
2004年4月の法科大学院開設に思うこと
(2003年7月26日)
2004年4月、日本全国の大学で、法科大学院(ロースクール)が開設される。現在、そのための準備期間ということで、テレビや雑誌などでは
様々な特集が組まれている。
私は今、マスコミの宣伝の影響力というものは実に大きい、と感じる。昨年ぐらいまでは、法科大学院と聞いても、「えっ、それ何?」、「大学
院・・・?、今までの大学院の法学研究科とどう違うの?」という疑問を持った人は多いに違いない。
数年前、私がアメリカの大学で教鞭を執っていた頃、ある法律家から、「いよいよ日本でもロースクールがつくられるらしい」と聞いて、すこぶる驚
いたことを思い出す。ロースクールといえば、アメリカが本場だ。承知のように、アメリカには、全土に実に多くのロースクールが点在している。連邦
政府制度を採用するアメリカ合衆国には、トータルで50の州がある。それぞれの州にはそれぞれの法域(jurisdiction)があるため、ロースクールの
志願者は、卒業後、自分が弁護士業をしたい”州”にあるロースクールに進学し、そこで弁護士になるというのが一般的なプロセスである。
ここで、”いかにもアメリカ的な”面白い話をしよう。それは何かというと、アメリカでは、地域社会で優秀な弁護士になるためには、べつにイエール
やハーバードなどの著名ロースクールを出る必要性は全くないということだ。アメリカでは、人々は一般に、テキサス州で弁護士になりたかったらテ
キサス州のロースクールへ行けばいいし、オクラホマ州であればオクラホマ州のロースクールでいいと考える傾向が強いのだ。
言うまでもなく、アメリカは、世界一の訴訟社会(litigious society)である。建国以来、いや、植民地の時代から、人々の権利意識は極めて高く、
「法は自分の権利を守るためにあるもの」という考え方が台頭していた。「法が人々の権利を守るという大前提の下、人々の権利を守りたい者たち
が法を学ぶ」という、実にプラグマティスティックな考え方が、その地に意気揚々と存在していた。
日本では、長い間にわたって、「封建制度が人々の権利意識に封印をしてきた」という歴史性がある。1868年の明治維新を経て近代国家とし
て再出発をした日本は、「個人」を尊重することを主眼とする西洋文明社会の近代思想を輸入したが、”東洋型”の「法は守るべきもの」という考え
方から抜け出ることができなかった。この傾向は、戦後も、そして、現在の21世紀社会においても大きな変化はない。
むろん、法は、「守るべきもの」だ。もちろん、これは当然の理屈である。世の中の人々が誠意を持って法を守らなければ、社会の秩序は乱れる
一方となることは明白である。
私がここで言いたいことは、法を守るのは当然だが、近代国家の市民というものは、法は、ただ単にそれを守るためにあるだけでなく、「自分の権
利を守るためにある」、べつの表現で言うならば、「自分の権利を主張するためにある」ということである。
西洋文明社会では、法は自分の権利を守るための「道具」(tool)である。ところが、日本では、法は、単なる道具ではなく、「伝家の宝刀」(last
resort)としての役割を持つにとどまっている。まさに、日本人の精神構造の中核を成す部分においては、法は、何らかの致命的な問題があった場
合にのみ使うべき代物、つまり、「伝家の宝刀」として考えられているのだ。
話を元に戻すが、2004年4月にスタートする法科大学院は、法学部卒業者だけでなく、他の学部卒業者も入学できる実に画期的なものであ
る。そして、その教育方法は、アメリカのシステムに似ているものだ。
来年から、より多くの人々に法律の専門教育を受ける機会が与えられる。そして、それと並行して弁護士になる人の数も増えていく。私は率直に
いって、このような動向は実に結構なことであると感じる。
今、このような日本の法学教育における歴史的変遷の潮流の中で、日本人は、徐々に、「個人」(individual)の意味、そして「市民」(citizen)の意
味を再認識する必要があるだろう。私は今、このことは、真に平等で自由な社会、個人の権利が十分に擁護される社会を創造する上において、
”真の意味での第一歩”になると考える。
古代から江戸時代までの「法の主役」・・・法は人々を統治するための道具であった
豊臣秀吉の死後、徳川家康は、1600年、関ヶ原の戦いにおいて石田三成が率いる軍勢を破り、1603年に家康は右大臣・征夷大将軍となり
江戸に幕府を開いた。これがいわゆる江戸時代の幕開けであり、二代将軍の秀忠、三代将軍の家光の時代を通して徐々に幕藩体制が整ってい
った。
江戸時代は、徳川幕府の絶対的な権力の下、強力な封建制度が行われた時代である。その時代には士農工商という厳格な身分制度が設けら
れ、その下にえた・ひにんという身分も存在した。徳川幕府は、庶民が外国人との交流を通して幕府の封建制度に反発することを警戒し、実に二
百年以上もの間にわたって鎖国政策を強硬したわけである。
我が国の近代への移り変わりの時期について、歴史上のどこをその基点とするかは色々な解釈があろう。幕末におけるペリ−来航を近代社会
に移り変わる劇的な突破口と捉える解釈もあろうし、徳川幕府が終焉を迎えた後、即ち、明治維新から始まる一連の文明開化をその時期と捉える
解釈もできよう。
日本の歴史、特に古代からの個々の法律の歴史を回顧すると、日本がどのような歴史的意義を持って「近代」に脱皮したのかが切実に胸に伝
わってくる。
しかし、その前に「近代とは何か」という問題について考えなければならないだろう。
一般に、「近代」とは、絶対主義、封建主義の政治体制において統治者や権力者によって抑圧されていた一般の人々が、何らかの歴史的転換
によってそれから開放され、個人一人ひとりが人間としての自由や権利を保障され、ひいては一個の人間としての「個人の尊厳」が守られるように
なった時代区分を指す。
世界の歴史において、近代に脱皮するその時期は国によって大きく異なるが、その転換時期の見方は、「個人の尊厳」がいつ頃から国家によっ
て守られるようになっていったのかを検討することが、国における近代への脱皮の時期を探る一つの方法である。
では、これから我が国の歴史を振り返ってみよう。
まず始めに、古代に遡り、飛鳥朝の時代における憲法十七条について考えてみたい。
承知のように、憲法十七条は、604年に聖徳太子が制定した日本で初めての厳格な制定法である。これは、仏教や儒教などの精神を中国から
摂取し、天皇統治の下で行政を司る官吏の服従を主な目的とした法であったので、近代的な意味での個人の権利を保障する法としての役割を演
じるものではなかった。
しかし、この古代憲法に包含されている多くの精神は、その後、中世から近代に到るまで、日本人の精神構造を基礎づける重要な役割を果たし
てきたといっても過言ではないであろう。
その一つは、第一条の
「和を以て貴しとなし、忤ふること無きを宗と為よ」
という条文である。これは官吏が互いに争うことなしに「和の精神」をもって仲よくすることを願った太子が、孔子の儒教における思想から引用したも
のである。この精神は、現代社会においても日本人が最も大切にする民族の精神として受け継がれているものの一つであると言ってよいものだ。
単一民族で、しかも島国の中にたくさんの人口を抱える我が国は、長い間、「和の精神」を民族の精神基盤の一つとしてきた。そして、この精神
は、厳格な縦社会構造において展開されてきた複雑な人間関係をより円滑にするために極めて重要な役割を演じてきたのではないだろうか。だ
が一方、この小さな島国で、時の権力者たちは数多くの戦いを行い、そのために無数の人々が血を流してきたという事実もある。
古代の法律としてもう一つ注目したいのは、701年の大宝律令である。
これもやはり中国から摂取した法である。律令の「律」は現在の刑法にあたり、「令」は行政法、民法、商法などにあたる法律で、そこには当時の
国家運営に必要な法律が定められていた。
律令制度もまた憲法十七条と同じように、
「権力者に従順なれ」
という趣旨の下で制定された法であり、近代的な意味での「個人の尊厳」という概念はそこには影も形もない。また、その後、718年には養老律
令が制定されているが、内容はほとんど変わっていない。
時が移り変わり中世に入ると、武家法が制定された。注目すべき最初の武家法は、鎌倉時代において1232年に北条泰時が制定した貞永式
目(御成敗式目)である。これは武家の基本法というべきもので、武家社会における慣習や道徳を基本とし、行政や民事・刑事訴訟などに関する
規定が定められていた。
室町時代に入ると、足利尊氏によって1336年に建武式目が制定されたが、これは新しい幕府を開く上での当面の政治方針を表明したものであ
った。それ故、それ以降の時代も、貞永式目を基本法として式目追加と呼ばれる法令を必要に応じて追加し、一連の式目を武士の基本法としての
役割を演じさせていったわけである。武家法である貞永式目や建武式目においても、庶民、すなわち個人一人ひとりを尊重する精神はどこにも書
かれていないということは説明するには及ばないことであろう。
戦国時代には、大名が支配する領土において、分国法あるいは家法と呼ばれる基本法があったが、それらの法が及ぶ法域は大名が支配する
領土だけであった。また、この時代に、喧嘩両成敗法と呼ばれる制定法が登場したことは実に興味深いことである。
当時は、同じ大名の下で家臣同士の紛争が頻繁に起こった時代である。だから、彼らがそれを自分たちの私闘で解決することを全面的に禁止
し、そうした場合に大名の判断で喧嘩をした双方を同じ刑罰に処することを定めたのである。
江戸時代においては、徳川幕府は1615年に一国一城令や武家諸法度を制定し、諸国の大名を統制した。また、同年、幕府は朝廷統制を目的
とした禁中並公家諸法度を制定し、天皇が権力の実権を掌握することのによう厳重に監視した。
そうした中、極めてユニ−クな法として挙げられるのは、借金銀相対済令である。これは、金銭の貸借について、即ち、債務不履行の問題につい
ては当事者のあいだの話し合いで解決するようにとの趣旨が定められた法律である。これは、幕藩体制という統治メカニズムを守るために、裁判
機関は、借金の問題についてはいちいち正式の裁判は行わず、私的な銭金のトラブルについては「貸した者と借りた者のあいだの話し合いで解
決せよ」と定めた法律である。
江戸時代の経済、特に農民の経済は苦しかったが、武士階級、特に、下級武士の生活も苦しいものと言わざるを得なかった。近代的意味では、
この法の定めることはまさに公平さを欠く理屈ではあるが、借金に苦しむ武士が多いこの時代に、いちいち彼らを裁判にかけて裁いていたのでは
幕府の統治が揺らぐ恐れがあると考えたのだろう。だから、幕府はこのような特別法を制定し、それぞれ個々に当事者のあいだの問題として解決
させたのである。
この法律は、近代的な法概念から検討すると、個人間において明らかに法律問題(今で言えば民事問題)があっても、司法権がそれを審理する
権限を行使しないということであるから、この法律は「理性的でない法」と言うべきであり、極めて消極的な法律である。いや、厳格に言うならば、
「法であって法でない法」
と解するべきである。
江戸時代は、日本の文化が円熟の時期を迎えた時代である。二百年以上続いた鎖国政策は日本の近代社会への転換を大きく遅らせる要因と
なってしまったが、その間に元禄文化や化政文化に代表される純和風の文化、文学、芸術などが顕著な発展を遂げた。
江戸時代における政治のメカニズムは、日本の文化を独自のものとして発展させ円熟させる大きな要因を引き起こした。しかし、一方で、人々の
知的好奇心を小さい島国の中に封じ込め、人々の国際感覚や権利意識を過度に鈍くしてしまったわけである。
経済社会において契約(contract)が必要なワケ・・・人間が皆、天使だったら契約はいらない
(2003年9月18日)
人によく、「生井さんの信念は何ですか?」と聞かれる。子供の頃、あるいは青年期の頃は、私は信念についてくどくどと述べる人間だった。しか
し、今、他人に対して、自分の信念について述べるということはまずない。
今日、初めてこのサイトにログインし、この文章を読んでいる人であれば、「信念も何もない人間の文章を読んでも意味がない」と感じるかもしれ
ない。
だが、このサイトで毎日アップロードをしている私の愚作をお読みいただいている方々には、「ああー、いつもの生井利幸らしい切り出し方だな!」
と感じていただけるのではないかと想像する。
このサイトに不特定多数の人々にご訪問いただいているという大前提の下、どんな訪問者にもご満足いただけるような内容にするのは結構エネ
ルギーのいることであるが、”書き甲斐”は確かに感じている。したがって、「人様に読んでいただける以上は書き続ける」というのがこのサイト運営
者としての私の”信念”ではある。
冒頭で、「私には信念はない」と言いながら、早速ここで”信念”という言葉を使ってしまったが、私にも、このような意味での信念は確かにあると
いえる(笑)。だが、そうして発した信念も、自分の都合が悪くなると変わるものだ。
例えば、このサイトで毎日自分の作品をアップロードするといっても、「時間があれば」という大前提がそこにある。
今、時間があっても、将来、このサイト運営のための時間があるとは限らない。たとえ、サイト自体をマネージする時間はあっても、これまでのよう
に”サイト用に”頻繁に作品を書き、掲載することができるかどうかは未知数である。
ただ、一つだけ言えることは、現状においては、「恐らく可能であろう」という見込みがあるだけだ。つまり、私は今、「可能であろう」という見込み
にしたがって述べているわけである。
また、この見込みについての意思の表明は、「契約」でもなんでもない。契約ではないから、そこには何らの法的効力もない。これは単に、「自分
がそうしたい」という意思の表明であるに過ぎないのだ(少々、話がくどくなってしまった)。
このように、本来、人間が述べる言葉というものには、”流動性”がある。「自分が発した言葉には責任を持つ」ということは極めて重要なことであ
るが、実際、そう考えていても、それを100パーセント守れる人など、世界中のどこを探してもいない。
もちろん、発したその瞬間は”本気で”そう考えるのだろう。だが、後に、色々と事情が変われば、一旦発した言葉の行く末も変わってくる。
「これが人間の本性だ」
「これが世の中というものだ」
と言ってしまうと夢も希望もなくなるが、人間の発言というものは、その程度のものでしかないものだ。
だからこそ、西洋社会には、契約(contract)という概念が台頭しているといえる。今更ここで契約という概念についてくどくどと説明するには及ば
ないだろうが、通常、契約は、書面契約(written contract)で行われるのが一般的だ。
では、この”書面にする”理由とは一体何なのであろうか。簡単に言えば、書面にしないと、約束を破る人がいるからである。
商行為を行う場合には、
「条件についての当事者間の約束事を定め、それを契約書という形にする」
ということが経済社会におけるコモンセンスである。社会通念に則した方法で契約文書を作成し、書面に署名捺印をすれば、それは立派な法律文
書となる。
通常の商行為や取引であれば、一旦仕事が始まれば、契約書の話などほとんどすることはない。すべての決定事項が滞りなく履行されている
ならば、いちいち「契約書では・・・・と定められていますが」という話をする必要性もない。
ところが、世の中には、契約書に従って債務を履行しない法人や個人も存在する。債権者がいわゆる温情のある人物であれば、とりあえずは、
手紙、メール、電話などで、”頗る柔らかく”債務の履行を債務者に求める。常識のある債権者であれば、この場合、できる限りソフトなやり取りに
するために、まずは、世間話から始まって、本来の履行要求の内容は極力少なめにして、最後にまた、柔らかい挨拶などで終えるように心配りを
するものだ。
通常であれば、債務者は債権者のそうした理性的なマナーを受ければ、できるだけ早急に債務を履行する努力をするものだ。
だが、債務が溜まりに溜まってしまっている債務者は、それに胡坐をかく癖ができてしまっているというケースもある。債権者の請求に慣れてし
まった債務者の中には、「ただ放っておく」という”最悪の策”を採る者もいる。法律家であれば、この方法を堂々と採る債務者の意図は極めて簡単
に読めるものだ。
今ここで、債務があるにもかかわらずそれを履行しようとしない法人や個人に対するアドバイスとして述べるならば、相手(債権者)によっては、簡
易裁判所に督促手続を申請したり、通常の訴訟手続きを取る場合もあるということだ。我が民法415条に「債務不履行」の条文が規定されている
が、通常、債務者が債権者に対して損害賠償請求を行う場合、この条文が法的根拠となる。
西洋社会においては、法は、生活の「道具」(tool)であり、自分の権利を守るための道具である。その反面、日本では、法は、「伝家の宝刀」
(last resort)として考えられている。
だが、これも一般論としての話であり、日本の社会でも、いざとなれば、容赦なく法を”単なる道具”として考えて行動する者もいる。
そう考えると、債権者が債務者に対して、腰を低くして、実にフレンドリーな雰囲気で丁寧に債務の履行を促している時はまだいい。そうした債権
者の優しい心配りにいつまでも胡坐をかいていると、いよいよ法的措置を取られ、それが公になってしまうと自身(法人や個人)の社会的信用度が
大きく傾くということも起こり得るものだ。
どんな業界においても、商行為をする上では「信用」が第一の財産となる。信用を守るということは、「メシを食う前にしなければならない最も重要
な問題である」というべきだ。
世の中の景気にかかわらず、
「債務者は自己の債務を誠実に履行しなければならない」
という資本主義社会における基本原則は必ず存在しなければならない。なぜならば、それが存在しなければ、健全な資本主義社会というものは
決して成立しないからだ。したがって、それを守れない法人や個人は、最初から経済行為などしないほうが無難である、と解すべきだ。
どんな人間でも、契約の話などしたくはない。だが、人間は、時として約束を破る。「決めた約束は守る」という大前提の下で、その約束事に関わ
る当事者は、その約束事の遂行のために貴重な時間を使うわけだ。
契約事項の遂行者が貴重な時間を使って約束事を忠実に遂行したにもかかわらず、そこから発生した債務が履行されないという事態は、経済
社会における「悪」であると解するしかない。
いつの世においても、そうした悪は、何らかの制裁を受けることになる。それが、経済社会における「自然の摂理(法則)」(law of nature)なのだ。
法は、最低限の道徳規範である
(2004年4月13日)
今、世の中はどんどんと狂った方向性に向かっていると感じる。日本国内では、相変わらず政治家、学者、タレントなどの不祥事が続いている。
最近においても、
「あのスマートな人が一体どうしてあんな事をしてしまったのか?」
という出来事が起きている。
いや、有名人や著名人の不祥事が頻繁に起きることは、時代の推移とは何ら関係のないことなのだろう。発覚しているそれぞれの不祥事は、む
しろ「氷山の一角」と言うべきであり、たとえ有名人であっても、一般人と何ら変わりのない”生身の人間”なのである。
しかし、我々人間が、生身の人間だからといって、何でも自由にしてよい、という理屈は決して許されることではない。
社会には、社会のルールがある。社会を構成する一人ひとりの人間は、そのルールを守り、「道徳規範」に則した行動を採らなければならない。
法律家は、しばしば、
「法は、最低限の道徳規範である」
と口に出すことがある。私自身も法律家として、話の筋によってこの言葉を引用することがある。
法(条例)は、「・・してはいけない」というルールを定めている。
だが、実際問題として、”モラルの執行者”である人間には、
「法は、確かに、人間が守るべき最低限のルールではある。しかし、個々の人間は、自らの社会を”超モラル的社会”にするために、それ以上
のモラルを執行することができる」
と解する権利が賦与されているのだ。
不祥事を起こすその本人が、経済学者であろうが法学者であろうが、社会諸科学の一部門の研究を行う者であるならば、このような簡単な理屈
を理解できないはずはない。
最後にもう一度。
「法は、最低限の道徳規範である」
世界中のロイヤーの"聖書"として愛され続けている『法の精神』を著し、
三権分立論を唱えたフランスの啓蒙思想家、モンテスキュー
(2005年2月12日)
1721年、フランスの啓蒙思想家・モンテスキュー(Charles-Louis de Secondat, Baron de la Brede et de Montesquieu, 1689-1755)は『ペルシ
ア人の手紙』を著し、当時のフランスの政治と宗教について厳しい批判を展開した。さらに、1748年においては、彼の主著として広く知られる『法
の精神』を発表し、「三権分立論」を唱えた。
モンテスキューは、
「法は、事物の本性から生じる必然的関係である」
とした。この観点から述べれば、ありとあらゆる存在物は、何らかの「法」を持つことになる。
例えば、神には神の法があり、人間には人間の法がある。また、理性的に考えることのない犬にもある種の法がある、とした。
加えて、モンテスキューは、国家には立法、執行、裁判という3つの権力があるとした。これがいわゆる
(1)「立法」
(2)「行政」
(3)「司法」
である。彼は、これら3つの権力が、同じ人間あるいは組織において行われる場合においては、権力は乱用され、人民の自由が侵されると考え
た。それ故に、それぞれの権力は完全に独立した形で行使されなければならいと唱え、有名な「三権分立論」を主張したのであった。
モンテスキューは、当時のフランスにおいて、現実に行われている政治体制についてダイレクトに批判した始めての啓蒙思想家であった。そし
て、彼が唱えた理論は、1789年において勃発したフランス革命において大きく威力を発揮することになったのである。
モンテスキューが三権を分立させようとしたスタートラインには、「人間一人ひとりの自由の保障」という大きなビジョンが存在していた。人間の自
由を保障するためには、言うまでもなく、権力の保持者が権力を乱用することを防がなければならない。
このような理由から、3つの権力の間において、抑制と均衡の関係をつくりだし、それを半永久的に維持していく必要がある。これはつまり、
「司法権、立法権、行政権という3つの権力は、相互に抑制と均衡を図らなければならない」
ということを意味するものであるが、モンテスキューは、その中でも「司法権の独立」について重要視していた。
この三権分立論における司法権の独立は、広く、世界中の多くの近代憲法に影響を与えたが、特に、新大陸アメリカにおいて、アメリカ合衆国憲
法が制定され、いわゆる「司法権の優位」としてそのスピリットが生き続け、合衆国裁判所において公平かつ独立した数々の司法判断が行われて
きたことは広く知られていることである。
注)
モンテスキューは、フランス南西部、ガロンヌ川に沿う葡萄酒の集散地として有名な港町・ボルドー(Bordeaux)の近くの小さな村に軍人の息子と
して生まれる。ボルドー大学で入学し、法律を学ぶ。1716年、ボルドー・アカデミー会員に選ばれ、後にボルドー高等法院副院長になる。1728
年からは、4年間に及びヨーロッパ各地を旅行する。主著は、『ペルシア人の手紙』『ローマ人盛衰原因論』『法の精神』など。
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