トップへ
戻る

哲学・思想 6


大阪の学問所・懐徳堂における「個人の尊重」への熱い思い

 一般に、日本人が日本における「近代」という概念について考える時、一体どんな歴史的事実を連想するのであろうか。この場合、ほとんどの
人々がペリ−来航をきっかけとする幕末の社会情勢の変動、あるいは明治維新前後の動向ばかりにその注意を向けてしまうのではないだろう
か。
 思うに、我々は、日本が西洋諸国に影響を受けた歴史的事実ばかりに目を向けていると、江戸時代において封建主義社会から脱皮するため
に、「”権力を有しない普通の人々”が一体どのように思索したのか」という重要な問題を見落とすことになる恐れがあると感じる。
 明治維新以降、我が国はフランスやドイツの法・政治思想を継受し、天皇主権国家として世界の近代国家の仲間入りを果たした。第二次世界大
戦後は、アメリカの影響を強く受け、民主主義国家として「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」を新憲法の三大原則として再出発した。そ
うした日本の近代化への歩みについては、今更ここで説明するには及ばないことであろう。
 そこで、今回は、そうした一連の「近代化」が行われる前に、一体どのように日本人が「個人の尊重」を追及するために思索したのかということに
ついて考えてみることにする。そのためには、まず第一に、「支配階級に属さない人々がどのような思想を生み出したのか」ということから検討を始
めることに私は意義を感じる。
 徳川幕府による長い幕藩体制が続く中、江戸時代中期に入ると、儒教における既存の考え方や仏教に対する懐疑論を展開する思想家が登場し
始めたことは周知の事実である。当時、そうした思想家が登場し始めたその大きな理由は、時の権力構造に疑問を持つ町民たちが自ら出資して
設立した私塾において、既存の概念にとらわれない幅の広い教育が展開されたことに起因するといえるものだ。
 私塾の中で特に注目すべきものは、大阪の町人が出資して創設した懐徳堂(かいとくどう)の存在である。懐徳堂は、「合理主義や実証主義的
な立場から学問を行う」ということを、その教育における基本スタンスとした私塾である。そのため、そこで教育を受けた思想家は、それまで日本に
おいてメインストリームとされてきた学問や宗教などを崇拝・維持するだけの域から脱し、「自由な発想で既存の学問や思想を批判・再検討する」と
いう極めて懐疑的な思考方法を養うことが可能となったのだ。つまり、懐徳堂でおいては、それまで権威づけされてきた学問領域を新しい視点で
見つめ直し、極めて自由な発想で学ぶことが奨励されたのである。
 懐徳堂は、富永芳春(道明寺吉左衛門)を始めとする大阪の町人たちの出資により、1724年に大阪尻崎町一丁目(現在は、大阪市今橋四丁
目)に設立された塾である。町人たちは自分たちの知的好奇心に基づき、三宅石庵や中井竹山などの学者を呼び寄せ、「人間の存在価値」につ
いて問い直し、それを幅広い見地から追求する目的で、学問や知識を深めることに務めた。
 この塾では、当時としては極めて自由な教育が営まれ、現代においても高い評価を受けている富永仲基(とみながなかもと)(1715〜46)や山
片蟠桃(やまがたばんとう)(1748〜1821)などの学者を輩出した。彼らが取り組んだ問題に共通する点は、それまでの儒学や仏教における既
存の考え方を批判し、極めて自由な発想で、(1)「人は一体どういう存在なのか」、そして、(2)「人はどのように尊重されなければならないのか」
という人間としての根本問題に取り組んだことである。
 富永仲基は、醤油製造業・漬物商を営む父が創立した懐徳堂に入り、陽明学、仏典、神道を学び、神、儒、仏を歴史的に批判した。また、後に
自ら塾を開き、『出定後語』(しゅつじょうこうご)を著わし、大乗仏教を批判した。
 一方、山片蟠桃は、大阪の両替商の番頭であったが、商才をダイナミックに発揮し、58才になると自ら両替商の商いを始めた。蟠桃は、『夢の
代(しろ)』を著わし、儒学、仏教、国学をエネルギッシュに批判し、無鬼論(無神論)を唱えた。彼は、夢の代の一節において、「地獄なし極楽もな
し我もなしただ有るものは人と万物」と唱えた。
 江戸時代というと、士農工商という身分制度の下、誰もが幕府や藩の権力に従い、人々の権利意識は非常に低いもの、いや、個人としての権利
について何の意識もなかったと解される場合が多い。だが、実際、江戸時代においては三千件近くの百姓一揆が発生している。一揆の理由は、
重い租税、役人の非行、物価騰貴など様々ではあったが、「生かさず殺さず」という武士による農民への苦役を強いるやり方に農民が反発したこと
によるものである。
 思うに、江戸時代における260年あまりの間に、そのように多くの百姓一揆があったというその事実は、当時、権力階級に属さない人々の「権利
意識」は確実に存在していたということを証明するものだ。そして、一揆の発生率が、江戸時代中期以降、特に、後期や末期において発生率が非
常に高かったということは、農民たちの時の権力構造に対する反発を表象するものと言ってよいものである。
 そもそも、この時期は、農民だけではなく、多くの下級武士も経済的に苦しい生活をせざるを得ない状況にあったといえる。大名の中には、富商
に頭を下げて金を借りなければ藩の政治が滞るという事態も起きたのだ。
 今、我々が以上のような点を踏まえた時、かりに、幕末にペリ−が来航し日本に対して開国を要求しなかったとしても、徳川幕府が強いる封建制
度がいつまでも続くというわけではなかったと想像することができる。遅かれ早かれ、徳川幕府は、いつかは何らかの形で崩壊する運命にあったと
考えるのが自然ではないだろうか。
 幕末を待たずして、富永仲基や山片蟠桃などが熱い思いで「個人の尊重」を追及するために思索したという事実は、日本人が”幕末”より早い時
期に、「極めて近代的な、”個人を尊重する思想”」を生み出したという明確な証拠となるものだ。





人間は「間柄的存在」である・・・和辻哲郎の理論

 近代における西洋哲学では、言うまでもなく、「個人の尊重」を背景に、「いかなる考え方を基盤として"個人"の完全なる独立を樹立すべきか」と
いう理論展開が学界におけるメインストリームを形成した。ところが、日本の和辻哲郎(1889-1960)は、そうした西洋哲学の潮流を批判し、西洋と
東洋の文化比較における深い研究とその理解を通して、倫理学において独自の理論を展開するに至った。
 和辻の理論は、いわゆる「人間の学としての倫理学」と呼ばれ、西洋哲学の方法論を用いつつ、仏教や儒学に代表される日本と東洋の伝統文
化を肯定的に説明する試みとして高く評価されたものであった。
 和辻の考え方によると、そもそも人間は、独立した個人的な存在ではない。また、社会システムに全面的に依存する機械の歯車のような存在で
もない。では、一体どのような存在であるかというと、簡単に言えば、「人間は、人と人との関係の中で生きている存在」であるということだ。
 これをべつの言葉で言うならば、「個人」と「社会」とは、人間のあり方の二つの側面であり、我々人間は、いわゆる(1)「個人性」と(2)「社会性」
という"互いに対立し合う極めて弁証法的な統一"なのである。和辻は、人間の存在を「間柄的存在」として考えるという立場から、個人的存在とし
ての個々の人間を、社会や組織から意図的に分離させようとした西洋の近代哲学をセンセーショナルに批判したのであった。
 和辻が、人間を間柄的存在という理論の展開をさせる以上、彼にとっての倫理とは、単に、個人だけの問題でもなければ社会だけの問題でもな
い。
 即ち、倫理とは、人と人との間柄を律する"理法"であり、人間の働きや行為などの動的な関係における"道理"なのである。つまり、倫理学と
は、「人倫の理法をシステマッティックに解明・説明する"人間の学"」ということなのだ。
 結局のところ、和辻が考える「倫理」とは、個人に関して述べれば、(1)社会の範疇にありながらも"その範疇に埋没すること"を否定し、"自己の
確かな存在"を確認する一方、(2)孤立的な個人としての自己を否定し、再度、"社会の中に自己を合一させて社会全体をより善いものにする"と
いう、極めて動的な動き・行為における"道理"であると捉えることができる。彼は、まさに、個人と社会は、このような道理を基盤とする"動的関係"
において成立すると解したのである。

注)
 和辻哲郎は、姫路郊外の農村、仁豊野(にぶの)に医師の次男として誕生した。一高を経て、東京大学哲学科で学ぶ。夏目漱石に大きく影響を
受け、倫理学者として東洋大学、京都大学、東京大学で教授を歴任。著書は、『日本精神史研究』、『原始仏教の実践哲学』、『風土―人間学的
考察』、『人間の学としての倫理学』など多数。上巻、中巻、下巻の3巻から成る『倫理学』は12年の歳月をかけて完成させた大作である。





西田幾多郎の哲学・・・「純粋経験」こそが真なる実在である
 
 明治政府は、国家としての基本法である憲法を制定するために、1882年(明治15年)に伊藤博文(1841−1909)らをヨーロッパに派遣し
た。伊藤は主にドイツでプロシア憲法を学び、翌年に帰国。日本では、1886年に新憲法の草案作りが始まり、1889年に大日本帝国憲法が発
布されるに至った。
 明治政府におけるドイツ思想の”輸入”の影響もあり、当時の日本は、他の学問領域においてもその源流をドイツに求める傾向が強かった。ドイ
ツ哲学においては、特にカントの研究が盛んになり、大正時代になると、「人格」「教養」「理念」などの概念について学者の関心が高まった。この
ような日本の哲学界の潮流において、西洋哲学を研究する一方、仏教の禅の境地に対して哲学的思索を試みたのが西田幾多郎である。
 西田は自らの哲学においては、西洋哲学に傾向するだけでなく、東洋における人間の伝統的な生き方を明確に論じた哲学者であった。西田は、
自らの著書である『善の研究』において、西洋の哲学は、<精神>⇔<物質>、<主観>⇔<客観>、<自己>⇔<世界>というような相互に
対立する概念から成立しているが、日本の哲学は、「純粋経験」あるいは「直接経験」と呼ぶ"相互に対立する以前の状態"を重視する考え方であ
ると唱えたのである。
 例えば、バッハの音楽が好きな人が彼の曲を聴いているとき、その音楽に魅了され、すっかりと聞き惚れてしまったと仮定してみよう。この場
合、その曲を聞いている"自分自身"(我)と、聞かれている"曲"(物)は、「一体」であるといえる。西田は、これを、「物我一体」の状態であると定
義したのである。そして、この状態を、主観・客観の区別や対立がまだ存在する以前の状態、いわゆる「主客身分」(しゅかくみぶん)の状態である
とした。西田は、このような"純粋経験"こそが「真なる実在」であるとし、純粋経験の下では、「知」(思慮・知識)、「情」(感情)、「意」(意思)はま
だ分かれていないと考えたのである。
 さらに西田は、「善」とは人格の実現に他ならない、とした。即ち、様々な「善」の基礎は、"自らの人格の実現としての善である"とし、人格の実
現とは、言うなれば、自己が、自己自身における最も深い要求を満足させることであり、そうすることによって、すべての人間は真の自己と完全な
な形で一致する、とした。
 西田は、真の自己は、この世のすべての存在を統一する「無限に働く力」を持っており、まさに、「人間の人格は、このような統一力が内在された
もの」と考えたのである。

注)
 西田は石川県出身で、金沢の第四高等学校に入学する。学校では武断的な教育や指導が行われていたが、西田はそれに強く反発した。後
に、東京大学哲学科の選科生となるが、本科生と区別される生活を送りつつ、禅寺に参禅するために鎌倉に通い続けた。やがて、金沢の中学教
師、第四高等学校教授となり、座禅に専心するかたわら、思索に没頭する毎日を送る。西田は、このあいだに『善の研究』を執筆。1910年(明治
43年)、京都大学に迎えられ同大学の教壇に立つ一方、田辺元(1885−1962)、高坂正顕(1900−1969)、西谷啓治(1900−1990)、
三木清(1897−1945)などの哲学者や思想家を集めて「京都学派」を創設。主な著書は、『一般者の自覚的体系』、『無の自覚的体系』、『哲学
論文集』など。





この”今”を楽しむ・・・仏教の禅宗における「無常観」の境地から

 この世におけるすべての存在物は、生まれ、変化し、消滅します。このような考え方を「諸行無常」といいますが、これは、生滅変化する仏教・禅
宗の基本認識として古くから日本人の精神の一つとして人々から愛されてきたものです。禅は、禅那(ぜんな)・禅定(ぜんじょう)の略であり、言う
なれば「静慮」の意です。古くは、6世紀初頭にインドの菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に来て以来、坐禅によって釈迦の菩提樹の下での悟りと
同じ悟りを開こうとする新しい宗派がおこり、それが禅宗と呼ばれるようになったものです。
 日本では、天台の僧、栄西(1141-1215)が日本に伝えたのが禅宗の始まりといえるでしょう。栄西は、比叡山で天台密教を学んだ後、2度ほど
宋(中国)に渡り、1191年に臨済禅を伝えた人物です。栄西は、決して天台宗などの旧仏教を否定したわけではありませんが、比叡山は禅の重
視に反対する立場をとりました。栄西は、後に、鎌倉将軍家の援助により、寿福寺(京都)や建仁寺(鎌倉)を建て、臨済禅の普及に努めました。
栄西の主著『興禅護国論』は、天台宗による非難を批判し、当時の日本に禅法が必要な理由を論じたものです。
 栄西の弟子・道元(1200-1253)は、栄西と同じように宋に渡り、厳しい禅の修業を経験して帰国し曹洞宗をおこしました。道元は、強靭な信念を
貫いた人物として知られていますが、本稿では、自己を捨て慈悲を重んじる彼の徳風を知る面白い逸話を紹介したいと思います。
 それは、道元が48歳の時、当時の執権、北条時頼の招待を受け、関東で人々に仏道を説いた時のことです。道元は、説法の役目を終え越前
国(福井県)の永平寺に帰ると、弟子の玄明が、時頼から永平寺に3000石の土地を寄付する「お墨付き」を預かってきて、嬉しそうにそれを道元
に差し出しました。すると、道元はそれを見たとたん、「わしは財や名声のために真理を説いているわけではない」と怒鳴りつけ、玄明から僧衣を剥
いで永平寺から追い出したというのです。今、現代に生きる私たちは、この逸話から、道元がいかに自力による救済を追及し、代償を求めない人
間愛を自らの手で実践していたかということをうかがい知ることができると思います。
 禅宗における無常観を簡単に述べると、「この世には完全無欠、あるいは絶対不変なものはない」ということです。私たちの体を考えてもわかりま
すが、人間の体の中では、短時間の間に多くの細胞が滅び、その一方では、多くの新しい細胞が生まれ新陳代謝を繰り返しています。そして、人
間の固体も、時が来れば必ず「死」に至るのです。人間が人間である以上、誰一人として永遠に行き続けることはできません。他の動物ももちろん
のこと、机、椅子、車、家はもとより、大自然も、決して永遠に存在することはできません。
 私たち人間は、永遠でない生命の賦与を受け、「限りある人生を生きる」という宿命を背負って生きています。「生命は決して永遠でない」、このよ
うに捉える私は今、「やってくる一瞬一瞬を頗る大らかに迎え、そして、自分にとって良いことも悪いことも存分に楽しんでしまおう」と考えています。



トップへ
戻る