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哲学・思想 4



オルフェウス教・・・人間に潜むディオニュソス的な「善」とティタン的な「悪」

 オルフェウス教(Orphik)は、いわゆるピュタゴラス(Pythagoras, 570?-500? B.C.)、エンペドクレス(Empedokles, 492?-432? B.C.)、プラトンなどに
対して強い影響を与えた宗教である。
 オルフェウス教の名称は、古代ギリシアの伝説的な存在として知られる詩人思想家(または音楽家)のオルフェウスの名前に由来するものだ。
 オルフェウス教と非常に深い関係を持つ神であるディオニュソス(Dionysos)はバッカスとも呼ばれ、この神は「酒の神」であると共に、自然の生産
力を象徴する「豊穣神」であった。本来、この神はトラキアで祭られていた神であるが、後にギリシアに入ってきたとされている。
 ディオニュソスの宗教は、"人間の魂は神へと帰還し、神と合一する"と考えられていたが、この宗教の祭りはあまりにも野蛮で粗暴な性格を有し
ていたため、当時のギリシアの地で人々に受け入れられるようにするためにはそのイメージを改変する必要性があった。そこで、オルフェウスが登
場し、この宗教を定着させるためにギリシアの人々に神々と人間の誕生について神話的な説明を行ったのだ。
 承知のように、古代ギリシアは、いわゆる多神教の世界であった。そして、そうした数々の神々の中においてはオリンポスの12神が最高の神々
であったとされる。 
 オリュンポス山に宮居する12柱の神々は、ミュケーナイにおける王宮生活を反映するものである。ゼウスを首長とした家父長制社会を構成する
その世界においては、先住種族の土着的神々さえもが親縁関係として組み込まれて全て"階層的位置づけ"がなされている。宇宙の空間は3つ
に分けられて支配され、ゼウスは「天空」を、ポセイドンは「大海」を、そしてハデスは「地下の冥界」を支配した、とされている。
 最高の神であるゼウスとペルセポネの間に、ディオニュソスが誕生する。だが、それに対して嫉妬心を抱いたゼウスの妻であるヘーラーは、巨人
族のティタンらを言い含めて、まだ幼かったディオニュソスを襲わせた。ディオニュソスは、幾度も自分の身を変えて逃れようと試みたが、結局、牡
牛の姿になった時に捕らえられ食べられてしまう、という結末を迎える。
 後に、女神アテネがディオニュソスの心臓を救い、ゼウスがその心臓を飲み込み、再び、新しいディオニュソスが生まれる。一方、ゼウスはティタ
ンらを電火で焼き殺すが、人間は、その灰から誕生する。
 このような経緯から、人間は、

 (1)ディオニュソス的な「善」、

   そして

 (2)ティタン的な「悪」

という2つの要素から成っているとされた。
 ディオニュソス的な善の要素とは「魂」であり、ティタン的な悪の要素とは「肉体」である。すべての人間はこの魂と肉体が結合して存在している
のだが、これが本来において"人間の在るべき姿"ということではない。
 「人間の魂は、善なるディオニュソスから由来するものである」ということが大前提であるから、魂は”不死不滅のもの”であり、”清らかな善なる存
在”なのである。それ故に、「魂は、ティタン的な悪の肉体から脱皮し、魂本来の純粋な在り方に徹しなければならない」とされている。
 だが、実際は、人間の魂は肉体に宿っているものだ。魂は不死不滅の存在ではあるが、罪を犯すこともある。魂が肉体に宿っているというのは、
現世においては、その犯した罪のゆえに肉体の中に閉じ込められているのである。このような考え方から、魂にとっての肉体は"墓場"あるいは"
牢獄"であると解される。
 即ち、今現在において人間の魂が肉体と結合した状態で存在しているということは、「過去において犯した罪のゆえに"肉体"という牢獄に閉じ込
められ、あるいは"墓場"に葬られている」という捉え方ができる。したがって、「魂は、"肉体"という牢獄から解放されること、あるいは"墓場"から
復活することを望む」ということになる。
 肉体からの解放は、魂が肉体的悪の要素から完全に浄められた時に初めて達成することができるのだが、一旦、悪に染まると、これを完全に成
し遂げることは極めて困難となる。
 それ故に、この目的が達成されるためには、魂は幾度も生まれ変わることが必要となる。魂は肉体から別の肉体へと転じ、長い過程において輪
廻転生を繰り返し続けた魂のみが罪の浄めを実現することが可能となるのだ。例えば、ピュタゴラスは、人間の生を何回(一説によると20回)も生
きたと考えられていたし、エンペドクレスは、自分は、既に、少年、少女、鳥、魚、植物として生きており、何度も輪廻を繰り返していると伝えられて
いる。
 このように、魂は、輪廻から解放されるために自らの魂を浄めて本来の清浄な神的状態を取り戻すことが必要とされていた。そして、この目的を
達成するためには、オルフェウス教の教えに基づいた生活を送ることを前提としたのだ。





「われ思う、ゆえにわれあり」・・・デカルトの哲学
 
 近代哲学の祖であるフランスの哲学者、デカルト(Rene Descartes, 1596-1650)は、著書『方法序説』において、「われ思う、ゆえにわれあり」
(cogito, ergo sum)と述べた。デカルトは、この書作の中で、この世のあらゆる事物を懐疑した上で"意識の内容"は疑えるが、「"意識する自分の
存在自体"は疑えない」という結論を導き出した。デカルトは、これを第一原理として捉え、数学的な明証さで明晰判明な原理に到達しようと試み、
懐疑することを確実な認識のための出発点としたのであった。
 デカルトは、自身の懐疑論において、目の前にある事物をただ闇雲に疑うということではなく、あくまで明確な真理に到達するという極めて客観
的・科学的な目的を達成することを目的として"疑う"という思考を唱えるに至ったのだ。このデカルトの懐疑的思考方法は、哲学のみならず、この
世に存在するすべての事物に対して適用することができる思考方法であるといえよう。
 そして、このことは、我々現代人にとっても、事物というものは、ただ単にそれを信じるだけが能ではなく、「とにかく疑ってみる」、「問題意識を持
って考えてみる」ということが重要であるという、"思索のパイロット"のような役割を果たすものである。デカルトのように、「何かに疑問を持つ」とい
う思索を行うことは、真理探究の階段を登るための重要なプロセスとなるわけだが、このような懐疑的思考は、ふだんの生活の中でも様々な使い
方がある。
 例えば、あなたが道を歩いている時、「停電になったら信号機は一体どうなるのだろうか。混雑した道路を走っている車同士が衝突するのではな
いか」と考えることは、決して滑稽な思索活動ではない。
 むろん、停電の際には信号機は非常用の電気で作動するということは、電気会社の人間でなくてもわかることだ。だが、「信号機が作動するの
は当たり前」という"枠組み"から出たことのない人は、停電の際には非常用の電気が作動する、ということさえ考えないのではないだろうか。
 言うまでもなく、人間は、少しだけでも疑問を持つと、思索する範疇が拡大する。だが、何らの疑問も持たなければ、思索する範疇が拡大すること
はない。それ故、「当たり前のことを、”単なる当たり前のこと”として放置しておかない」、これこそが、既存の知識を"枯れた知識"にしないための
より良い方法といえるのだ。
 だから、我々人間は、「既に知っている」という事実に甘んじることなく、常に物事に対して改めて「問い直す」というスタンスを忘れてはならない。
そうした問い直しこそが、次の新たな思索を導き出し、その思索をするプロセスにおいてまた新たな情報や知識が必要となる、という展開を生むこ
とができるのだ。人間は、この繰り返しで、徐々に知的な存在者となっていくのである。

注)
 フランスを代表する哲学者、デカルトは、ラ・エの法服貴族の身分に生まれ、1606年から9年間、イエズス会が運営するラ・フレーシュの学院で
スコラ学の教育を受ける。その後、1616年にポワティエ大学から法学の学位を授与され、1619年に従軍、その後はパリで研究生活を送る。デカ
ルトは、1628年にオランダに移り、形而上学、自然哲学、医学などを研究。ここで紹介した著書『方法序説』は、同国の最古の大学であるライデ
ン大学(1575年創立)の街、ライデン(Leiden)のヤン・マイレ書店で刊行。1643年には、ユトレヒト大学でデカルト哲学が禁止される。1649年に
は、スウェーデン女王に招かれてストックホルムに移ったが、翌年に病死。著作は、『情念論』『省察』『第一哲学についての省察』『精神指導の規
則』など。
 人類の歴史において最初の懐疑論者とされているのは、古代ギリシアにおけるピュロン(Pyrrhon, c.360-272 B.C.)である。ピュロンはアリストテ
レスと同じ時代を生きた哲学者であり、ソクラテスと同様に彼自身の著作はなく、弟子のティモンが書いた言行録によってその考え方を知ることが
可能である(ギリシア語では、懐疑論者に該当する言葉は"skeptikoi"(探求者)であり、これは「絶えざる探求の道のりにある者」を意味するも
の)。





古代中国の思想家・孔子が唱えた「仁」と「礼」

 紀元前1600年頃、古代中国においては黄河の中流域付近に殷王朝が現れ、その後、紀元前1100頃になると周王朝が登場した。周王朝の
時代の後半、即ち、春秋戦国時代には実に多くの思想家が登場したが、その中で最も偉大な思想家とされるのが孔子(紀元前551−479頃)で
ある。
 孔子の思想における代表的な思想は、いわゆる「仁」である。仁は、"人"に"二"を加えた字である。つまり、仁は、人と人が支え合う上でのあり
方、即ち、「人間はいかに他者と協調していくべきか」という問題を説く思想として捉えることができるものだ。
 ここでは、まず第一に、「仁」の道とは一体どのようなものであるか考えてみよう。孔子の弟子であった曽子によると、仁が目指す境地は「忠恕」
であると伝えられている。「忠」は、自分に嘘をつかないこと、自分に誠実であることを基本スタンスとする教えである。
 例えば、現代社会におけるビジネスパーソンの場合、競争が激化する経済社会でサバイブするために、本当の自分を覆い隠し、要領よく世渡り
をしようとすることが多い。それがいい・悪いという問題はともかく、この世で生きていく以上、程度の差こそあれ、たいていの人はそうやって生きて
いくものだ。
 幸か不幸か、人は皆、日々、目の前の仕事に取り組み、毎月の給料を手にすることなしには生きていくことはできない存在者だ。だが、日々の
仕事生活において、あまりにもそればかりにとらわれてしまうと、人間はいつの間にか「この世に誕生した本当の意味」を忘れてしまう。そういう観
点から述べるならば、人間は皆、許される範囲内で自分自身の持ち味を上手に表に出し、「自分らしく生きよう」とする試みも必要といえる。
 忠恕を構成するもう一つの教えは、「恕」である。「恕」は、他人が置かれている状況・立場を誠心誠意に理解する心を指し、言うなれば、"思いや
り"である。人間は皆、自分が置かれた"立場"・"都合"というものがある。だが、人間は、"社会的存在者"として考えなければならないことがあ
る。それは、自分にとっての利益だけではなく、他人の立場や都合を理解し、それを察するということである。なぜならば、そうすることなしには、異
なる人間同士が同じ社会で仲良く暮らしていくことなどできないからだ。
 承知のように、孔子は、「仁」と共に、「礼」の教えを唱えた人物として広く知られている。孔子は、「礼」については「人間のモラルを実践する」とい
う意味においてそれを唱えた。
 即ち、いかなる人間も、自分を上手に抑制しようとする努力をしない限り、「自分自身の欲望のままに行動する」というネガティブな要因を持ってい
る。日々の社会生活において、そうした要因があまりにも頻繁に表に出てしまうと、人間は、人間らしく生きることが困難となり、"野生の動物"と化
してしまう。それ故、孔子は、人間は、「仁」の考え方を心の中に備えた上で「礼」を実践することが重要であると唱えたのだ。

注)
孔子は、現在の魯の国の曲阜(現在の山東省)に生まれた。孔子は幼少の頃から父母を失くし貧しい生活を余儀なくされるが、彼は自分に厳しく
生きようと努力し、学問で身を立てようと勉学に励んだ。彼は、魯に伝来する周の伝統的文化を敬愛し、ひたすらそれを学んだ。学問を修め、最終
的には魯の大司寇(現在の最高裁判所の裁判官のような職位)に就いたが、54歳になると魯の国を出た。孔子は、権力の争いが絶えなかった時
代に諸国を訪問し、君主たちに徳治主義による理想的な政治をするように説き続けたが、訪問する国々において彼の説法を受け入れる君主はい
なかった。70歳になると、再び魯の国に戻り、弟子の教育に励む日々を送った。世界的に有名な『論語』は、孔子の弟子たちが集成したものであ
る。





無教会主義キリスト教の提唱者、内村鑑三の世界

 私が内村鑑三に興味を持ったのは、古くは高校時代のある日、矢内原忠雄の「無教会主義キリスト教論」(岩波書店)を読み、深い感銘を受けた
のがきっかけであったということを今、思い出す。
 内村鑑三(1861―1930)(1)は、キリスト教の神の下においてはすべての人間は平等であり、一個の個人として尊重されると唱え、人間の内
面的な強さを養うことを強く提唱した人物として広く知られている。 
 本来、キリスト者というものは、内面において非常に厳しく、常に自分にも他人に対しても正直でなければならず、気高い心で道徳的に生きなけ
ればならない。内村は、このような厳格な教えこそが西洋諸国の発展を促した原動力となっており、このことは日本の人々に価値のある教訓とし
て教え導いてくれるものであると説いたのだ。
 内村は、そうした意味でも、日本の発展のためには日本とキリスト教は切り離すことはできないとし、

  「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために」

  "I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God"

という実にスケールの大きいビジョンを打ち立てた。
 内村は、キリスト者として自分に対しても他人に対しても正直に生きるというポリシーの下、しばしは苦しい信仰生活を送ることになった。その一
つが、いわゆる1891年の不敬事件である。
 この事件は、内村が第一高等中学校における講師であった時に起きたものである。これは、当時行われていた教育勅語(2)の奉読式に際して、
明治天皇の署名に対して礼拝をすることを拒み、講師の職を追われた事件である。もちろん、彼は天皇制を否定する考え方は持ってはいなかった
が、天皇の署名に対して礼拝することは天皇を神格化することを意味し、厳格なキリスト者であった彼には到底できることではなかったのだ。
 また、内村は、教会が細かい制度を作り出すことについて批判の態度を示し、特定の教会、儀式などを廃した「無教会主義」を提唱するに至っ
た。これは、「キリストの信仰者は、神のみと向き合い、正しい信仰をするために聖書との係わり合いに重点を置く」という考え方を唱えた信仰方法
として知られている。

注)
 (1) 内村鑑三は、高崎藩士の長男として江戸に生まれた。キリスト教の伝道者・思想家として彼の捨て身の精神ともいえるエネルギッシュな 
   活動は実に注目に値するといえる。内村は、東京語学学校で学び、後に、新渡戸稲造(1862−1933)らと共に札幌農学校の二期生として
   札幌で学んだ。入信後は、米国マサチューセッツ州のアマースト大学(Amherst College)に留学する。
    主著は、『基督信徒の慰め』、『余は如何にして基督信徒となりし乎(か)』、『代表的日本人』など。アマーストはアメリカ北東部に点在する 
   典型的な小規模のリベラルアーツカレッジの一校であるが、全米では、「アマーストには、たとえ病気になっても熱心に勉強する学生が実に 
   多い」という極めて良好な評価を受けている大学だ。バローンズ社が発表している入学難易度でも常に"most competitive"のランキングに属
   している。
 (2) 教育勅語は、1890年(明治23年)に発布された。これは、思想と教育に関わる国家の指導原理を定めたものであり、いわゆる儒教の教
   えを中心とした「忠」と「孝」を基盤とする国民のモラルを定めるものであった。



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