活動理念    著書の紹介    講演のご依頼 (一般向け人材教育
  ■読み物  哲学への招待  銀座書斎日記  哲学詩  医事法  私の文化・芸術論  レッスン日記(英会話道場イングリッシュヒルズ)
  ■国際教養講座(英語)  英米法  法学  哲学  日本の文化と歴史  「知」の探究
  ■国際教育部門  英会話道場イングリッシュヒルズ






悲惨極まりない”文明の墓場”


わたしは今、自然の暗闇の中で蝋燭を灯し、静寂の夜を過ごす
一歩外に出ると、人工的なネオンと雑音で蔓延する”文明の墓場”がそこにある

文明社会は、一見すると、極めて理知的な空間の中において、
理性と理性が相互に交錯しているかのようにも見える

だが、わたしは、この現代社会においては、
文明それ自体が、”尊厳性ある理性的思考”を遠ざける源流と化してしまっているように思えてならない

今、わたしは改めて思う
この文明社会は、人間の”純粋理性”に容赦なく”毒”を塗っている、と

来る日も来る日も、文明の利器に溺れる人間の様相をこの目で見るわたしは今、
一人でも多くの人間が、この”毒された文明”から適度な距離を保ち、
純粋理性を介して、”より尊厳性のある思索”を試みることを願ってやまない





尊厳そのものに”尊厳”はない


生きるとは、喜び、悲しみ、快楽、辛苦、情愛、憎悪など、
様々な人間の情感が交じり合う"生の連続性"

生の連続性におけるその過程には、二つある

一つは、
誰もが通りたいと切望する、十分に整備された歩きやすい道

そして、もう一つは、
雑草が生い茂り、精を出して力いっぱい歩こうとしても、
そう易々とは前に進むことのできない暗黒荒野の道

人間は皆、この二つの道について、
自分の尺度で捉え、解釈し、理性的思考を介して自分の生き方を決めなければならない

私は今、切実に感じる
人間の”尊厳性の質”とは、それら二つのうちどれを採るのかで決まるのだ、と

思うに、尊厳そのものに”尊厳”はない
尊厳は、個々の人間の”生きる姿勢”そのものの中に、
意気揚々と輝きながら存在するものだ





生き抜く宿命


人は、困難に直面すると、
生きることの意味について考えるようになる

人は一体どうして悩み、
苦しみながら生きなければならないのか、と

そう考えるときは、生きることに疲れ果てて、生きることに疑問を感じたとき

生まれた、という結果を出発点とするすべての人間は、
この世に生を受けた後に、自分の意志で生きる宿命を背負うことになる

どんな人でも、長く生きていると、時には困難に直面する

自分の力で、目の前の現実や困難と闘おうとするそのとき、
人は、この世に生まれたことの意味について考えるようになる

今、私は改めて思う

人は、単に生きるだけでなく、
”生き抜く宿命”を背負っている、と

この、”生き抜く宿命”について心の中に深く刻んだ人が発揮する力、

この力こそが、
轟音をとどろかせて迫ってくる強風にも決して屈しない”底力”となっていくのだ





性を知る"性"


人間が自身の性を知る、
それは一体いかなる境地なのか

腹を決める、という境地がある
腹を決めるとは、言うなれば、命をかけて覚悟を決めるということ

命をかけて覚悟を決めた人間は、
命をかけて覚悟を決めた人間の心のあり方について切実と感じ取ることができる

世の中を良く見ると、人間の幸福と不幸の狭間が見えてくる

性という代物は、喜び、慈しみ、歓喜、
そして、哀しみ、嫌悪、絶望について、
自らの汗と涙を通して経験せずして、そう易々とわかるものではない

思うに、わからないものは、”わからなくてもいい”と感じる
なぜならば、理性的存在者としての自分の”性”を知るということは、
極めて苦い経験であるから





底なしの虚無からの第一歩


今、清めた思索の空間で哲学する自分がここに在る

人間は本来、理を唱えるということが、生きる上での性
だが私は、長い間、理を唱えることから遠ざかり、底なしの虚無に没していた

没したのも、いわば、私にとっての一つの道
無論、いずれは浮上したかったが、
それができない自分に苦悩する日々を送ってきた
底なしの虚無には、どこを見渡しても出口はなかったのだ

清めた思索の空間から望む空は、
実に、眩しいほど青々している

この青さは、意気揚々とした歓喜に満ち溢れ、
無限とも思えるような底力を私に与えてくれる

今、この青さを目の前にして、
出るべきところから出て、まさに、前に進もうとする自分がここに在る





理性を宿す土


心が渇く
心の中の、まさに、”底”から湧いてくる熱情は、
心の真空の部分に”渇き”をつくる

私は、この渇きを満たしたいという一心で、
無秩序に、無数の活字を噛み、そして、また噛み締める
だが、どのように噛み締めようとも、この渇きが満たされることはない

西洋における尊厳性に大きく落胆した後、
しばらくの間、出口のない暗闇の中で、
これまでの人生において経験したことのない辛苦に耐え忍ぶ

そして、ようやく、もがき苦しみながらも、
東洋における尊厳性を全身全霊で感じ取り、そこに”光り輝く歓喜”を見た

今、目の前に、”理性を宿す土”が見える
人は皆、幼い頃に土をいじる
だが、やがて、人は成長し、
いじった土、そして、その匂いまでも忘れてしまう

今、私は考える
人は、幼い頃、自分の手でいじった土の感触と匂いに再び目を覚ましたそのとき、
まさに、土をいじりながら、
”生きる”ということの意味と重さについてひしひしと感じるようになるのだ、と





魂の旋律


蝋燭の火は燃える
力強く、まるで、自らの”生”を力強く刻むかの如く

今、私の魂も燃える
燃える魂には、逞しく燃え続ける蝋燭の火がじわりじわりと迫ってくる

今、私の魂は泣いている
泣いているが、その奥底で、何か、ものを言おうとしている
力いっぱい言おうとはしているが、結局、それが人の心に届くことはない

届かないのは、熱情が足りないからなのか

恐らく、そうではない
届かないのは、私の魂の旋律と、届けたい相手の魂の旋律がうまく噛み合わないからだ

魂の旋律の調和
それは、妥協の一種なのか
あるいは、歩み寄りの一形態なのか

矛と盾、それら双方の存在価値を尊重したい私にとって、
この”魂の旋律の調和”は、あまりにも過酷な試練となって背中に重く覆い被さってくる





純真無垢の尊さ


汚れのない清き存在者は、尊い
清き存在者は、清きものをまっすぐに見る

まっすぐに見るその目には、
この世の何者にも負けない純真なる目力が、実に意気揚々と潜んでいる

清き目力は、どんなものでも透視する力を備えている
清き目力は、どんなものを見るときも、
勝手な思い込みで色を塗ることなく、しっかりと真実の色を見る逞しさを備えている

真実の色、
それは誰もが見たいと欲する色

清き存在者は、清き感性を介して、
目にうつる色をはっきりと捉え、真実の色を”真実の色”として堂々と受け入れる

真実の色を、真実の色として受け入れるその行為は、
まさに、この世で最も清く、そして、尊い行為であるものだ





腹の底から湧き出る”強靭な力”


創作者は、
この世にたった一つしかない”独自の個”を生み出す存在者

かつて、歴史に名を刻んだ創作者たちは、
全身全霊で感性と理性を駆使し、
独自性に満ち溢れた”純粋”を追求した

創作者の中には、”独自の個”を介して、
人類の発展の一助になるべく、己の命を削る者もいる

己の命を削るのは、
金のためでも名誉のためでもない

己の命を削る創作者は、
己の腹の中に、石よりも硬い”頑丈な俎板”を置いている
その”俎板”は、荒野に住む大男が力一杯ぶった切ろうとも、闇雲に投げ飛ばそうとも、
決してびくともしない”頑丈な俎板”

創作者は、
自身の腹の底で、至上の熱情で力強く”独自の個”を生み出し、
生み出したその”独自の個”を、
再び、腹の底から至上の熱情で発する

腹の底から発せられたその”独自の個”は、
やがて、自ら、人々の心をしっかりと掴み、
燦々たる陽光の如く、
人々に、より善く生きるための活力を与え続ける

腹の底から湧き出る”強靭な力”、
それはまさに、使命感を持つ創作者にとっての”底力の源泉”といえるものだ





東洋と西洋における理性の偉大さ、そして、悲惨さ


黒には不思議な力がある

黒茶碗で嗜む抹茶の深みの偉大さ
東洋では、その偉大な深みの中で、無限の宇宙を臨むことができる

黒は、”理性的質素の極み”を表現するための究極の色
茶人・山上宗二の頑固さは、黒の美意識の中で、
”東洋における理性の偉大さと悲惨さ”を力強く表現した

東洋の山上宗二が没して80年経ったそのとき、
西洋の哲学者・パスカルが”パンセ”を世に出した

やがて、西洋の”理性的存在者”は、
そこで初めて、活字で著された理性の偉大さと悲惨さの前で頭を垂れた





植物の高貴な囁き


自然界は、人間に”生きる”を教えてくれる

大自然に生きる動物は力強く吠える
吠え、自らの生きるについて意気揚々と叫ぶ

一方、植物における”生きる”を切望する叫びは、”囁き”そのもの
植物は、自らの”生きる”について、まるで独り言を言うかのように囁く

吠えるわけでもない
動くわけでもない
ただ、じっと囁くのみ

その囁きは、まるですべての動物たちに、
沈黙の中で生きることの高貴さ、
そして、生きるを絶たれるとき、何の抵抗をすることなく、
”自然の摂理に従うことの高貴さ”を教えているかのようだ

私は今、切実に感じる
この、”沈黙の高貴さ”こそが、この世で最も高貴な有様である、と





教会の塔の階段が意味するもの


欧州の教会の塔の階段は、
大抵、狭くて急だ

東アジア人の私ですら狭いと感じるが、
土地の人間にとっては、もっと狭いと感じる狭さ

人間は、塔の頂上を目指し、大量の汗をかきながら登っていく
しかし、頂上に辿り着くには、それなりの覚悟が必要だ

階段は、意図的に狭く造ったかのように、驚くほど、狭く、しかも、登りにくい
それはまるで、塔を登る人間を試すかのように、
実に、”過酷な道のり”といえるもの

時間をかけて、必要以上に狭くて急な階段を登り続けていると、
大抵の人間は、頂上に辿り着く前に、”途中で断念したい”という気持ちになる

やがて、やっとの思いで頂上に辿り着き、そこで眺める街の景色は、
まさに、この上ない絶景といえるもの

この、”不完全な存在者”である人間が大量の汗をかいて目にする絶景、
その絶景も、絶対的存在者である神の目には、ほんの塵として映るだけのもの

誠実は、事実を越える


事実は強い
時が過ぎようとも、時代が変わろうとも、
事実は、常に、自ら、意気揚々と立ち続けるための足場を維持している

事実は確かに強い
だが、人は、人が人であるゆえんを考えるとき、
人間存在における”誠実の尊さ”を疎かにするべきではない

人が物事に対して誠実であろうとするその有様、
そして、人が他者に対して誠実であろうとする有様
私は、この有様こそが、この世で最も尊い有様であると捉える

人の誠実さに価値を見い出そうとしない、この”心不在の世の中”

今からでも決して遅くはない
私は、迎える一瞬一瞬において、
誠実さの”尊厳”を、文明・文化を支える様々な空間に注入したいと切望する

誠実は、事実に勝る
逆に言えば、誠実が事実に劣るというのであれば、
この人間社会は、いよいよ、”落ちるところまで落ちる”という命運を背負うことになるだろう






*以下は、現在、再編集中です。





人生最大の学びの母


人間は皆、現在の自分を高めたいという欲求を持っている
では、確実に自分を高めるために、我々人間は一体どうしたらよいのだろうか

考えられる方策はいくらでもある

自分の得意分野に没頭する
自分にとっての苦手な分野を克服する
新しい何かを探し出し、再び、新たな自己実現に挑戦する

実に、人間は、
様々な方法で自分を高めることができる

いかなるものを、いかなる方法で実行するかは、
まさに、個人の”自由な選択”に委ねられるもの

ただ、私は今、たった一つだけ、
すべてにおいて共通することを叫びたい

それは、
安易な道を選ぶことは何らの進歩にもならない、ということ

私は今、大声で叫びたい
”痛み”こそが人生最大の学びの母である、ということを





生きる真髄


見える道は、誰にもで通ることができる道
言うなれば、それは、目隠しをしても通ることができる道である

本来、人は、道について二つの捉え方をする
一つは、道は、通るためにあるもの
もう一つは、道は、自分でつくるためにあるもの

人は大抵、既に在る道を通ることで喜びを感じる
そして、人は大抵、その道を進む自分を見て、
自分は着々と前に進んでいるように感じる

既に在る道
人は、それを通るだけで、果たして本当の喜びを得ることができるのだろうか

世の中には、
既に在る道を進み、
その過程において、その道を進むことに意義を感じなくなる人もいる

そんな人は、ある時点において、
自ら、その道から離脱し、
自ら、勇敢に困難や辛苦に立ち向かい、
自ら、自分だけの道をつくろうと奮闘し始める

そして、人は、自身の存在を”砂利”や”雑草”として捉え直し、
不安定ながらも自分の力で道をつくり始める

この不安定さは、
容赦なく、身も心も震えさせるような”途轍もない不安感”へと変貌していく

この時である

この時、人は初めて、
理性的存在者として、”神から与えられた理性”の意味を切実と知るようになる

そして、人は、自分の背後に、自らが、
”絶望と不安の中で経験した辛苦の積み重ね”でつくった確かな道を振り返り、
そこに、”生きる真髄”を見い出していくのである





今、確かに、ここに在る


毎日、
心が泣いている

”より善く生きる”を欲し、
”より人間らしく生きる”を熱望する心がここに在る

乾いた心を満たそうと、
来る日も来る日も、心に栄養を与える

強靭であると同時に、極めて脆く、はかない様相を漂わせる”知”と”美”は、
頗る勇敢に、心の中の隅々まで散らばっている無数の隙間に入り込み、
血や肉、そして、骨までも脅かす

人間は、このような”脅かされた状態”で、
この上ない恐怖を経験する

恐怖は、生きる甲斐さえも奪い取ってしまうものだが、
この恐怖に屈したくない自分が、
今、確かに、ここに在る





悪行の源泉


すべての人間は、
常に、自分の良心に従って生きたいと切望している

人間は、そうすることで、
生きる意味を見い出すことができるから

だが、人間は、
しばしば、良心の声から耳を背けることがある

時には、極めて意識的に
時には、無意識的に

人間は、
人生の節目節目において、
理性からわき出る良心の導きに背くことがある

節目節目において、
意識的に、
そして、無意識的に





生きる神聖性


我を張ることは、身勝手な思いを通そうとすること
その身勝手は、自分の利のみを追求しようとする思いから生じるもの

一方、”自己を貫く”ことは、自分を一個の個として捉え、
個としての存在価値を認識し、
理性的に、”個としての道”を自分の力で歩もうとすること

個は、
尊厳性のある、絶対不可侵な存在者

人間は、個の尊厳性を認識して初めて、
少しずつ、”生きる神聖性”に気づくための理の空間に入ることができる

そもそも、人間は、
自身が置かれた環境に大きく影響される動物である

自己を貫く意義を知らない、あるいは、考えようとしない者は、
実に易々と、自己の生き方を環境に委ねようとする

今一度、
自己とは一体何か、について自問してみよう

静寂の中で、
”理”を基盤として自問するならば、
やがて、自分が歩むべき道が見えてくるだろう

人間は、そうした道を、自分自身の”目”と”理”でしっかりと見据えたとき、
極めて理性的に、生きる神聖性について捉えることができるのだ





噛み締める喜び


人は、喜びを感じたとき、
幸せを感じる

喜びは、
人に生きる意味を持たせ、生きる希望を持たせる

感じる喜びは、
言うなれば、心を満たす経験そのもの

心が満たされれば、
人は、自身の人生を生きる過程において、
ある種の満足感を得ることができる

思うに、人には、もう一つの喜びが賦与されている
それは、”噛み締める喜び”

噛み締める喜びは、
困難を乗り越え、自ら汗を流し、涙を流して到達する喜び

いわばそれは、自ら、身を挺して他者に喜びを与え、
その喜びについて、他者と一体となって体感し到達する喜びといえるもの

人は、この”噛み締める喜び”を、
自身の感性、そして、全身で皓々と体感したとき、
突如、眩しい光を見る

そして、その眩しい光は、
まるで、力強く流れ落ちる滝の水のような勢いで、
人に、”生きる醍醐味と価値”を与えてくれるのだ





良心の涙


人間は、しばしば、良心の声を聞く

人間は、自分の行動に疑問を感じたとき、
”こうしなさい”という囁きを耳にする

囁きが聞こえるのは、
自分自身において、それを聞こうとする姿勢があるからだ

では、たとえ囁きがあっても、
その囁きを耳にすることができない人はいるのであろうか

この世において、自己を自己と認識し、自己として生きている存在者である限り、
そうした囁きを耳にしない人はいないだろう

人間は、極悪非道な行為をするときでさえ、良心の声を耳にする

極悪は、悪の極め
非道は、人間としての道であらざること

通常の生活をしている人は、自分を、”常識人”と呼ぶ

だが、常識人といえども、
人生におけるどこかの時点で、道を大きく外し、転落の人生を歩む人もいる

結局、人間の生き方の価値は、自分の心の中で良心の声を聞いたとき、
”それをどう聞くか”によって変わるのだと思う

限りなく多くの常識人は、”人間の命”について、
それを、この世における最も大切なものだと断言する

だが、実際、人間は自らの生活において、
生きるか死ぬかの瀬戸際にいる他者を目の前にして、
しばしば、見て見ぬふりをすることがある





簡単に見える前は、前であって前ではない


広い場所に行くと、前がよく見える
なぜならば、広い場所は見晴らしがいいからだ

見晴らしがいいことは、決して悪いことではない
だが、見晴らしがいいということは、
ある意味において、”そこには何もない”ということでもある

人間は、思索に思索を重ねると、前が見えにくくなる動物である

思索は、あちらこちらに土台を築き、そこに柱を立てる
ある柱は、吹けば飛ぶような小さな柱
また、ある柱は、強風が吹いても、決してびくともしない頑丈で大きな柱

思索の空間において様々な柱を立てている哲人にとって、
前は意外と見えにくい

哲人にとって、前は、実に見えにくい
だが、前が見えた時、哲人はまた、新たなる知に到達することになる





喉の渇き


喉の渇き
それは、一杯の水を飲んでも決して満たされない渇き

渇いたその状態は、
実に、”切実なる空虚さ”を意味するもの

その切実なる空虚さを満たそうと、
私はまた、新たに水を飲む

だが、それでもなお、
私の喉は渇く










文明を超越した本質


人は、重いものを抱えると肩や腰を痛める

肩や腰の痛みは、
言うなれば、体への負担を意味する痛み

人は、時として、背中も痛める

背中を痛める人の中には、
”形而上学的重量感のある代物”を背負う人も存在する

形而上学を背負う人の背中は、言うなれば、鉄板のような硬さ

そして、さらに、西洋文明社会と東洋文明社会の狭間で形而上学を背負う人の背中は、
それを遥かに超越し、”寂びた鉄板”の硬さを背負う運命にある

寂びた鉄板を背負って涙を涸らすか、
それとも、寂びた鉄板を背負った上でそれでも涙を流せるか

そのいずれかで、
”文明を超越した本質”に到達できるか否かの分かれ道となるのだ





不器用の高貴さ



不器用な人は、形どおりに物事を扱うことはできない

形どおりに扱うことのできない唯一の理由は、
形を形として扱うことに価値を感じないからだ

凡人は概して、
器用な人は繊細で、
不器用な人は鈍感であると捉える

一者は、
形を形として捉え、それを無意識のうちに受け入れる人

もう一者は、
”形というものは、もともとは無いもの”という認識に基づき、
形をそっくりそのまま扱うことに意義を感じることなく、
無意識のうちに独自の形をつくってしまう人

この二者のうち、一体どちらがより繊細で高貴な感性の持ち主なのであろうか

その判断は、自身の理の幅に委ねられるものだ





”混沌とした生きる”を味わうささやかな喜び


時というものは本来、
つかみどころがなく混沌としたもの

だが、私は、そうした時の連続性において、
あまりにも刺激的で、且つ、劇的な想いに心が満たされる

それは、芸術から感じ取る一滴の滴に大きく劣るものだが、
海岸における砂利の役割すら果すこともできない自分にとっての
”ささやかな喜び”といえるものだ

”生きる”とは、
実に、混沌としたもの

逆に言えば、
混沌としているからこそ、人は生きるを楽しめる、
と私は解する

言葉では表現できないほどのこの漠然とした時の連続性

人は、この時の連続性を受け入れて初めて、
ぼんやりと、”前”が見えるようになる





終わりの意味


終わりには意味がある
物事が終わると、それと同時に、また新しい何かが始まる

だが、新しい始まりもまた、
いずれは終わる運命に在る

そもそも、人は皆、この世に生まれても、
いずれは死に至る
いわば、人は、死に至るために生まれてくるようなものだ

よく考えてみると、
人は、必要な分だけ食べて、必要な分だけ善く生きればそれでいいのだが、
実際、東にも西にも、それだけで満足する人はほとんどいない

人は本来、食べても食べても、
またさらに、人よりも多く食べようと欲する”貪欲な存在者”である

その貪欲さこそが、
人を、人としての道から逸脱せしめ、
人を不幸に導くのだ

私は、ここで、もう一度叫ぼう

人は、必要な分だけ食べて、必要な分だけ善く生きればいいのだ

人はこのことさえ堅持し続ければ、
その短い生涯において、
そう滅多には、人を憎むような事態に陥ることはない





腹をくくる勇気


人は皆、考える能力を備えている
人は毎日、理性を駆使して自分の生き方について思索している

言うまでもないことであるが、単に、考えて行動することは誰にでもできる
しかし、いざという時、覚悟を決めて行動するということは、
決して、誰にでもできることではない

人は、その長い人生において、
何度か、腹をくくらなければならない時がある

私は、
人という動物は、本来、2つに大別できるのではないかと思う

一つは、腹をくくるべき時に腹をくくれる人
もう一つは、腹をくくるべき時に腹をくくれない人

人が人である以上、
人が備える能力や力量に大きな差があるとは思えない

要は、いざという時に、
”腹をくくれるかどうか”というところから差が出るのだと思う





”一つの生”における永劫回帰


生きることは、
死ぬことよりもむずかしい

人は、絶望のどん底にあるとき、
死の意味を意識しはじめる

だが、人は、苦境の中で死の意味を意識しながら、
やがて、”生の意味”にたちかえる

人は、そこで改めて生の意味を考えたとき、
”より強い存在者”として生き抜く決意をする





心の中の真実


人間は、よく言う
自分の心に偽ってはいけない、と

しかし、実際、
”人間は皆、自分に偽って生きている”というその捉え方は、
自分を美化しようとする願望から生じる偏狭な思い込みであり、
不完全な存在者としての人間が持つ愚かな妄想でもある

”本当はこうなのに”と思うこと自体には、
実際は、何らの意味もない

人間は、常に、
この”本当は”という言葉を逃げ道にして生きている

”本当は”の、その中身は、
今現在の自分の心の中に確かに存在し、
今ここで、自分が取り組んでいることでもある

人間は、本当に望むことしかしない

逆に言えば、
人間は、本当に望まないことは、どんなことがあってもすることはない





理としての苦


人は、常に楽を追い求めて生きている
かりに、人は苦によって何かを学ぶ、という理屈を知っていても

楽は、心地よい
苦は、体にも心にも、痛みを生じさせるもの

だが、その痛みは、
大切な何かを教えてくれる

たいていの人は、苦を楽しめるほどの心の余裕はない
だから、人は皆、苦を避ける

人は皆、苦を避けたいと願う

しかし、苦を避ければ、
本当に価値のある楽もやってこない








どうして人は夢を抱くのだろう

夢は、生きる上での肥し

なぜならば、
人は、ただものを食べるだけでは生きていけない動物であるから

夢を持とう
そして、
大いに、”生きる”を楽しもうではないか





じわりじわりと出てくる涙


人は、時として、
言葉では言い尽くせないほどの痛ましい経験をすることがある

人は、決して理屈で生きているわけではない

人は、地の上を歩くとき、
じかに、地のかたさ・やわらかさに接し、
それを”心”で受け止めながら歩く動物である

果てしなく続く地には、
果てはない

いや、ある意味、果てはあるが、
そこに辿り着く人はまずいない

人は、しばしば、心の中の淋しさやむなしさに涙する
涙している最中は、
悲しく、そして、辛い

だが、その涙は、やがては止まる

同じ涙でも、
涸れ切るまで出続ける涙もある

それは、人間存在のはかなさを意識したときに出続ける涙である

人は、心の奥底から絶え間なく出続けるその涙をじわりじわりと流しながら、
改めて、生きることの意味について考えるようになる





音の響き


朝の静けさの中で耳にする音
心の中の受け皿をどうするかで、
音は音でなくなる

一日における心の旅

雑念が交錯した方向性のない旅となるか、
それとも、
心豊かで優美な境地への旅となるか

それはまさに、
朝のひと時に、
どのような心の持ち方をしているかで大きく変わる





尊厳性のある”生”


人はどうして生きるのであろうか
人は皆、事あるたびに生きる理由を探そうとする

死を意識して生きている人がいる

死を意識して生きるその尊さ・重さについては、
自分自身における”死までの距離”がわからない限り、
決して認識し得るものではない

生を意識して生きる、それとも、
死を意識して生きる

一体どちらが尊厳性のある生き方なのであろうか

自らが”命の限り”を体感しない限り、
その答えに近づくことは、遥か遠い、夢のまた夢である





人間の根本


静寂の夜、
私は、何の水分も摂らず、いつまでも続く無の状態に心地よさを感じている

夕食を食べることなく、
何も欲しくない数時間を過ごし、
気がついたらゲーテのことを考えていた

生きるを悩んでいた思春期の頃、夜中に、ゲーテの言葉に涙した

そして今、
私は、同じ言葉を目の前にして涙が止まらない

今、私は実感する
人間の根本は何十年という歳月が過ぎても変わらない、ということを





感じることの意味


西洋哲学における”理性”という知の源泉を基盤として捉えると、
人は、考えるという行為を通して、自分の意思を決定するものと解される

だが、人は実際、何かを決定するとき、その最終段階において、
どう考えたかによってではなく、
”どう感じたか”によって、最後の意思決定をしている

感じて、考えて、意思を決定するのではなく、
感じて、考えて、
さらに、”改めて感じた後で”最終的な意思を決定している

そういえば、
人は、もうなすすべがない、という極限まで追い込まれたときもそうである

理性的判断から逸脱し、伝家の宝刀を抜いてしまう場面においても、
深く考えた末に宝刀を抜くのではなく、
”強烈に何かを感じた末に”伝家の宝刀を抜いている












しっかりと生きるための導き


時は日々、まるで早馬のように過ぎ去っていく

人は、過ぎ去る日々における喜びと辛苦の過程において、
自らの肌、髪の状態が変化していくその有様に気づく

人は、その変化を意識したとき、
改めて、人は皆、”老い”という宿命を背負っているということをしみじみと感じ、
何かを悟る

老いは、一瞬一瞬、しっかりと生きていくための導き
それ故、老いを意識することは、決して悲しいことではない

人間は皆、老いを意識することで、
いつ何時、絶え間なく続く大雨が降ろとも、あるいは、もの凄い強風が吹こうとも、
路頭に迷うことなくしっかりと前に進むことができるのだ





錆びた鉄の意味


苦悩を背負っている人がいる
身を挺して力になりたいと心から思う

生きることがごく当たり前であるときと、
”生きていられることがどんなに幸いな事実であるか”を実感するときとでは、
人の力になる上での心積もりも違ってくる

鉄が当たるだけでは足りないが、
錆びた鉄が当たると、
その覚悟も格段に違ってくる





鈍感な感性の罪深さ


暴力には、二つある
それは、腕力による暴力、そして、言葉による暴力

理性的存在者である人間にとっては、どちらも許される行為ではないが、
ここで、もう一つの暴力を忘れてはならないと、私は考える

その、もう一つとは、
”鈍感さ”による暴力である

鈍感さは、時として、他者が備える能力・才能における尊さを大きく汚してしまう
悲しいことに、一度でもそうなってしまうと、
その鈍感さは、腕力、そして、言葉の暴力以上の暴力と化してしまう

繊細な神経の持ち主は、
鈍感さの暴力性を認識している

だが、そうでない者は、
公然と、自身の鈍感さを堂々と他者に押し付けてしまう

私は今、”無知の知”の理の偉大さに大きく敬服すると共に、
人間の鈍感さの罪深さについて、しみじみと感じてならない





気高き朝


徹夜して迎える朝
起床して迎える朝

同じ朝でも、
その意味合いは、かなり違う

徹夜して迎える朝は、深い
確かに深いが、どんよりとしている

起床して迎える朝は、その時に始まったばかりの朝
思索は始まったばかりだが、そこに漂う気配は極めて新鮮である
そして、そこで味わう苦味は、頗る引き立つ

苦味は、この世のすべての存在物のはかなさを教えてくれる
そして同時に、舌で味わう苦味は、
次第に、全身で味わう”気高い喜び”に変わっていく

その気高い喜びは、
その日の時間的空間を、”何よりもまさる優雅な世界”にしてくれる

朝は、一日の始まり
朝をどう迎えるかは人によって違う

私は、
気高く、優雅な朝を好む






生きることは悩むことである


この世に、悩みのない人はいない

なぜならば、生きることは、悩むことであり、
日々、悩むことそれ自体が、人として生きることそのものであるからだ

だが、人は、
悩むことを、人生における必要悪と捉える

人は、悩むことに耐えられなくなると、しばしばそう考える

自分を成長させたいと望む人は、
常に、大いに悩み、辛苦を経験する

そして、
やがて、道を切り開く





苦から入る歓喜


人は皆、楽を求める
だが、楽に溺れると、決して前に進むことはできない

人は皆、苦を避ける
だが、苦を避けると、時が経過しても足踏み状態が続いてしまう

今、私は、
苦は楽に勝ると考える

人は、苦と痛みによって本当に大切な何かを心身共に実感し、
やがて、真の意味での歓喜に到達する

長きにわたる苦を経験し、それを乗り越えたときに初めて、
苦は苦でなくなり、
それが、”この上ない歓喜”に変わっていく





ご挨拶

このたび、わたくしは、「哲学詩」という新境地を創作していきます。
哲学詩は、詩(散文詩)の一形態ですが、この詩の特徴は、創作の
源泉を”哲学的思索”を基盤として独自の見地から「生」と「知」を表現
する新しい創作の境地です。

わたくしは、この哲学詩を今後の創作活動の一部門とし、心を込めて、
そして、丁寧に、独自の活字文化の世界を創っていく所存でございま
す。今後とも、ご愛顧のほど、どうぞ宜しくお願い申し上げます。


作家 生井利幸・・

2007年5月27日










  活動理念    著書の紹介    講演のご依頼 (一般向け人材教育
  ■読み物  哲学への招待  銀座書斎日記  哲学詩  医事法  私の文化・芸術論  レッスン日記(英会話道場イングリッシュヒルズ)
  ■国際教養講座(英語)  英米法  法学  哲学  日本の文化と歴史  「知」の探究
  ■国際教育部門  英会話道場イングリッシュヒルズ