哲学・思想 5
古代インドにおけるウパニシャッド哲学の誕生
古代インドにおける最古の聖典は、いわゆる『ヴェーダ』(Veda)である。ヴェーダは、紀元前12世紀から紀元前3世紀にかけて、神々に対する讃
歌(さんか)や祭祀(さいし)儀礼について記述され、大編纂された聖典である。
ヴェーダは、サンスクリット語で「知識」を意味する言葉である。ヴェーダの起源は、紀元前15世紀頃、中央アジアで既に鉄器文明社会を築いて
いたアーリア人がインドの西北地域に侵入した以降、多くの自然の神に捧げた讃歌を中心として、およそ千年をかけて成立したものである。四部
構成になっており、古い順番でいうと、リグ、サーマ、ヤジェル、アタルヴァで構成されている。
このヴェーダに基づいてカースト制度を大前提として生まれたのがバラモン教である。カースト制度が4つの身分階級から構成されていることは
広く知られていることである。即ち、この制度には、@最高位の身分としての司祭階級「バラモン」、A貴族と武士階級である「クシャトリア」、B庶
民である「ヴァイシャ」、C最も身分が低いとされる奴隷の「シュードラ」がある。
バラモン教には特定の教祖は存在せず、この時代においては、宗教の権威と地位は政治よりも優越していた。しかし、インドの経済が繁栄し、社
会の様相が変化し始めると、クシャトリアとヴァイシャが勢力を伸ばしてくる。バラモンは、このような動向は支配階級に属する自分たちの地位を維
持するためにも、より深い思想を展開する必要があった。紀元前6世紀頃、儀式中心のバラモン教が、より深遠なウパニシャッド哲学を生み出す原
因がここにあったわけだ。
ウパニシャッドとは、サンスクリット語で「秘密の教え」を意味する言葉である。これは、ヴェーダに付属する『ウパニシャッド(Upanisad)』(奥義書)
に由来するものだ。この思想は、いわゆる「輪廻」と「解脱」を中心とする思想である。「輪廻」とは、善悪の「業」(カルマ)によって現世・来世ともに
決定されるものであり、因果応報によってほとんど脱出することのできない苦しみが循環するという"運命論"の思想であり、バラモンのみが、神秘
的な知恵・儀式によって、そうした輪廻から脱出することができる、とされている。輪廻から脱出できるとされる境地、即ち「解脱」は、宇宙の本体で
あるブラフマン(梵)と個人の本体であるアートマン(我)とが一体化した境地・「梵我一如」であると説かれている。
実のところ、古代インド社会の人々にとって、輪廻と業の思想は実に恐ろしい思想であった。それ故に、人々の心の中では、「輪廻の束縛から脱
皮して自由になること」を理想的な境地として考えられていた。これはいわゆる、「人間の幸福は解脱できるかどうかにかかっている」ということを意
味するものであったのだ。
古代日本の律令時代において活躍した三人の偉大な僧侶、業基・最澄・空海
645年、我が国は大化の改新によって、律令制度を基盤とする新しい中央集権国家が形成された。律令国家の下では、氏族が所有していた私
有民と土地が中央政府の管理下におかれ、一般の民衆は、公民として律令国家に把握されるようになった。
このような時代の推移の下で、公民階級の生活の安定はいわゆる為政者が果たすべき責務であると考えられるが、実際は、国家の安泰を名目
として、公民の幸福については踏みにじられることが多かった。そうした中、広く公民の救済を念じてセンセーショナルに登場したのが仏教の僧・
業基(ぎょうき)(668−749)(1)である。
業基は、早くから出家し仏の道を専念し、官寺を離れ、自分の故郷で民衆の生活の安泰と幸福を願い、数々の説法を行った。業基の説法は、も
っぱら因果応報説を中心とするものであった伝えられている。
注目に値する彼の偉業は、信者の協力を得て、水田を開いたり、川を渡るための橋をつくったりしたことである。また、「布施屋」と呼ばれる公民
たちが調・庸(絹、布、糸など)を運搬する人々のための宿泊所の建設も積極的に進めた。こうして宗教的立場から多くの民衆を救済しようと努め
た業基であったが、朝廷はこれを、公民たちをたぶらかす行為とみなした。だが、やがて朝廷は業基と和解し、業基は、大仏造営の勧進(かんじ
ん)として抜擢され、大僧正位を授けられた。
平安時代になると、最澄と空海が登場し当時の我が国の仏教界に対して大きな影響を及ぼした。
最澄(767−822)は、平安時代初期の我が国の天台宗の開祖として有名である。最澄は近江国(現在の滋賀県)に生まれ、出家して東大寺
で受戒した。しかし、奈良仏教では彼の仏の道は満足することができず、785年(延暦4年)年になると、比叡山に入って修行を行った。
804年(延暦23年)、最澄は唐に渡り、翌年に帰国。最澄は、法華経を最高の教えとする天台そこが仏教の根本原理を実現する唯一の方法で
あると説くに至った。
この教えには、信仰は、社会的な身分を超越したものであると説く平等思想が存在していた。後に、比叡山に延暦寺を建設し、奈良仏教で行わ
れていた政治と仏教の直接的な係わり合いを避けようとしたが、そこには仏法によって国を護るという国家仏教の理念が存在していた。
一方、空海(774−835)は讃岐国(現在の香川県)に生まれ、当初は儒学を学んでいた。だが、やがて出家し、最澄と共に唐へ渡った。
著書『三教指帰』(さんごうしいき)は空海が24歳の時に著したものであるが、ここから彼の儒道仏の三教についての深い理解をうかがい知るこ
とができる。
空海は、唐から帰国すると、高野山(現在の和歌山県)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建て、後に京都の東寺を賜って、真言宗の普及に努めた。
空海は、晩年には『十住心論』を著した。これは、東寺の東洋思想におけるすべての説教の批判であり、また、それらの説法をいかに生かすべき
かということを説いた実に意義深い著作として知られている。
空海は、すべての人間は生まれたままの身で仏と同じ境地を開けるとした「即身成仏」を肯定する側面から、極めて徹底した平等思想を説いた。
この思想は、”現世の肯定”として捉えられるようになり、朝廷や貴族と密接な関係を築く役割を演じるものとなった。
(1) 業基は、河内国の大鳥郡に生まれた。父は、朝鮮半島から渡って来た渡来人であり、百済(くだら)出身である。父は裕福な豪族であった
が、行基は早くから仏道に専心した。
日本で「哲学」という言葉を初めてつくった哲学者、西周
深く哲学する者として理性的に考える行為は、まさに時代を超えてその威力を発揮し、人間に独自の存在として生きる勇気を与えてくれる。だ
が、江戸時代においては、「哲学」という言葉は影も形もなく、この言葉が使われ始めたのは文明開化以降、即ち明治時代初期に入ってからのこ
とだ。
当時、西洋哲学における諸概念を日本へ移入する上で大きく貢献したのは、西周(にしあまね)(1829〜97)である。彼は、「哲学」を始め、「観
念」「概念」「主観」「客観」「演繹」「帰納」「理性」「悟性」など、西洋哲学で基本となる諸概念を日本語に訳すことに務めた人物であり、これらの哲
学の専門用語は、江戸時代においては哲学の概念を表現する言葉としては存在してはいなかったのだ。
西周は、明治初期の啓蒙思想家・哲学者として活躍した人物である。彼は、青少年期には朱子学を学んだが、後に洋学の必要性に目覚め、18
63年(文久3年)―1865(慶応1年)年までオランダ最古の大学であるライデン大学に学んだ。
ライデン大学(Universiteit Leiden)は、創立1575年のオランダ最古の大学である。ライデン(Leiden、オランダ語の発音はレイデン)は同国の西
部に位置する都市であり、ライン川の分流に臨む運河の街である。市内には、今でもルネサンス時代の建物が数多く残っており、同大学は、"自
然法の父"であり"国際法の祖"としても名を馳せたグロティウス(Hugo Grotius, 1583-1645)などの有名な学者を擁したことで広く知られている。
西は、オランダから日本に帰国すると、幕府の開成所の教授に就任した。幕府が崩壊した後は、一時、沼津兵学校の教授として教壇に立ち、そ
の後、明治政府の要請で1870年(明治3年)に兵務省に入省した。さらに、西は、1873年に明六社の創立に参加し、その後、東京学士会院会
長、東京師範学校校長、元老院議員、貴族院議員を歴任した。
西が影響を受けた哲学者は、A・コント、ジョン・スチュアート・ミル、W・ハミルトンなどである。主な著書は、『百学連環』、『百一新作』、『知説』、
『人世三宝説』などである。西は、百学連環(統一科学)を樹立することをヒロソヒーと呼び、日本語ではこれを「哲学」と訳し、我が国で初めて「哲
学」という言葉を用いた学者として知られている。
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