・・・生井利幸が表現する「生」と「知」
哲学詩について話を聞きたいという読者の方は、銀座書斎にご連絡ください。
アポイントメントをお取りいただき、銀座書斎にご訪問いただくことも可能です。

思索と執筆の空間






尊厳そのものに”尊厳”はない


生きるとは、
喜び、悲しみ、快楽、辛苦、情愛、憎悪など、
様々な人間の情感が交じり合う"生の連続性"

生の連続性におけるその過程には、二つある

一つは、
誰もが通りたいと切望する、
十分に整備された歩きやすい道

そして、もう一つは、
雑草が生い茂り、
精を出して力いっぱい歩こうとしても、
そう易々とは前に進むことのできない暗黒荒野の道

人間は、この二つの道について、
自分の尺度で捉え、解釈し、理性的思考を介して自分の生き方を決めなければならない

私は今日のこの今、
人間の、”尊厳性の質”とはそれで決まるのだと、
切に、そして、深く感じてならない

思うに、
尊厳そのものに”尊厳”はない

尊厳は、
人間の、”生きる姿勢”そのものの中に、
意気揚々と輝きながら存在するものだ








性を知る"性"


人間が、自身の性を知る
それは一体いかなる境地なのか

腹を決める、という境地がある

腹を決めるとは、
言うなれば、命をかけて覚悟を決めるということ

命をかけて覚悟を決めた人間は、
命をかけて覚悟を決めた人間の心境について切実と感じることができる”理性的存在者”だ

金は、儲けようと思えばいくらでも儲けられる代物
だが、金を儲けても、道が見えない人間、不幸な人間は山ほどいる

理性的”識見”を介して世の中を観ると、
人間の幸福と不幸の定義・狭間がよく観える

よく観てわかることは、
”所有する金の額”と、”心の満足感”は比例しないということだ

今、再び、人間の性について考えてみたい

性は、
喜び、慈しみ、歓喜、そして、哀しみ、嫌悪、絶望について、
自身の”汗”と”涙”で経験することなしに、そう易々とわかるものではない

思うに、わからないものは、”わからなくてもいい”、と切実に感じる

なぜならば、理性的存在者としての自分の”性”を知るということは、
生身の人間であるならば誰一人と望まない絶望とどん底の地獄に突き落とされるほど、
最も悲惨、且つ、残酷な経験・境地そのものであるからだ






底なしの虚無からの第一歩


私は今、
久しぶりに、清めた思索の空間で哲学している

人間は本来、
理を唱えることが性

だが私は、長い間、理を唱えることから遠ざかり、
底なしの虚無に没していた

没したのも、私にとっての一つの選択
無論、いずれは浮上したかったが、ずっとそれができなかった
底のない虚無には、出口はないのだ

清めた思索の空間から望む空は眩しいほどに青い

この青さは、
歓喜に満ち溢れ、
無限とも思えるような力を私に与えてくれる

今、この青さを面前にして、
出るべきところから出て、
前に進もうとしている私がここに在る






理性を宿す土


心が渇く

心の中の、決して自らの手が届くことのない”底”から生じる熱情は、
心の真空の部分に”渇き”を作り出す

私は、この渇きを満たしたい一心で、
極めて無秩序に、無数の活字を噛み、
そして、また噛み締める

だが、それでも、
決してこの渇きが満たされることはない

西洋文明社会における尊厳に失望した後、
しばらくの間、私は、出口のない暗闇の中で、
これまでの人生において経験したことのない辛苦に耐え忍んだ

そして、ようやく、
私は、もがき苦しみながらも、
東洋文明社会における尊厳を全身全霊で感じ取り、
そこに、”光り輝く歓喜”を見た

今、私の目には、
”理性を宿す土”が映る

人は皆、幼い頃に土をいじる
だが、人は、やがて大人になり、
いじった土、そして、その匂いまでもすっかりと忘れてしまう

私は今、改めて考える

人は、幼い頃に自分の手でいじった土の”感触”と”匂い”に再び目を覚まし、
そこで初めて、
生きることの真意について”いじる”ことができるのではないだろうか、と







旋律の調和


蝋燭の火は燃える

力強く、
まるで、自らの”生”を力強く刻むかの如く

今、私の魂も燃える
燃える魂には、逞しく燃え続ける蝋燭の火がじわりじわりと迫ってくる

今、私の魂は泣いている
泣いているが、その奥底で、何か、ものを言おうとしている

力いっぱい、何とか言おうとはしているが、
結局、それが人の心に届くことはない

届かないのは、
熱情が足りないからなのか

恐らく、そうではない
届かないのは、
私の魂の旋律と、届けたい相手の心の旋律がうまく噛み合わないからだ

旋律の調和

果たしてそれは妥協の一種なのか
それとも、歩み寄りの一形態なのか

矛と盾、
それら双方の存在価値を尊重したい今の私にとって、
この、”旋律の調和”は、
あまりにも過酷な試練となって背中に重く覆い被さってくる






純真無垢の”尊さ”と”儚さ”


汚れのない清き存在者は、尊い

清き存在者は、
清きものをまっすぐに見る

まっすぐに見るその目には、
この世の何者にも負けない純真なる目力が、
実に、意気揚々と潜んでいる

清き目力は、どんなものでも透視する力を備えている

清き目力は、
見えるものがどんなものであっても、
勝手な思い込みで色を塗ることなく、しっかりと真実の色を見る逞しさを備えている

真実の色、
それは誰もが見たいと欲する色

だが、かりに、人がそのように欲したとしても、
汚れきった感覚に依存して生きている者は、
ある日、晴れて真実の色を見ることができたとしても、
あえて、それを好んで見ることはない

清き存在者は、清き感性を源泉として、目に映る色をはっきりと捉え、
真実の色を、真実の色として堂々と受け入れる

真実の色を、真実の色として受け入れるその行為は、
まさに、この世で最も清く、
そして、尊い行為であるに違いない

だが、そのような経験を積み重ねる清き存在者は、
一方では、最も悲惨な経験をする運命を背負うことにもなる

そのことを思う私は、
溢れ出る涙でいっぱいになる

そして今、
涙も涸れ、
どうしようもない刹那さに苦悩する自分がここにある






腹の底から湧き出る強靭な力


創作者は、心でものを捉え、頭で骨格を組み立て、
叡智で、この世にたった一つしかない独自の形を生み出していく

言うまでもなく、創作において新しい境地に到達するためには、
まず第一に、”鋭敏、且つ、極めて繊細な感性”を備えていることが求められる

多くの創作者は、全身全霊で、感性と理性を巧みに駆使し、
限りなく独自性に満ち溢れた”純粋”を追求することに専心する

創作者の中には、
感性を駆使し、
自らの作品を通して人類の進歩の一助になりたいと熱望する者もいる

そのような創作者は、言うなれば、
己の腹の中に、石よりも硬く頑丈な”まな板”をしっかりと置いている

そのまな板は、
力を込めてぶった切ろうとも、闇雲に投げ飛ばそうとも、
決してびくともしない極めて頑丈なまな板である

創作者は、腹の底で力強く作品を生み、
そうして生んだ作品を、
全力で、腹の底から”至上の熱情”を持って発しようと試みる

やがて、腹の底から発せられた作品は、
人の心を掴み、
意気揚々と、人に”より善く生きる力”を与えるようになる

腹の底から湧き出る強靭な力、
それはまさに、理性的創作者の”底力の源泉”といえるものだ






誠実は、事実を越える


事実は強い
時が過ぎ去ろうとも、時代が変わろうとも、
事実は、常に、自ら、意気揚々と立ち続けるための足場を維持することができる

事実は確かに強い
だが、私たち人間は、人が人である所以を考えるとき、
人間存在における”誠実の尊さ”を疎かにするべきではない

人が物事に対して誠実であろうとするその有様、
そして、人が他者に対して誠実であろうとする有様

私は、この有様こそ、
この世で最も尊い有様であると捉える

人の誠実さに価値を見い出そうとしないこの”心不在”の世の中、
このような負の世の中を作り出したのは、
間違いなく、私たち個々の人間である

今からでも決して遅くはない

私は、迎える一瞬一瞬において、
誠実さの”尊厳”を、
文明と文化を支え続ける様々な空気の中へ送り込みたいと切望する

誠実は、事実に勝る

逆に言えば、
誠実が事実に劣るものであるならば、
この人間社会は、いよいよ、落ちるところまで落ちる命運を背負うことになる






悲惨極まりない”文明の墓場”


わたしは今、
自然の暗闇の中で蝋燭を灯し、静寂の夜を過ごす
一歩外に出ると、人工的なネオンと雑音で蔓延する”文明の墓場”がそこに在る

文明社会は、一見すると、
極めて理知的な空間の中において、
理性と理性が、相互に交錯しているかのようにも映る

だが、わたしは、この現代社会においては、
文明それ自体が、
”尊厳性ある理性的思考”を遠ざける源流と化してしまっているように思えてならない

今、わたしは改めて思う
この文明社会は、人間の”純粋理性”に容赦なく”毒”を塗っている、と

来る日も来る日も、文明の利器に溺れる人間の様相をこの目で見るわたしは今、
一人でも多くの人間が、
この、毒された文明から適度な距離を保ち、
純粋理性を介して、”より尊厳性のある思索”を試みることを願ってやまない







植物の高貴な囁き


自然界は、
人間に”生きる”を教えてくれる

大自然に生きる動物は、力強く吠える
吠え、自らの生きるについて叫ぶ

だが、植物における”生きる”を切望する叫びは、”囁き”である

植物は、自らの”生きる”について、
まるで独り言を言うかのように囁く

吠えるわけでもない
動くわけでもない
ただ、じっと囁くのみである

その囁きは、まるですべての動物たちに、
沈黙の中で生きることの高貴さ、
そして、生きるを絶たれるとき、
何の抵抗をすることなく、”自然の摂理に従うことの高貴さ”を訴えているかのようだ

私は今、切実に、
この沈黙こそが、この世で最も高貴な有様であると感じてならない






人生最大の学びの母


人間は皆、現在の自分を高めたいという欲求を持っている
では、確実に自分を高めるために、我々人間は一体どうしたらよいのだろうか

考えられる方策はいくらでもある

自分の得意分野に没頭する
自分にとっての苦手な分野を克服する
新しい何かを探し出し、再び、新たな自己実現に挑戦する

実に、人間は、
様々な方法で自分を高めることができる

いかなるものを、いかなる方法で実行するかは、
まさに、個人の”自由な選択”に委ねられるもの

ただ、私は今、たった一つだけ、
すべてにおいて共通することを叫びたい

それは、
安易な道を選ぶことは何らの進歩にもならない、ということ

私は今、大声で叫びたい
”痛み”こそが人生最大の学びの母である、ということを








生きる真髄


見える道は、誰にもで通ることができる道
言うなれば、それは、目隠しをしても通ることができる道である

本来、人は、道について二つの捉え方をする
一つは、道は、通るためにあるもの
もう一つは、道は、自分でつくるためにあるもの

人は大抵、既に在る道を通ることで喜びを感じる
そして、人は大抵、その道を進む自分を見て、
自分は着々と前に進んでいるように感じる

既に在る道
人は、それを通るだけで、果たして本当の喜びを得ることができるのだろうか

世の中には、
既に在る道を進み、
その過程において、その道を進むことに意義を感じなくなる人もいる

そんな人は、ある時点において、
自ら、その道から離脱し、
自ら、勇敢に困難や辛苦に立ち向かい、
自ら、自分だけの道をつくろうと奮闘し始める

そして、人は、自身の存在を”砂利”や”雑草”として捉え直し、
不安定ながらも自分の力で道をつくり始める

この不安定さは、
容赦なく、身も心も震えさせるような”途轍もない不安感”へと変貌していく

この時である

この時、人は初めて、
理性的存在者として、”神から与えられた理性”の意味を切実と知るようになる

そして、人は、自分の背後に、自らが、
”絶望と不安の中で経験した辛苦の積み重ね”でつくった確かな道を振り返り、
そこに、”生きる真髄”を見い出していくのである








今、確かに、ここに在る


毎日、
心が泣いている

”より善く生きる”を欲し、
”より人間らしく生きる”を熱望する心がここに在る

乾いた心を満たそうと、
来る日も来る日も、心に栄養を与える

強靭であると同時に、極めて脆く、はかない様相を漂わせる”知”と”美”は、
頗る勇敢に、心の中の隅々まで散らばっている無数の隙間に入り込み、
血や肉、そして、骨までも脅かす

人間は、このような”脅かされた状態”で、
この上ない恐怖を経験する

恐怖は、生きる甲斐さえも奪い取ってしまうものだが、
この恐怖に屈したくない自分が、
今、確かに、ここに在る










悪行の源泉


すべての人間は、
常に、自分の良心に従って生きたいと切望している

人間は、そうすることで、
生きる意味を見い出すことができるから

だが、人間は、
しばしば、良心の声から耳を背けることがある

時には、極めて意識的に
時には、無意識的に

人間は、
人生の節目節目において、
理性からわき出る良心の導きに背くことがある

節目節目において、
意識的に、
そして、無意識的に










生きる神聖性


我を張ることは、身勝手な思いを通そうとすること
その身勝手は、自分の利のみを追求しようとする思いから生じるもの

一方、”自己を貫く”ことは、自分を一個の個として捉え、
個としての存在価値を認識し、
理性的に、”個としての道”を自分の力で歩もうとすること

個は、
尊厳性のある、絶対不可侵な存在者

人間は、個の尊厳性を認識して初めて、
少しずつ、”生きる神聖性”に気づくための理の空間に入ることができる

そもそも、人間は、
自身が置かれた環境に大きく影響される動物である

自己を貫く意義を知らない、あるいは、考えようとしない者は、
実に易々と、自己の生き方を環境に委ねようとする

今一度、
自己とは一体何か、について自問してみよう

静寂の中で、
”理”を基盤として自問するならば、
やがて、自分が歩むべき道が見えてくるだろう

人間は、そうした道を、自分自身の”目”と”理”でしっかりと見据えたとき、
極めて理性的に、生きる神聖性について捉えることができるのだ










噛み締める喜び


人は、喜びを感じたとき、
幸せを感じる

喜びは、
人に生きる意味を持たせ、生きる希望を持たせる

感じる喜びは、
言うなれば、心を満たす経験そのもの

心が満たされれば、
人は、自身の人生を生きる過程において、
ある種の満足感を得ることができる

思うに、人には、もう一つの喜びが賦与されている
それは、”噛み締める喜び”

噛み締める喜びは、
困難を乗り越え、自ら汗を流し、涙を流して到達する喜び

いわばそれは、自ら、身を挺して他者に喜びを与え、
その喜びについて、他者と一体となって体感し到達する喜びといえるもの

人は、この”噛み締める喜び”を、
自身の感性、そして、全身で皓々と体感したとき、
突如、眩しい光を見る

そして、その眩しい光は、
まるで、力強く流れ落ちる滝の水のような勢いで、
人に、”生きる醍醐味と価値”を与えてくれるのだ










良心の涙


人間は、しばしば、良心の声を聞く

人間は、自分の行動に疑問を感じたとき、
”こうしなさい”という囁きを耳にする

囁きが聞こえるのは、
自分自身において、それを聞こうとする姿勢があるからだ

では、たとえ囁きがあっても、
その囁きを耳にすることができない人はいるのであろうか

この世において、自己を自己と認識し、自己として生きている存在者である限り、
そうした囁きを耳にしない人はいないだろう

人間は、極悪非道な行為をするときでさえ、良心の声を耳にする

極悪は、悪の極め
非道は、人間としての道であらざること

通常の生活をしている人は、自分を、”常識人”と呼ぶ

だが、常識人といえども、
人生におけるどこかの時点で、道を大きく外し、転落の人生を歩む人もいる

結局、人間の生き方の価値は、自分の心の中で良心の声を聞いたとき、
”それをどう聞くか”によって変わるのだと思う

限りなく多くの常識人は、”人間の命”について、
それを、この世における最も大切なものだと断言する

だが、実際、人間は自らの生活において、
生きるか死ぬかの瀬戸際にいる他者を目の前にして、
しばしば、見て見ぬふりをすることがある











簡単に見える前は、前であって前ではない


広い場所に行くと、前がよく見える
なぜならば、広い場所は見晴らしがいいからだ

見晴らしがいいことは、決して悪いことではない

だが、見晴らしがいいということは、
”そこには何もない”ということでもある

人間は、思索に思索を重ねると、
前が見えにくくなる動物である

思索は、あちらこちらに土台を築き、そこに柱を立てる

ある柱は、
吹けば飛ぶような小さな柱

また、ある柱は、
強風が吹いても、決してびくともしない頑丈で大きな柱

思索の空間において様々な柱を立てている哲人にとって、
実のところ、前は、意外と見えにくい

哲人にとって、前は見えにくいが、
前が見えた時は、また、新たなる知恵に到達することになる










喉の渇き


喉の渇き
それは、一杯の水を飲んでも決して満たされない渇き

渇いたその状態は、
実に、”切実なる空虚さ”を意味するもの

その切実なる空虚さを満たそうと、
私はまた、新たに水を飲む

だが、それでもなお、
私の喉は渇く










文明を超越した本質


人は、重いものを抱えると肩や腰を痛める

肩や腰の痛みは、
言うなれば、体への負担を意味する痛み

人は、時として、
背中も痛める

背中を痛める人の中には、
”形而上学的重量感のある代物”を背負う人も存在する

形而上学を背負う人の背中は、
言うなれば、鉄板のような硬さ

そして、さらに、
西洋文明社会と東洋文明社会の狭間で形而上学を背負う人の背中は、
それを遥かに超越し、
”寂びた鉄板”の硬さを背負う運命にある

寂びた鉄板を背負って涙を涸らすか、
それとも、寂びた鉄板を背負った上でそれでも涙を流せるか

そのいずれかで、
”文明を超越した本質”に到達できるか否かの分かれ道となるのだ










不器用の高貴さ



不器用な人は、形どおりに物事を扱うことはできない

形どおりに扱うことのできない唯一の理由は、
形を形として扱うことに価値を感じないからだ

凡人は概して、
器用な人は繊細で、
不器用な人は鈍感であると捉える

一者は、
形を形として捉え、それを無意識のうちに受け入れる人

もう一者は、
”形というものは、もともとは無いもの”という認識に基づき、
形をそっくりそのまま扱うことに意義を感じることなく、
無意識のうちに独自の形をつくってしまう人

この二者のうち、一体どちらがより繊細で高貴な感性の持ち主なのであろうか

その判断は、自身の理の幅に委ねられるものだ










”混沌とした生きる”を味わうささやかな喜び


時というものは本来、
つかみどころがなく混沌としたもの

だが、私は、そうした時の連続性において、
あまりにも刺激的で、且つ、劇的な想いに心が満たされる

それは、芸術から感じ取る一滴の滴に大きく劣るものだが、
海岸における砂利の役割すら果すこともできない自分にとっての
”ささやかな喜び”といえるものだ

”生きる”とは、
実に、混沌としたもの

逆に言えば、
混沌としているからこそ、人は生きるを楽しめる、
と私は解する

言葉では表現できないほどのこの漠然とした時の連続性

人は、この時の連続性を受け入れて初めて、
ぼんやりと、”前”が見えるようになる











終わりの意味


終わりには意味がある
物事が終わると、それと同時に、また新しい何かが始まる

だが、新しい始まりもまた、
いずれは終わる運命に在る

そもそも、人は皆、この世に生まれても、
いずれは死に至る
いわば、人は、死に至るために生まれてくるようなものだ

よく考えてみると、
人は、必要な分だけ食べて、必要な分だけ善く生きればそれでいいのだが、
実際、東にも西にも、それだけで満足する人はほとんどいない

人は本来、食べても食べても、
またさらに、人よりも多く食べようと欲する”貪欲な存在者”である

その貪欲さこそが、
人を、人としての道から逸脱せしめ、
人を不幸に導くのだ

私は、ここで、もう一度叫ぼう

人は、必要な分だけ食べて、必要な分だけ善く生きればいいのだ

人はこのことさえ堅持し続ければ、
その短い生涯において、
そう滅多には、人を憎むような事態に陥ることはない











腹をくくる勇気


人は皆、考える能力を備えている
人は毎日、理性を駆使して自分の生き方について思索している

言うまでもないことであるが、単に、考えて行動することは誰にでもできる
しかし、いざという時、覚悟を決めて行動するということは、
決して、誰にでもできることではない

人は、その長い人生において、
何度か、腹をくくらなければならない時がある

私は、
人という動物は、本来、2つに大別できるのではないかと思う

一つは、腹をくくるべき時に腹をくくれる人
もう一つは、腹をくくるべき時に腹をくくれない人

人が人である以上、
人が備える能力や力量に大きな差があるとは思えない

要は、いざという時に、
”腹をくくれるかどうか”というところから差が出るのだと思う