に契約を結ぶ」という考え方として知られている。この考え方は、いわゆる
自然法思想の発展によって誕生したものである。
ホッブスによると、人間は、「自己の生命」と「身体の保持」を欲する動物である。また、それと共に、どんな状況に遭遇しようとも、自分の生命を
維持するために、自分が望むままに自分の力を使う「自由」を持っている。
本来、すべての人間は、自然によって、肉体的にも精神的にも平等につくられている存在者である。そうではあるが、時には、極端に肉体的に強
い者もいれば、精神面で抜群に優れている者もいる。だが、総じて考えると、個人差こそあれ、「"本来の自然状態"においてはすべての人間は
"平等"につくられている」といえる。このような理由から、人間は本来、自分が望むこと・したいことをする、という「自然権」を持っていると解すること
ができる。
ところが、ものの価値観、人生観、価値観が異なる者の間で、同時に自分が望む行為を行おうとする時、しばしば衝突が起きる。なぜならば、各
人がしようとする行いによっては、ある種の利害関係が生じるからである。世の中の常として、互いに利害関係が生じると、人間は、自分自身の望
みを叶えるために衝突することになる。
この場合、生じるものが"単なる衝突や奪い合い"であればまだよいが、時には、自分の利益を実現するために暴力を用いて相手を服従させた
り、殺したりすることもある。これは、人間が持つ愚かな一面であるが、これこそが「万人の万人に対する戦い」を招く原因になるものである。
このように、自然状態においては、人間社会は常に、"ある種の戦争状態"にあるといえる。すべての人間が一方的に自分の自然権を行使しよう
とするならば、究極的には自分の生命をも危うくする危険性がそこにあり、たとえこの世に生きていられたとしても、自分の自然権そのものをも失う
ことにもなる。
人間は、このことに気づいた時、「万人の万人に対する戦い」を自ら放棄する。即ち、人間相互における平和を築く目的で、すべての者が安心し
て暮らしていくことができるように自身の自然権を放棄し、これを一つの権力に委ねることの重要性を認識する(ホッブスは、このような"理性"によ
って発見された法則を「自然法」と呼んだ)。
さらに話を進めると、このような考え方に基づき、人々は相互の利益を守るために社会契約を結び、自分の権利を一個の"君主"や"合議体"に譲
渡する。この形こそが、いわゆる「国家」そのものである。そして、人々から権利を譲渡された者、すなわち"主権者"は、人々との契約に基づいて
義務を履行するために絶対的権力を持ち、それを実行する。
言うまでもないことであるが、人々は、一旦、契約を結ぶと、主権者の命令には絶対的に服従することが求められる。その理由は、人々が主権
者の命令に服従しないことが起因し、主権者の権力や権威が弱くなってしまうと平和な社会を維持することが難しくなってしまうからだ。そうする
と、再び、「万人の万人に対する戦い」が蔓延る自然状態へと戻ってしまうことになる。
このように、ホッブスの社会契約説は、主権者の絶対性を是認するものであった。そうしたことから、彼は、絶対君主や独裁者の擁護者であると
いう批判も受けることにもなった。しかし、個々人における"平等な自然権"という考え方から出発して、「社会契約を通して安全に暮らせる国家を創
造する」という理論は、「国家主権の絶対性は、"国民一人ひとりの自然権"に依拠するものである」という理想的な考え方として、その価値を大き
く評価できるものだ(この考え方は、近代民主主義の基本原理として、後に、ロックとルソーに引き継がれた)。
注)
ホッブスは、イギリスの西南部マクスベリにて牧師の子として誕生。自然権と社会契約説を基盤とする近代国家論の創始者として有名な哲学者
である。オックスフォード大学で学んだ後、貴族の家庭教師となる一方、ガリレイ、デカルトと交流を図る。主著は、『リヴァイサン』『法学原理』、3部
からなる『哲学原理』など。
非理性的な権力に対する「抵抗権」をドラマティックに登場させたイギリスの哲学者、ジョン・ロック
イギリスの哲学者、ジョン・ロック(John Locke, 1632-1707)は、自然状態とは、「人間が自然法の範疇において自分の行動をし、自分が望むま
まに所有物と身体について維持できる自由かつ平等な状態である」と考えた。そして、そこには理性が支配しており、理性がすべての人間をコント
ロールしている、と唱えた。
ロックは、自然状態においては、人間の「生命」「自由」「資産」などの安全を確保するために必要とされる@「正しい尺度としての"法"」、A「一
定の方法に従って紛争の解決をはかる"公平な裁判官"」、そして、B「正しい裁判が行われた後にそれを執行する"権力"」という三つの存在が欠
如していると考えた。
自然状態においては、人間は自由で平等であるのだが、これら三つが欠如しているという理由から、相互に敵対し、悪い条件の下で生活するこ
とを余儀なくされている。そのため、人々は、安心して平穏に暮らしていくことができるように、自然状態において保持していた自由を放棄して、契
約を結び、"その権利を共同社会の代表者に委ねる"のである。ここにいわゆる「国家」という一つの政治形態が成立することになる。
ロックは、自然状態や自然法についてはホッブスとは見解を異にしていたが、「人々が自分たちの安全を実現するために社会契約を結び、国家
をつくる」という観点においては同じ考え方を持っていたと判断することができる。
ロックの社会契約論の特徴としては、いわゆる人々における「抵抗権」の存在を明確に述べ、それが広く認められているというところにある。これ
は、為政者が国民に委ねられた権力を行使する際に、"委ねられた権力の範囲を超えて国民を苦しめる"という事態が起きた時、「国民はこれに抵
抗する権利を持つ」という考え方である。
この考え方は、イギリスの名誉革命(Glorious Revolution)における理論的根拠づけとしてダイナミックにその役割を果たし、後のフランス革命、あ
るいはアメリカの独立運動においても多大な影響を与えた。
注)
ロックは、イギリス西南部リントンにおけるピューリタンの家に生まれる。後にオックスフォード大学に入学するが、大学のスコラ学に失望。学外で
医学や自然科学、デカルトの哲学などを学ぶ。一時、オランダに亡命し、そこで『人間知性論』を発表。名誉革命後はイギリスに帰国し、新政府の
顧問を務めた。代表作は、『統治二論』『寛容についての書簡』など。
フランスの啓蒙思想家・ルソーが唱えた「社会契約論」
ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)は、ホッブスやロックの社会契約説がヒューム(David Hume, 1711-1776)によって批判された時、
さらに明瞭に社会契約説を再構築し、すべての人民を主権者とする直接民主主義の思想を打ち出した。
ここでまず、ヒュームについて述べる。ヒュームは、スコットランド出身の哲学者・歴史家である。彼はエディンバラで生まれ、地元のエディンバラ
大学で法律学を学んだが、哲学に深く傾向する。
ヒュームは、経験論を唱え、従来の形而上学を批判し、実体や因果法則などの観念は主観的な認識に過ぎないと主張した哲学者である。彼
は、政治思想において、ホッブスが唱えた自然状態やロックが唱えた社会契約説を強く批判し、公共的利益を目指す自然発生的動機に国家・社
会の形成の起源を求めた人物として知られている。主著は、『人性論』『道徳・政治論』『英国史』『人間知性研究』など。
ルソーは、自然状態における人間は、いわゆる"自然人"であり、喉が渇けば小川の水を飲み、空腹になれば自然の食物を食べ、眠くなると樹の
下で寝る「幸福な未開人」である、と捉えた。ルソーは、このような見方から、「人間には何ら社会的な不平等は存在しない」と考えた。
幸福な未開人である人間は、パーフェクトな自由・平等・独立を持っているが、やがて人口が増えると、社会的な不平等が生じる。つまり、限られ
た土地において多くの者たちが自分の権利を主張し、やがて、平和であった自然状態が崩壊し始めるということだ。ルソーは、さらに、「土地に囲
いをして、"これは俺のものだ"と宣言することを思いつき、そしてそれをそのまま信じるような単純な人々を見出した最初の者が、市民社会の真の
建設者である」と述べる。
一定の土地において人間の人口が増えてくると、人間と人間のあいだに不平等が生じ、社会生活において裕福になる者が出てくる一方、貧乏
な者・苦しい生活をせざるを得ない者が出てくる。そして、厳しくコントロールされた支配と隷従の関係も現れてくる。
ホッブスが説いたように、このように、人々の間で"ある種の戦争状態"が始まると、人々は、富と権力を持っている人々のためにつくられた法律
や政治システムを認めるようになってくる。そして、一度そうなってしなうと、とりわけ富と権力を持っている人々が行使しようとする"不当な権利"を
放置し、それを正当化させてしまうだけでなく、人類全体を労働、隷属、悲惨という権利意識の欠如した世界に陥れる原因をつくってしまう。ここま
での考え方は、それまでの社会契約説における考え方であるが、ルソーはこれをさらに発展させる。
ルソーは、「人間は、自然状態にとどまることができなくなったら、互いの利益が衝突して共に滅びることを避けるために、巧みに生活スタイルを
変え、"より大きな力を生み出す試み"をするべきだ」と主張する。
この「力の総和」は、多くの人々の協力によって生まれるものである。人間の「力」と「自由」は、それぞれの自己保存のためには必要不可欠なも
のである。したがって、力の総和を実現しようとする場合においても、個々の人間の力と自由を侵害するような行為は許されるべきでないとした。で
は、一体どうしたら自然人が持っている「自由」と「平等」を守れるのであろうか。
ルソーは、それは、個人の身体と財産を守るために、「共同の力を駆使して全力で保護する"総合形態"をつくり出す」ということによって実現され
ると述べる。この"総合形態"を構築する上で、いわゆる「社会契約」が大きな役割を果す。
この社会契約は、各構成員は、「"自分自身"を、"自分が保持する権利"と共に、共同体の全体に譲渡する」という考え方を持つことから成り立
つとされる。その理由は、こうである。すべての構成員が全面的に共同体に没入するのであれば、自己と共同体は一体となることが可能となり、こ
れによって"完全なる自由"が確保され、"欠陥のない協力"を実現することが可能となる。つまり、「すべての者が"自らの身体"と"すべての力"を
共同のものとし、”一般意志”(公共の利益を目指す意志)の最高の指導の下におく」、そして、「すべての者は、他の者について、"全体を構成す
る一部"として受け入れる」ということである。
このようにして、ルソーの社会契約説は、一つの"スピリチュアルな集合体"を形成する。この集合体は、投票者と同じ数の構成員から成り立ち、
共同の自我や意志を保持する"極めて統一性のあるもの"である。
さらに、この公的人格は、"受動的に法に従う"ときには「国家」と呼ばれ、"能動的に法をつくる"ときには「主権者」と呼ばれる。また、他の同種
の集合体と比較する際には、「国」と呼ばれる。人々は、これを大前提として、一旦、生まれながらにして持っている自由と、自分が欲するすべて
の対象物に対する権利を喪失し、新たに、確実に保護された「社会的自由」と「所有権」を獲得することができる。この「社会的自由」は、いわゆる
一般意志の制約の下にあるものだが、自然的自由よりもクオリティーの高い「道徳的自由」といえるものである。
ルソーは、絶対的権力を誇る政府は、「人民の意志の執行機関」であると唱えた。この考え方は、言うなれば、"直接民主制"を表象するもので
あり、この政治思想は、後のフランス革命に大きな影響を与えたばかりでなく、他の国々はもとより、日本の自由民権運動においても大きく影響を
与えた。
注)
ルソーは、スイスのジュネーブで時計職人の息子として生まれたが、母は数日後に他界。7歳頃から父と共に小説や歴史を読み始める。やが
て、家庭の事情で牧師に預けられ、後に彫金工の弟子となるが、3年後に放浪の旅に出る。1731年にシャンベリーのヴァランス夫人に救われ、
愛人となる。1740年、フランスのパリに出たルソーは、後に作家・思想家のティドロ(Denis Diderot, 1713-1784)などと親交を深める。1745年に
は、下宿の女中を愛人とし、5人の子供をもうけるが、子供たちを次々と捨てる。ルソーは幼い頃から徒弟奉公や放浪などを通して民衆の生活の苦
しみを自らの肌で経験したわけであるが、そうした苦しい経験が、彼が徹底的な現状批判を展開した原因となったのではないかと伝えられている。
ルソーは、紆余曲折した人生を送ってきたが、一貫して、「人間とは何か」、「社会とは何か」という根本問題について問い続けた哲学者であった。
主著は、『学問および芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』『新エロイーズ』『エミール』など。
人民のための官を主唱した”東洋のルソー”、中江兆民
中江兆民(1847−1901)(1)は、ルソーの『社会契約論』を翻訳した『民約訳解(やくげ)』を出版し、フランスの民権思想を日本に紹介したことか
ら、広く「東洋のルソー」と呼ばれた。
兆民は、明治政府による自由民権運動の弾圧を受ける一方、伊藤博文などによる憲法制定作業が進められているという状況に大きく失望した。
1887年(明治20年)になると、兆民は『三酔人経綸(さんすいじんけいりん)問答』(2)を発表した。彼はこの著作の中で、民権を大きく二つに分
けた。
兆民は、一つを
(1)「回復的民権」
と呼んだ。これは、いわゆるイギリスやフランスのように”人民が自らの手で民権を勝ち取る形態”である。そして、もう一つを、
(2)「恩賜的民権」
と呼んだが、これは、”為政者から恵み与えられた民権”として捉えるものだ。
この分類によると、日本の民権については、(2)の「恩賜的民権」であると解することができる。
それ故、兆民は、日本が取り組まなければならない課題は、まず第一に恩賜的民権を発展させ、人民の努力によってそれを回復的民権へと変
革していくことであると述べた。
兆民は、この課題をスムーズに進めていくためには、目の前の利益ばかりを追求するのではなく、それぞれの人民が深く思索をするような社会づ
くりを通して、「皆が、哲学する世の中」に変えていかなければならないと主張したのであった。
兆民は著書『一年有半』において、
「我日本古より今に至る迄哲学無し、・・・哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意無くして、浅薄を免れず」
と述べ、日本には、古来から何ら哲学はないという歴史性に注目し、哲学することなしには物事の道理を深く理解することは不可能であると説いて
いる。
まさに"東洋のルソー"、兆民は、当時の人々に「深く哲学せよ。そうでなければ自らの国の進むべき道がわからない」と説いたのであった。
注)
(1) 中江兆民は、土佐(高知県)出身の政治家・思想家であり、土佐藩士の息子としてこの世に生を受けた。儒学や蘭学を学ぶことに専心し、
24歳になると政府留学生としてフランスに渡った。フランスでは、哲学、史学、文学などを学んだ。帰国後は、もっぱら新聞によって専制政治
を激しく批判し、急進派の自由民権運動の推進者・理論的指導者として活躍した。
(2) この作品は、a.<理想主義を唱える洋学の紳士>、b.<問答無用の武力を行使して海外侵略を主張する豪傑君>、c.<現実主義者の南
海先生>の三人による鼎談というスタイルで書かれたものである。これは、いわゆる「日本はいかに近代化を図るべきか」という問題について
議論された作品として知られている。
死は善きものである・・・『ソクラテスの弁明』(プラトン著)から
ソクラテスは、およそ70歳の時、青年たちを堕落させ、また国家の認める神々を認めずに、別の新しいダイモニア(神霊)をあがめるがゆえに、と
いう理由から裁判にかけられた。
ソクラテスの裁判は、一般の市民から抽選で選出された五百人の裁判官によって行われた。裁判は投票で二度行われ、二度目の裁判では36
0対140で彼の死刑が宣告された。
ソクラテスが一生涯を通して探求してきたことは「善く生きること」であり、多くの人々にそうした生き方を勧めることによって、国家に対しても最大
の貢献になると信じていた。それ故に、自らが被告人として法廷に立った時も、堂々と自分の無罪を主張し、熱弁をふるった。しかし、結局のとこ
ろ、ソクラテス自ら主張した弁明は法廷では認容されることはなく死刑が言い渡されたのであった。
法廷における弁明では、ソクラテスの「死」に対する考え方が明確に述べられた。即ち、彼は、「死とはいかなるものであるかはわからない」と述
べ、わからないものを恐れるということは愚の骨頂であると主張した。
第一に、ソクラテスは自らの弁明において、自分自身を含めて「死を認識している者はいない」と述べた。彼の弁明は、特定の宗教に基づいて主
張していたり、哲学の一派の考え方に傾向して主張しているわけでもない。人間は神ではないので、「死んだらどうなるのか」ということは誰にもわ
かり得ないというごくシンプルな論法であった。
ソクラテスは「無知の知」を引用し、「人々が死を"恐ろしいもの"と考えることには何ら合理性は存しない」ということを明確にしようと試みた。即
ち、このことは、「無知の知」は"自分自身が何も知らない"ということに気が付くことが重要である、ということを示唆しているものだ。だから、彼は、
「我々は死について何もわからない」のであるから、そのように「わからない」と認めなければならないと説いたのである。
ソクラテスにとっては、結局、そうすることが「自己の無知を知ってる」という証になったのである。またこれとは逆に、何もわからないにもかかわら
ず独断的な考えを持ち続けることは、「自己の無知を知らない」という証明になってしまうことになる。
さらに、死を知らないということが明確になると、「死は恐ろしい」という判断も間違っているというロジックが成り立つ。その理由は、「死とはいった
い何であるのか」ということを知らないにもかかわらず、死について無闇に恐れるということは極めて愚かなことであるからだ。
次に、ソクラテスは「死は善いものだ」と述べた。彼は既に、死については全くわからないと断言しているので、一見すると矛盾しているかのよう
に思える。しかし、これは、死に対する数ある考え方を目の前にして、「いったいどれが妥当で正しいのかがわからない」ということを示唆するもの
である。
実際問題、ソクラテスほどの哲人であっても、一度も死んだ経験がない以上、それを知ることは不可能である。だから、彼は、これを断定すること
を回避したのだ。不完全な存在であるはずの人間であっても、本人が信じる宗教の信仰心から死後も魂は残ると考える人もいれば、それとは逆
に、学問的・自然科学的な根拠から、それを否定する者も存在するということは当然のことである。彼がこの問題について明確な答えを出さなかっ
たその理由は、極めて理性的な立場から「間違いのない"知"の範囲内にとどまろう」とするスタンスがあったからだ。
ソクラテスは、死後の魂について二つの考え方を打ち出した。一つは、(1)「死によって魂は無に帰する」という考え方であり、もう一つは、(2)
「死によって肉体は滅びても、魂は生き続ける」という考え方である。
ソクラテスはこの二つのうちどちらが正しい考え方なのかという明確な答えは出さなかった。ただ、いずれの場合でも、死は善きもの、つまり、正
しく生きる者にとっては何も恐れる必要のないものであるということを主張したのだ。
以上、プラトンが著した『ソクラテスの弁明』に記述されているソクラテス理論を簡単に紹介したが、結局、ソクラテスは、法廷で「死刑」の判決を下
された。今、我々現代人は改めてソクラテスの生き方について触れ、「ソクラテスは、一生を善く生きることに全力を尽くし、祖国に対しても”最高の
善”を実践した人物であった」ということを再認識するべきではないかと私は考える。
プラトンの「哲人政治論」と「魂」について
1 「哲人政治論」とは何か
本来、人間が「生きる」ということは、「考える」ということである。即ち、すべての人間は、何らかの事物について考え、思索し、自らの意思に基づ
いて自分の行動について決定する。行動するためには「どう行動するか」ということを考えなければならないが、そうした一連の思索をする上で重
要なことは、「"理性的に"考える」ということである。
言うまでもなく、"社会"という組織体は、自分一人だけの力で成り立っているわけではない。だから、私利私欲を追求するためだけでなく、他人
の利益や幸福を追求するという目的のためにも行動することが求められる。
思うに、そうした理屈は、普通の人だけでなく、罪を犯して刑に服している囚人でもわかっている理屈に違いない。だが、我々人間は、それがわ
かっていても、なかなか理屈通りに行動することができない。言うなれば、これは、人間の「性」(さが)である。では、ここで、「考える能力」を、自分
の利益だけではなく他人の利益のためにも使うということは一体いかなる意味合いを成しているのか考えてみよう。
自分の利益だけではなく他人の利益をも考えるためには、正義、とりわけ「社会正義とは何か」について考えなければならない。現代における社
会正義のあり方を考えるにあたり、今までの人類の歴史において最も参考となる哲学や思想の一つは、古代ギリシア哲学の正義の思想である。
古代ギリシア哲学が栄えた紀元前5世紀前後の時代は、人類が「人間としてどのように生きなければならないのか」という問題に目覚めた時代
でもある。即ち、中国には偉大な哲人として孔子が登場し、インドではガウタマ・ブッタが「悟り」を開き仏教を広める。そしてギリシアにおいては、
「人生、いかに生きるべきか」を大衆に啓蒙する哲学者が続々と登場した。我々現代人が今、このような世界の歴史を振り返れば、人類は、中国、
インド、ギリシアにおいて、ほぼ同じ時期に「人間が存在する目的」について思索を展開したということがわかる。
承知のように、古代ギリシアの都市・アテネにおいて、最初に熱弁を奮う若手の政治家に対して「正義とは何か」と問うたのはソクラテスであっ
た。そして後に、彼の弟子・プラトン(Platon, 427-347B.C.)(1)が人間の「徳」を吟味し、これを"個人"の問題から"国家"の問題へと展開させたの
だ。
プラトンは人間の魂を三つに分類し、それを「魂の三分説」と説いた。即ち、@イデアを追求する不滅の部分である「理性」、A現実の世界に存
し、かつ人間の肉体に結びついている「欲望」、B理性と欲望の仲介的な部分である「気概」に分類したのだ。
プラトンはさらに、理性は「知恵」の徳、欲望は「節制」の徳、気概は「勇気」の徳を備えており、これらの三つの徳がバランスよく調和すると「正
義」の徳が実現されると説いた。
プラトンは、「知恵」「節制」「勇気」、そして、「正義」をギリシアの四元徳と呼び、魂が四元徳になる形が理想とされるべき姿とした。プラトンは、こ
れを現実の国家組織に置き換え、理性的にイデアを追求する「知恵」の徳を備えておく必要があるのは統治者であり、「勇気」を備えるのは防衛
者、「節制」に努めるのは生産者であり、これらが互いに調和すると無理なく「正義」の国家をつくることができると説いた。このようなメカニズムの
下、プラトンは、"優れた知恵を持つ理性的な者"が統治階級に属するべきであり、"理性的な判断で哲学する者"が政治を行なうべきであるとする
「哲人政治」を提唱したのだ。
プラトンは、「統治者が持つ"政治権力"と"哲学"が一体となる姿」を理想とし、それを強く主張した。簡単に言えば、哲学者が政治を行うか、それ
とも政治家が理性的に哲学するかのどちらでもよいと述べた。
2 人間の「魂」について
プラトンは、基本的にはソクラテスの教えを継承している哲学者であるが、一方では、オルフェウス教の影響を強く受けていた。彼は、魂の不死
の立場に立って輪廻思想を受け入れ、魂の死後の世界への旅立ちから、その世界における裁判や賞罰という有り様を描き、新たなる再生に至る
までの様子を詳細に論じている。
プラトンは、人間の「死」について次のように定義している。
「では、死とは、魂の肉体からの分離に他ならないのではないか。即ち、一方では、肉体が魂から分離されてそれ自身だけとなり、他方では、
魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。死とは、これ以外のなにか他のもので
ありうるだろか」(2)
「魂が不死であり不滅であることには疑問の余地がなく、われわれの魂は本当にハデス(冥界)において存在することになるだろう」(3)
プラトンは、「イデア論」において、真の知を追求しようとする哲学は、究極的には、永遠の真実在であるイデア(idea)に到達しなければならないと
主張した。さらには、目に見え、手で触ることができる感覚的な世界は"真の意味における実在する世界ではない"とし、それは、絶えることのない
"生成、変化、消滅の世界"であると解したのだ。
一方、生成、消滅することのない"永遠の真実在の世界"として「イデアの世界」が存在するとし、これは、自然的で感覚的なこの世の世界を超越
する世界であり、「"理性のみ"で知り得ることができる普遍的な世界である」と説く。
例えば、プラトンは、我々人間は、何かを「綺麗だ!」と感じる時、その"綺麗さ"は美のイデアによって綺麗だと感じるのであり、それは結局、イ
デアを通して現に存在しているに過ぎないと解した。
そもそも、人間の感覚的な個々の事物は、真の意味での存在ではない。それはイデアに依存しつつ、生成、変化、消滅するものである。それ故
に、このイデアこそが、生成し、消滅していく感覚的世界における「事物の根源」を成しているといえよう。
プラトンは、イデア論において、「哲学者は、人間と世界に関する真理探求の道においては感覚的で物質的なこの世界にとどまるのではなく、目
に見える世界を超越した真実 在であるイデアを目指すべきであり、究極的には善のイデアに到達しなければならない」と説く。
プラントンのこの理論は、肉体的・物質的な関心ではなく、精神的なもの、つまり「魂」への関心として述べられたものである。したがって、哲学者
は、可能な限り肉体的・物質的な世界から離れることを要し、"魂の浄められた純粋な在り方"を実現し、「真の知」に到達することを試みるべきな
のだ。
3 人間の「魂」は、裁判を受ける運命にある
プラトンにおいては、「死」は肉体から魂が分離することであるわけだが、では、死によって肉体から離れた魂は一体どこへ行くのであろうか。彼
は、「人間は死後の世界において裁判を受ける」としている。
即ち、魂は、一切の物質的なものはこの世に残して死後との世界に旅立つが、魂自身には生前の生き様が全て刻み込まれている状態となって
いる。生き方が刻み込まれた魂は、死後の世界において、裁判官に裁かれる運命を背負っているものだ。
『ゴルギアス』によれば、ゼウスの3人の息子がその裁きを行っているとされる。即ち、ゼウスは多くの子供をもうけるが、その中に、ミノス、ラダマ
ンテュス、アイアコスという名の3人の息子たちがいる。ミノスとラダマンテュスはフェニキアの女王であるエウロペとのあいだの子で、アイアコスは
ゼウスと川の精(ニンフ)のアイギナとのあいだの子である。
裁判においては、@ヨーロッパから来る魂はアイアコスが裁き、Aアジアから来る魂はラダマンテュスが裁き、B両者が裁き難い魂に遭遇した時
にはミノスが最終的な裁きを行うとされた(4)。そして、魂についての裁判が行われ、判決が下されると、今度は、その判決に従って個々の魂は定
められた所に行き、賞罰を受けるという運命を背負うことになる。
注)
(1) プラトンは、はじめは祖父の名にちなんでアリストクレスと呼ばれたが、一説によると、ある教師に"肩幅が広い"ということで"広い"を意味
する「プラトン」という呼び名に変わったと伝えられている。文章を書くことを得意とする文学青年であったプラトンは、20歳ごろにソクラテスに出
会って深い感銘を受けた。それ以来、プラトンはソクラテスの影響を受けながら真理探究の道に没頭する日々を送るが、彼が28歳の時、ソクラ
テスが処刑され、彼は大きな衝撃を受けた。その後、各地を歴訪し、できる限り深く学問を修めることにエネルギーを注いだプラトンは、アテネ
市の北西郊外にアカデメイア学園を開設し、弟子の教育に専念した。
主な著者は、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『プロタゴラス』『ゴルギアス』『饗宴』『パイドン』『国家』『パルメニデス』など。
(2) プラトン著、岩田靖夫訳『パイドン』<岩波文庫>(岩波書店)64C参照。
(3) プラトン著、前掲書、107A参照。
(4) プラトン著、加来彰俊訳『ゴルギアス』<岩波文庫>(岩波書店)523E−524A。
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