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作: ダヴィド、、・

最後まで真の「知」を説き続け、勇敢に毒杯を飲む古代ギリシアの大哲学者・ソクラテス

ソクラテスが唱えた「無知の知」は、古代・中世のみならず、近代や現代においても、
人類に対して「知の真髄」を教え続けてくれた”偉大な知”である。


ソクラテスの「無知の知」

概して、人間という動物は、少しばかり何かを学び、それによってある程度の評価を得ると、さぞたくさん知っているかのように人前で振舞
いたくなる習性を持っているといえる。言うまでもなく、どんな分野においても、ある程度まで極めるための「学びの道」を歩むというそのプロ
セスは決して簡単なものではない。

だが、人間は、時として、実に愚かな考え方をする。「自分には限られた知識しかない」という事実は自分自身が一番良く知っている事実
であるが、どんな人間でも、時には「自分は何でも知っている」というような“錯覚”に陥ることがある。しかし、「自分は何でも知っている」と
いうことを軽々しく言えるということは、「実は何も知らない」あるいは「知ってはいるが、実はそこそこに知っているだけだ」という証となって
しまう。

古代ギリシア時代における偉大な哲学者、ソクラテス(Sokrates, 470?-399 B.C.)は、「知」を愛し、「知」を求めることに自分の人生を託し
た。古代ギリシア語においては、「哲学」(philosophia)という言葉は、「知」(sophia)を「愛する」(philein)という意味である。この、「知を愛する
こと」、即ち、「愛知」は、ソクラテスによって確立されたものであると伝えられている。

ソクラテスは、「助産術」と呼ばれる問答方式で周囲のソフィストたちに本当の「知」を認識させることに努めた。しかし、ソフィストたちは自ら
の無知をソクラテスによって説かれると、自己反省のできないソフィストは、ソクラテスをひどく嫌った。当時、ソフィストの中には、少しばかり
の知識があるだけで、さぞ自分が偉い人物であるかのような錯覚に陥る者もいた。古代ギリシアの時代においては「学問をする」という
行為は贅沢なことであったので、一般大衆は、“学問をする人”に敬意を払った。だが、言うまでもなく、ソフィストといえども、決して万能な
存在者ではない。ある程度まで学問を修めたとしても、その知識は決して万能なものではないのだ。

ソクラテスは、「自分は何でも知っている」と自負する者は、実は「何も知らない者」であると説く。そして、ソクラテスは、人間は、自らをそう
思っている間は、決して「真の知」には到達できないと力説したのだ。

今、私は考える。この、「自分は本当は何も知らない」という自分自身の“無知”に気づくことこそ、「真の知」への扉の前に立つことである
と。そして、この「無知の知」の考え方は、古代ギリシア時代のみではなく、21世紀の現代社会においても十分応用できる考え方である
と。


『ソクラテスの弁明』(プラトン著)について

ソクラテスは、およそ70歳の時、青年たちを堕落させ、また国家の認める神々を認めずに、別の新しいダイモニア(神霊)をあがめるがゆえ
に、という理由から裁判にかけられた。ソクラテスの裁判は、一般の市民から抽選で選出された五百人の裁判官によって行われた。裁判
は投票で二度行われ、二度目の裁判では360対140で彼の死刑が宣告された。   

ソクラテスが一生涯を通して探求してきたことは「善く生きること」であり、多くの人々にそうした生き方を勧めることによって、国家に対して
も最大の貢献になると信じていた。それ故に、自らが被告人として法廷に立った時も、堂々と自分の無罪を主張し、熱弁をふるった。しか
し、結局のところ、ソクラテス自ら主張した弁明は法廷では認容されることはなく死刑が言い渡されたのであった。

法廷における弁明では、ソクラテスの「死」に対する考え方が明確に述べられた。即ち、彼は、「死とはいかなるものであるかはわからな
い」と述べ、わからないものを恐れるということは愚の骨頂であると主張した。 第一に、ソクラテスは自らの弁明において、自分自身を含め
て「死を認識している者はいない」と述べた。彼の弁明は、特定の宗教に基づいて主張していたり、哲学の一派の考え方に傾向して主張
しているわけでもない。人間は神ではないので、「死んだらどうなるのか」ということは誰にもわかり得ないというごくシンプルな論法であっ
た。

ソクラテスは「無知の知」を引用し、「人々が死を"恐ろしいもの"と考えることには何ら合理性は存しない」ということを明確にしようと試み
た。即ち、「無知の知」においては、”自分自身は何も知らない”ということに気が付くことが重要。人間は、死について何もわからないので
あるから、”その無知”を認めなければならないと説く。

ソクラテスにとっては、結局、このことは、自らが、「自己の無知を知ってる」という証になったもの。逆に、何もわからないにもかかわらず独
断的な考えを持ち続けることは、「自己の無知を知らない」という証になるもの。

さらに、死を知らないということが明確になると、「死は恐ろしい」という判断も間違っているというロジックが成り立つ。なぜならば、「死とは
いったい何であるのか」ということを知らないにもかかわらず、死について無闇に恐れるということは極めて愚かなことであるからだ。

次に、ソクラテスは「死は善いものだ」と述べた。ソクラテスは既に、死については全くわからないと断言しているので、一見すると矛盾して
いるかのように思える。しかし、これは、死に対する数ある考え方を目の前にして、「いったいどれが妥当で正しいのかがわからない」という
ことを示唆するものだ。実際問題として、ソクラテスほどの哲人であっても、一度も死んだ経験がない以上、それを知ることは不可能であ
る。だから、ソクラテスは、これを断定することを回避したのだ。

不完全な存在であるはずの人間であっても、本人が信じる宗教の信仰心から、死後も魂は残ると考える人もいれば、逆に、自然科学的な
根拠から、それを否定する者も存在するということは当然のことである。ソクラテスがこの問題について明確な答えを出さなかった理由は、
極めて理性的な立場から「間違いのない"知"の範囲内にとどまろう」とするスタンスがあったからである。

ソクラテスは、死後の魂について二つの考え方を打ち出した。一つは、1)「死によって魂は無に帰する」という考え方であり、もう一つは、
2)「死によって肉体は滅びても、魂は生き続ける」という考え方である。ソクラテスはこの二つのうち、一体どちらが正しい考え方なのかと
いう明確な答えは出さなかった。ただ、いずれの場合でも、死は善きもの、つまり、正しく生きる者にとっては何も恐れる必要のないもので
あるということを主張したのだ。

以上、ここでは、プラトンが著した『ソクラテスの弁明』に記述されているソクラテス理論を紹介した。結局のところ、ソクラテスは、法廷で「死
刑」の判決を下された。

自らの一生を、”善く生きること”に全力を尽くし、祖国に対しても、逞しく”最高の善”を実践したソクラテスの生き方は、私たち現代人に対
して真実に生きるための偉大な勇気を教えてくれるものであると、私は捉える。





一般社会における哲学の存在
   ・・・オランダと日本の比較を通して”哲学する方法”を考える

「哲学は極めて難しい学問である」と、世の中のありとあらゆる人々が言う。確かに、哲学という学問の領域においては、極めて抽象的
な理論・概念が所狭しと交錯しているため、多くの人々が、「哲学というものは、毎日の生活においては無縁な代物である」と判断してし
まう。しかし、今、これまでの歴史を振り返ると、人間の「知」の歩みにおいて、哲学が果たしてきた役割は非常に大きいということがわ
かる。

そもそも、哲学を学ぶという行為は、1)「人間そのものを学ぶ」ということであり、また同時に、2)「個々の人間が、人間にとって最も妥当
な生き方を追求する」という行為でもある。

私は、2003年の5月まで、オランダ王国の北部都市・フローニンヘンに居住し、そこにキャンパスを構える国立フローニンヘン大学
(Rijksuniversiteit Groningen)法学部に自分の研究室を構えていた。この大学の創立は1614年であり、オランダで2番目に古い大学
である。ある日、法学部の同僚であり親友でもあるロブ・シュウィッターズ博士(Dr.Rob Schwitters)と研究室で話をしたとき、「オランダ人
にとっての哲学」というテーマで意見を交わした。その際、シュウィッターズ博士は、以下のような面白い見解を述べた。

   「オランダでは今も昔も哲学を愛する人々が多い。しかし、哲学を愛する人々であっても、彼らには月曜日から金曜日までは仕事が
   ある。どんな人でも仕事に精を出して働かなければ食べてはいけない。しかも、夜は、家族との時間を大切にしたい。したがって、 
   平日にゆっくりと哲学書を読むということは意外と難しい。それ故、哲学を愛する人々は、日曜日こそが、ゆっくりと哲学書を手に取
   ることができる"娯楽の日"であるという考え方を持っている。」

概して、日本の人々は、「個人尊重主義」が台頭するオランダに対するイメージとして、「オランダの哲学好きな人々は、さぞ、哲学の
理論に精通しているに違いない」と想像する傾向にある。だが、実際、そうしたイメージは単なる妄想でしかない、と言うべきだ。実際
は、オランダ人であろうとも、その本人が哲学の研究者でもない限り、詳細にわたって哲学を熟知しているということは皆無に等しい。

さらに、シュウィッターズ博士は、次のように述べる。

   「一般に、”私はカント哲学が好きだ”と断言する人であっても、その理論を十分に理解し、それについて詳しく説明できる人は
   100人中5人にも満たないであろう」と。

これをもっと具体的に述べるならば、たとえ日曜日などの余暇を利用して難しい哲学書を読んでいるオランダ人であっても、そのほとんど
は、本の中身を十分に理解してはいないということである。オランダでは、確かに、哲学書を熱心に読む人は比較的多い。だが、実際の
ところ、読んでも、その中身を十分に理解しているとは限らないのだ。

このことは、日本における場合でも同じことが言える、と私は捉える。日本においても、「家の本棚には、カント、ニーチェ、サルトルなど、
実に多くの哲学書がおいてあり、暇さえあればそれらを手に取る」という人はいる。だが、実際、業績のある作家や学者でもない限り、
本棚においてあるそれらの書籍について十分に理解しているということはまずない。

このような観点から言えることは、西洋でも日本でも、”哲学書の役割”として考えられることは、書かれてある理論そのものを理解する
ことよりは、(1)「難しい顔をして哲学書に触れ、”読んだ”という満足感を得ること」、(2)「”自分の部屋に哲学書を置く”、という一種の
所有欲を満たすこと」に人の心が傾向しているということだ。

では、”職業”として哲学を扱うことのない人間が、自身の力で哲学するためには一体どうしたらよいのであろうか。これは、実に難しい
問題であり、この問題について僅か数行で述べるということは不可能に近いことだ。

だが、ここであえて提言させていただくならば、一つだけ言えることがある。それは、「単に、機械的に哲学についての概念・理論に触れ
るよりも、まずは、自分にとって入りやすい”知の範疇”において、自分なりにしっかりと思索してみる」ということである。思うに、「西暦何
年に、どの国にどんな哲学者がいてどんな理論を唱えたか」ということを知るだけの行為は、”単なる平面的な知識の寄せ集め”でしか
ないものだ。人間が、”理性的存在者”として何らかの思考をするときには、「(自身にとって読みやすい)書物で得た知識・理解を基盤と
して、時代・場所を超越し、”相互に関係する理論・概念”を関連させながら思索する」ということが肝要となる。このような思考プロセスこ
そ、「極めて意味のあるフィロソフィカル・プロセスである」と、私は考える。

人間の一生は、一見すると長いように思えるが、実のところ、”すこぶる短い代物”である。その短い人間の生涯において、「一体いかな
る方法で”価値ある生き方”をすることができるか」という問題は、どんな人間にとっても最も大切な問題であるに違いない。そうした意味
において、我々人間は、人類史における様々な「知」を振り返り、”理性的存在者”として立体的思考を試みることが重要であると、私は
考える。

生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)
p3-8、一部修正・加筆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






人間の存在(生と死)について
  ・・・タレス、アナクシマンドロス、デモクリトスにおける解釈の推移

西洋文明社会においては、古代ギリシア時代における最初の哲学者と考えられているのはタレス (Thales, 624?-546? B.C.)であ
る。タレスは哲学、幾何学、天文学の研究に専心し、"自然哲学の創始者"とも呼ばれている人物である。また、紀元前620年から
70年間のあいだに登場した古代ギリシアにおける七賢人の一人でもある。

例えば、アリストテレスは、著書『形而上学』において、哲学の起源を、ミレトス(小アジアのイオニアにある植民都市)のタレスなどに
見い出し、タレスを”哲学の創始者”と呼び、ミレトスを”西洋哲学の発祥の地”と唱えた。

タレスは、「万物の根源(アルケー、arche)は水である」と主張。本来、ギリシア語のarche(アルケー)は、「始源」、「根源」などを意
味するものだが、古代イオニアの自然哲学者たちは「万物の根源」という意味で広くこの言葉を使っていた。

その後、アナクシマンドロス(Anakimandros, 610?-540?B.C.)が登場。万物の根源について、それを、「無限なもの」「限定を持たぬも
の」「無規定のもの」(to apeiron)と説く。アナクシマンドロスは、ミレトスの自然哲学者として名を馳せた人物であり、「無限なもの」
(to apeiron)とは、何ら、定義することができない概念であり、永遠的、且つ、不老なもの。アナクシマンドロスは、生命がどのように
発生したのかという問題、また、人類の起源についても詳細に説いた。

後に、デモクリトス(Demokritos, 460?-370?B.C.)が「原子論」を提唱。デモクリトスは、古代ギリシア時代において唯物論を唱えた
哲学者として有名。彼は、ギリシアのアブデラに生まれ、レウキッポス(Leukippos)の原子論を継承してそれを発展させた哲学者であ
り、自然学、倫理学、数学、技術、音楽に造詣が深かった。著作は、格言に近い”断片”が残されているのみである。

デモクリトスは、世界・万物の究極の構成要素は原子(atomon)であるとし、「万物は、不可分の物質的微粒子である原子から成る」
と主張。万物は、それ以上は決して分割できない"究極的な物質的構成要素"である「原子」によって存在しており、万物は、原子の
結合と分離によって生成・消滅すると唱え、人間の魂も、例外なく原子によって構成されていると唱えた。

人間の「生」と「死」についてデモクリトスが唱えた理論は、次の如きである。即ち、いかなる生物も"呼吸をすること"によって生存し
続ける。あらゆる生物の内部の魂の原子は、外部の空気の圧力で絶えず外の世界に押し出されようとしている。一方、外部の空気
には、無数ともいえる魂の原子が存在。人間は、呼吸をすることにより空気中の魂の原子を体内に吸収し、それによって外気の圧力
を退けている。これによって、体内の魂の原子が体外に押し出されるのを防ぐ役割が演じられている。人間は"呼吸をすること"によっ
て外部から魂を吸収できる限りにおいては生存し続けられるが、このバランスが崩壊し、外部の圧力が勝り、体内の魂の原子が
体外に押し出されてしまうと「死」が訪れる。

デモクリトスは、以上の如き理論展開を試み、「永遠なる魂」について否定。デモクリトスは、人間の死に対する不安について、それを
「死後の世界に対する不安」であると説く。これは即ち、どんな人間でも一生涯において一度は大きな疑問として抱くであろう「人間
は死んだらどうなるのか」という不安である。

デモクリトスは、"人間の魂は死後の世界では存続しない"のであるから、それを信じる限りそのような不安を抱く必要性は一切な
い、と唱えた。彼はさらに、エウテュミアー(euthymia、平安に満ちた心の晴れやかさ)を提唱。これは、我々人間は、エウティミアー
を実現する目的をもって「死を過度に恐れることなく、”程よい生活”・”調和のある生活”を満喫することによって最終的には幸福にな
れる」という考え方だ。言うなれば、人間の魂は死んだら消滅してしまうわけであるから、死を恐れる必要はない。それ故、死に対し
て、人間が不安を抱くことは無意味である。したがって、人間は、死を恐れることなく、自らの人生を存分に楽しむべきであるというこ
とだ。





    オルフェウス教・・・人間に潜むディオニュソス的な「善」とティタン的な「悪」





    古代ギリシアの唯物論哲学者、エピクロス





    古代インドにおけるウパニシャッド哲学の誕生





    古代中国の思想家・孔子が唱えた「仁」と「礼」





聖書における死生観 1
 ・・・旧約聖書における解釈

旧約聖書は、生命の誕生、生の系譜、死の潜みについて多様な形でダイナミックに語っている。以下、ここでは、人間が生きること、
そして死ぬことについて、旧約聖書がいかなる解釈をしているのかについて検証していきたい。

旧約聖書の創世期1の12、21、25、31によれば、旧約聖書を解釈する人は、神が言葉とロゴスによって万物を生命に呼び出す
場面に遭遇し、神自身が自ら創造した生命世界の秩序を是認する宣言に立ち会った。このことは、旧約聖書のストーリーは、生命の
礼賛を通してその幕を開けていると解するべきであるということを意味している。

コーヘレス書9−4では、コーヘレスが「生ける者として選ばれている者には希望がある。生ける犬は死せる獅子に優る」と言ってい
る。また、創世記3−19、コーヘレス書3の19−20では、人は、「塵から取られ、ゆえに塵に帰る」と伝えられている。いかなる人間で
あっても同じように死を迎え、例外なくこの世を去ることになる。「何と、賢者も愚者と同様に死ぬのだ」(コーヘレス書16)にあるよう
に、「死」という定めの前では誰にとっても平等なのである(1)。

興味深いことの一つとして、同じ時代における他の文明における思想と比較すると、旧約聖書では人間の死後の生に関する見方に関
しては極めて消極的かつ控えめな態度を持っているということだ。

例えば、コーヘレス書6−12において「人間に、その一生の後どうなるのかを教えるものはどこにもない」と述べている如く、死が生か
ら完全に独立して別の世界を形成するということはなかった。また、死が擬人化される表現はあったが(2)、ヤハヴェに対抗する如き神
格となることはなかったのである。

アガペア戦争の時代においては、義人の不死の観念や復活思想(3)を窺うことができるが、この時代においても、それらは神を信じて
教義に従って清く生きるという信仰の擁護といった限られた観点を大前提として展開された思想であることに留意すべきである。

即ち、この時代の人々の信仰生活の実質的な空間は、今現在、現実に生きている瞬間を最大限に正しく生きるということに主眼を置い
ていたのである。現実の生を慈しみ、生きているという確かな事実を賛美する姿勢こそが旧約聖書における死生観と解することができ
る。

さて、ここからは、旧約聖書においては一体如何なる生命世界が描かれているのかについて検討する。承知の如く、古代においては、
神話の世界では神々の闘争によって生命の世界が誕生している。ところが、旧約においてはそうではなく、「ヤハヴェ神が土の塵で
形作った人の鼻に命の息を吹き入れた」(創世記2ー7)ことによって人間は生きる存在となった。これは言うまでもなく、旧約における
人間の誕生とその生命は、神から与えられた賜物として考えられているということだ。

人間の誕生とその生命が完全無欠の(絶対的な)存在としての神から賦与されているという裏付けは、申命記32−39における「私の
他に神はいない。私が殺し、私が生かす」という言明によって明白である。即ち、神によって与えられた生命は人間が持つ独立した
所有物となるわけではない。神によって与えられた生命は神によって奪われるものである。人間が「生かされている」という現実、つま
り、人間の生命は神からの賜物であるという解釈は、まさにここから読み取ることができるのだ(4)。

旧約においては、人間の「生」と「死」の双方が神の手によって委ねられているという考え方は、人々が自らの人生について絶望感に
耐え切れなくなった時、自殺することを絶対的に禁止するものである。ヨナ書4−3やヨブ記6−9などにおいては、極度の絶望感から
死を選び、それを切望する人間は、命を自ら断つということはぜず、神に対して自分の命を取り上げてくれるように嘆願している(5)。  

ここで明白なことは、旧約の人々における「生」と「死」に対する態度は極めて受動的であり、「生」とは与えられた生命の下で生きるこ
とであり、「死」とは与えられた生命を与えた神が取り上げることなのである(サムエル書上2−6、ヨブ記1−21)。

神は人間に生命を与えたわけであるが、それは言葉・ロゴスを介して与えたのであった。即ち、神は人々を祝福し、「産めよ、増えよ、
地に満ちよ。また地を従わせよ。海の魚、天の鳥、地を動くすべての生き物を支配せよ」と語ったのだ(創世記1−28)。旧約における
神の存在は不動不変のイディア的存在ではなく、神から人間に対して語りかける「人間を探し求める神」(God in search of man)から響
いてくるものである(6)。

  「私は、今日、天と地を証人として呼び出す。そして、生と死を、祝福と呪いを君の前に置く。君は生を選べ」(申命記30−19)。

  「パンにみにてではなく、ヤヘヴェの口から出づるものによって、人は生きる」(申命記8−3)。

  「君の神、ヤハヴェを愛し、その声に聴き従い、彼につき従いなさい。それこそが君の生なのだ」(30−20)。

これらの言葉には、神から与えられた人間の人生を生きることは、同時に神の言葉・ロゴスを聴くことであるということを意味している。
つまり、「人間が能動的に生きるということ」は、「受動的に神からの言葉を聴くこと」と同じであると考えられていたのだ。

旧約における「生」の捉え方は以上の考察で明確になったが、一方、「死」に対する人々の捉え方はいかなるものであったのだろうか。
旧約においての「死」とは、神が人間に働きかけ、人間が神に応答するという相互関係が終焉してしまうという意味を成すものである。
「あなたが死者のために御業を行ったり、死霊が起き上がってあなたに感謝を捧げたりするでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、
あなたのまことの滅びの国で語られたりするでしょうか。闇の中であなたの御業が、あなたの恵みが忘却の地で知られたりするでしょ
うか」(詩篇88の11−13、6の6)という語りから理解し得る如く、人間の「死」とは、神が語りかけていても、それに対して決して答え
ることができない、という事態を意味しているのである(7)。

このようにして、生命が応答への招きの受け取りを原始的に包含しており、死が応答不可能性として端的に解釈されていることが明確
になった。それでは、このような背景の下、人間の生の在り方はいかに展開されているのかについて考えてみたい。

旧約の生命における象徴的な表現としては、息吹、風、霊(詩篇104の29−30)、息(創世記2−7)、血(レビ記17−11、申命記
12−23)などの表現がある。これは、旧約における生命は、力や活動の象徴として考えられていることを示唆するものであり、決して
抽象的な観念ではないことがわかる。創世記においては、生み出された命は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1−28)と呼びか
けられており、人は、「彼にふさわしい助け手」を必要とし(創世記2−18、2−20)、異性と協力して新たな共同性を造り出していくよ
うに方向づけられている(創世記2−24)。そして、豊かに増えていくことこそ生命であると解釈され、長寿や天寿を全うすることは祝福
されたのであった(創世記35−29、出エジプト記20−12、申命記5−16、ヨブ記42の12−17)(8)。 

また、神の祝福は、子宝に恵まれることも包含すると考えられていた。例えば、アブラハムは、美しい妻と多くの財に恵まれていたが、
神に対して「あなたは何を私にくださるというのですか。私は子がいないままです」(創世記15−2)と問いかけている。アブラハム曰
く、祝福としての生は、恵まれた天寿をまっとうすることだけではなく、その恵みが子孫へと引き継がれていくことで完全になると考えら
れていたのである。

注)
 (1) 外典「ソロモンの知恵」では人間を不死と捉える考え方があるが、旧約聖書においては熟した思想としては解釈できない。
 (2) ホセア書13−14、詩編49−15。  
 (3) ダニエル書12−2。
 (4) 関根清三「旧約聖書の思想 24の断章」(岩波書店、1998年)の5章、6章において、人間の存在と生命についての「賜物
    性」について詳細に論じられている。
 (5) レビ記17の10−14や申命記12の13−28においては、神は人間が動物の肉を食べることを許すが、命と同定される血を食
    べることを禁じていることや、創世記9−5においては人間と人間における紛争による生命の損傷は神によって追求されるという
    ことは、神自身が生命 の源であるということを意味している。
 (6) Abraham J. Heschel, God in Search of Man, −A Philosophy of Judaism− (The Noonday Press, Farrer, Straus and
    Giroux / New York, 1955). 
 (7) 「仕事も企ても、知恵も知識もない陰府」(コーヘレス書9−10)、「地獄の穴、暗闇、陰」(詩篇八八7)、「陰府に下るともう上っ
    てはこない」(ヨブ記7−9)という如く、旧約における人間の死は極めて消極的な意味合いを成している。
 (8) イザヤ書38−10、詩篇102の24ー25)においては短命が嘆かれていることに留意すべきである。





聖書における死生観 2
 ・・・新約聖書における解釈

新約聖書が、所謂、「初期ユダヤ教の後半期に登場する死生観」を基本的な前提としているということは周知の事実である。即ち、バ
ビロン捕囚以降において、「第二神殿」を中心とする教団体制が確立された紀元前5世紀から、紀元70年の神殿崩壊までの間を初期
ユダヤ教と称するのが一般である(1)。この時期は、旧約聖書の後期と部分的に重複する時期である(紀元前3ー2世紀)。

この時代におけるユダヤ教の死生観の中には、旧約聖書でかなり頻繁に引用されていた観念が欠如していたり、逆に、それまで耳に
しなかった表現が登場することもある。例えば、「人は死ねば土に帰る」(創世記3−19、詩篇90−3、104−29、146−4、ヨブ記
10−9など)という旧約においては極めて基本的といえる死生観は、初期ユダヤ教においてはほとんど強調されはいない。その理由
は、時代の潮流・背景を考えても明白の如く、当時、ユダヤ民族に様々な苦難が押し寄せてきたわけだが、このような安易な死生観で
は人々が安心することは困難であったのであろう。

一方、不変な観念としては、古代オリエント的ともいえる[人間は死ねば『黄泉(よみ)』へ赴く」という観念である(ヘブライ語では黄泉
はsheolと呼ばれたが、ギリシア語にもこれに相当する観念である"haid s"が存在していたことは、この観念を不変化する上で大きな
役割を演じたに違いない)。初期ユダヤ教、新約聖書においては、この黄泉という観念は、単なる死者の国というニュアンスだけではな
く、現世に生きていた頃に犯した罪を罰する場所であるという捉え方がなされていた(ルカ伝16−23)。

黄泉は、様々な生き方をした人間が行く場所であるが、結局は、「最期の審判」を受けるために暫定的に滞在する場所である。詩篇
49−16、あるいは、139−8においては、「神は、義人を黄泉に放り投げておくようなことはない」ということを示しており、そこに、「こ
の世の終わりに死者は復活する」という解釈がみられる。

黙示録的世界の到来に対する期待、所謂、apocalypticism(黙示思想)には、善人も悪人も含め、すべての死者が復活し、神による最
期の審判がなされるという解釈(ヨハネ伝5の28〜29、黙示録20の12〜13)、その一方、善人のみが復活することができ、永遠の
命が授けられるという解釈がある(ソロモンの詩篇3−12、ルカ伝14−14など)。 

旧約のダニエル書12章の2−3においても最期の審判について触れられていることから推察できるように、旧約・新約における人間の
「生」と「死」は、神に対する応答として捉えることができる。新約における死生観を検討する上で最も重要なものは、「イエス・キリスト
の復活」である。国事犯として処刑されたイエスは、当時としては最も残酷な「十字架」という方法でその命を奪われた。当時、イエス
ほど神の愛を実践した者はいなかったにもかかわらず、その最期が十字架による処刑という事実は、多くの弟子たちを絶望のどん底に
突き落とした(2)。イエスが埋葬された後、イエスの死体が墓場から消えてしまったと伝えられているが、このことも、イエスの弟子たち
における更なる不安を生じさせ、同時に、謎の世界に突き落とすことになる(マルコ伝16の1−8、マタイ伝28の11−15、ヨハネ伝
20ー13)。

そのような状況の下、ペトロとマリヤ(マグダラの女)に、”異変”ともいうべき事態が起きた。イエスが処刑され、彼らの「生」への展望
はことごとく崩壊してしまったわけであるが、彼らは、それまで信じていた命とは全く別の次元の命を認識するに至ったのだ。それは
一体何かというと、言うまでもなく、「死んだはずのイエスが再び現れた」ということだ(第一コリント15の5〜7)。イエスの死体が墓場
から消え去ったという事実は、「イエスは神によって復活させられた」という解釈を生じさせ、「神は、イエスを死人たちの中から起こし
た」という表現を生んだ(ロマ書6−4、10−9、使途行伝2−24、3−15、5−30など)。これは、後に、「キリストは眠っている者たち
の初穂として、死者たちの中から起こされた」(第一コリント15−20)という表現に変わり、ここに、イエスの復活における黙示思想化
現象が始まる。

ファリサイ派のユダヤ人であるパウロは、紀元33年頃、ダマスクス近郊で、突如、イエスに出会うという神秘体験に遭遇した(ガラテヤ
書1−16、使途行伝9の1−9)。パウロは、これを契機として、原始キリスト教の伝承に力を入れ始めた。それ故、パウロの手紙は、
”原始キリスト教会に関する伝承句の宝庫”と捉えられるようになった。

パウロが展開した神学は、いうまでもなく「十字架の神学」である。十字架刑は、ローマ帝国に反発する者に対する見せしめとしての殺
害方法であり、極めて残虐で侮辱の極みとされていた処刑法である。イエスが処刑された後、誰一人として十字架について言及する
ことはなかったが、パウロは初めて、十字架を、信仰の象徴としてその礎を築いたのだ。

パウロは、「第三伝導旅行」(使途行伝18−23〜21−14)で書いた「コリント人への第一の手紙」において、極めて明確に、「言葉の
知恵」(1−17)と対比させ、「十字架の知恵」(1−18)を語っている。当時の人々にとっては、十字架について触れることは、まさに
”愚の骨頂そのもの”であると考えられていたわけであるが、パウロは、十字架を「神の知恵」であると明言したのだ(1ー18、21〜
24)。今ここで、このことを弁証法的に述べるならば、「生・死・新生」というプロセスにおいて、とりわけ「死」に重点を置くことによって、
「新生」、つまり、”復活した”というその推移を鮮明に述べているということがわかる。

その後、紀元70年代、パウロは、この弁証法を大きく展開。90年代においては、第四福音書で、生死弁証法の「生・死・新生」の
一元化を図る。これによって、イエスの死は「新生」を包含し、それは、”新生そのもの”となる。これはつまり、イエスが十字架にあげら
れるということを、「イエスが天にあげられる」ということと同じ様相として捉えていることを意味するものだ(3−14、8−28、12ー32〜
34)。そして、まさに、十字架のイエスは、頭を垂れて息を引き取るとき、「成し遂げられた」と述べた(19−30)。

注)
 (1) ユダヤ教は、後に、「ラビ的ユダヤ教」と呼称されるようになる。
 (2) 男の直弟子たちは、十字架を面前にしてパニック状態に陥った(マルコ伝14−50)。







ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)作  アテネの学堂(Scuola d'Atene)、1508-11年、バチカン宮殿//・



イタリアのルネサンス期の画家・ラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)がバチカン宮殿に描いた壁画、「アテネの
学堂」(Scuola d'Atene)においてプラトンとアリストテレスが描かれている。天を指してイデア界を示しているのがプラ
トン、その隣で、手のひらを下にして現実の世界を重視しなければならないと説いているのはアリストテレスである。
この壁画において、プラトンが理想主義を重んじる一方、アリストテレスが現実主義を重んじていたことが鮮明に表現
されている。





    プラトンの「哲人政治論」と「魂」について





アリストテレスの「正義」について考える
生井利幸・・・・・・・・・

我々は、社会生活においてしばしば「正義」という言葉を用いるが、今、改めて、この概念について再考することを試みたい。言うま
でもなく、正義の概念については、古代から現在に至るまで様々な考え方が述べられてきた。そこで今回は、古代ギリシアの哲学
者、アリストテレスが唱えた正義について触れることにする。

アリストテレス(Aristoteles, 384-322B.C.)は、個人の「徳」が社会的に表象されたものが正義であると考えた。彼は、国家は国民
一人ひとりがそのオ−ガナイザ−として組織されており、その運営はすべての国民の協力で成り立つものと解したのだ。本来、
人間は自分一人だけでは生きられないわけであるから、"国家を形成する"というその行為はいわば「人間の本性」といえるもの
だ。

国家形成の基本となる原理は、「国民が相互に善を与え合う」という行為である。そうした行為を「友愛」と呼び、それは国家の結合
原理として捉えられた。理想の国家を維持していくためには、それと並行してそこには「正義」が必要となる。アリストテレスは、「正
義」こそが人間の共同体である「国家」を維持していく上において最も重要な要素であると説く。

アリストテレスの正義は、プラトンのような抽象的な正義ではなく、現実を直視した極めて具体的な正義であった。即ち、正義は、
まず時間的空間や場所を超越して通用する(1)「全体的正義」、そして、公正を意味する(2)「部分的正義」に分けられる。

さらに、部分的正義は、それぞれの人間が彼の地位や役割に応じて働いた結果、果たされた功績にしたがって名誉や報酬が付与
される「配分的正義」、そして、ある罪に対して一定の罰を加えるという、個人差を考慮することなく利害の不均衡を調整する「調整
的正義」の二つに分類される。アリストテレスは、ポリス(都市国家)の現実を直視し、その現実を受け入れようとしていたため、
人間に地位や能力の差があることは当然の事実であると考え、「配分的正義」を"正義の原則"と説いたのだ。

承知のように、ギリシア神話に登場する「正義の神」は、片手に”公正”を意味する「秤」を持ち、もう一方の手には”裁き”を意味す
る「剱」を持っている。正義の神は、正義の追及は、社会秩序を維持するために「法」を尊重し、皆がそれを誠意をもって守ることが
前提とされる。法を破る者は、法によって裁きが行なわれ、それに対して「刑罰」が下されることが"正義の実践"となるということを
意味しているのだ。

このように、古代ギリシア時代は、「正義とは何か」という、人間にとって極めて基本的な問題についてエネルギッシュな思索が
展開された時代であった。だが、残念なことに、現代においては、そうした古代の哲学者の偉業を深く学び、それを現代における
”現実の世の中”で活かそうとする人は極めて少ない。

例えば、政治の世界である。「国の政治を担う者には、確固たる哲学・理念を備えていなければならない」という考え方は、現代の
日本の空虚な政治の世界において再考されるべき問題である。ところが、現実には、常に、政党間における権力抗争ばかりが
台頭し、本来、議論すべきことを議論することなく政治が行われることが多い。

西洋社会において、日本はしばしば、「日本の政治は空虚である」と評される。その理由は、外国のマスメディアで、前述した、
日本国内における政治のネガティブな側面について報じられることがあるからだ。

幸い、日本には、考えるための環境・材料が豊富にある。長い歴史を通して成熟した”絢爛たる日本文化”に身を置く我々日本人
は、さらに自分たちの文化の「尊さ」「重み」に触れ、それを基盤として、「本来、考えるべき問題について考える」ということを試みる
べきではないだろうか。

アリストテレスは、「国家形成の基本となる原理は”国民が相互に善を与え合うこと”」と述べた。日本の将来について深く思索する
今、私は、しみじみとこの言葉の意味を噛み締めている。

注)
アリストテレスは、トラキア地方のギリシア人植民地スタゲイロスにおいて、マケドニア王の侍医の子として生まれた。17歳の頃に
アテネに移り、プラトンが開いていたアカデメイア学園の門を叩く。その後、アリストテレスは、学園で20年にわたって研究する一
方、プラトンを助けて後輩の指導も行った。プラトンの死後は、アテネを離れ、マケドニア王フィリップから招聘されアレクサンダー
(当時13歳、後に大王になる)の家庭教師になった。マケドニアがアテネを支配すると、アリストテレスはアテネに戻り、市の東北郊
外にリュケイオン学園を開設した。主な著書は、『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』『アテネ人の国制』『修辞学』など。

生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)、p50-52参照





    プラトンのイデアを批判し、「エイドス」を唱えたアリストテレス






新プラトン学派の創始者、プロティノスの理論

新プラトン学派の実質的な創始者はプロティノス(Plotinos, 205-270)であり、この学派は、古代ギリシア哲学のラストステージを
飾るものとして知られている。新プラトン学派は、アリストテレスやストア学派の思想もみられるが、プラトン哲学の影響を大きく受
けている学派である。これを証明する顕著な事実としては、学派の創設者であるプロティヌス自身が自らプラトニスト(プラトン主義
者)と名乗り、彼自身の著作において、自ら、プラトン哲学の解説をしていることだ。また、彼は、自身の著作の中でプラトン哲学を
継承しつつも、実に、独自の理論を展開しているのだ。

プロティノスは、プラトンと同様に魂は死後も存続する立場を採っていたが、「魂の究極的な目的は"万物の根源である絶対的なも
の"との合一である」とし、これこそが、あらゆる人間の至上なる幸福であるとした。プロティノスは、この万物の根源である絶対的
なものを"to hen"(一、一者)、あるいは、"to proton"(第一者)であるとし、彼はこれを"to Agathon"(善)と呼んだ。

即ち、この世界には、実に様々な存在物がある。しかし、そうした「多」の根源をなす大もとの存在は、「一」である。例えば、個人
は、個人として”ひとまとまりの統一性”を持ち、今、使っている机も、机として、”ひとまとまりの統一性”を持って存在しているもの
として捉えられる。したがって、すべての存在物は、そうした統一性が崩壊してしまうと、それ自体が、その存在性を意味する存在
物としては維持することが不可能となるのだ。

これをわかりやすく述べるならば、この世の存在物は、その統一性が崩れると、分解し、消滅してしまうということだ。なぜならば、
事物の存在の原理は、「一」あるいは「一者」であるからである。

一者から多なる万物が生じる構造について、プロティノスは、多なる万物は、この大もとの「一者」から流出した産物であると説く。
一者は、完全無欠な存在であり、完全なものは"産出的"であり、多の存在物を生み出す必然性を備えている。一者からの流出
は、一者自身の意志によるものではなく、”極めて自然的”、且つ、”必然的に”生じるものであり、その流出は、単なる時間的な
働きとして認識できるのではなく、”超時間的”、”超永久的”な働きである。 しかし、一者からの流出も、一者から離れていくにし
たがって、徐々に、その、”完全無欠性”を失う。そして、やがて、存在の欠如としての非存在になっていく。

プロティノスは、こうした流失のプロセスを、三つの段階に分類した。即ち、一者から最初に流失し、一者に最も近いものは
@"nous"(知性、英知)であり、次に流出するものはA"psyche"(魂)であり、そして、最後に在るのが、存在の欠如である
B"hyle"(質料)である。

nousは、一者から最初に流出するものである。これは、太陽が不動のまま周囲に円光を放射する如く、一者から最初に流出され
る。それ故、nousは「一者から最も近くに在る存在」とされ、一者の似姿として一者の特徴を最も多く備えている。これは、一者
自身は「知性」であるということではなく、一者が外から一者自身を見て思惟することを通して成立するのであり、そうした
"見る作用"がnousそのものということを意味すると解される。

このようなnousの思惟作用と共に、「思惟するもの」と「思惟されるもの」、「見るもの」と「見られるもの」という区別が発生すること
によって、根源である「一」から「多」が成立する。そして、nousは、今度はpsyche(魂)を生み出す。一者が"自身の完全性"のゆ
えにnousを誕生させたように、nousも同様にpsycheを誕生させることになる。

psycheは、知性的世界のイデアを見ることで、hyleにおいて感覚的な事物を成立させ、この世界を形成する。即ち、psycheがこの
世界を照らす前は、この世界は単なる土や水だけの世界であり、それはhyleだけの暗闇の世界である。psycheは、感覚的世界を
形成しているわけであるが、この感覚的世界における”根源的素材”はhyleである。

hyleは一者から流出した末端であり、太陽の光が最後には闇に終わるように、hyleも光の欠如であり、無規定なものである。した
がって、hyleは、この感覚的世界におけるすべての"悪"と"不完全"の原因として捉えることができる。

プロティノスの理論においては、「悪」は、"善の完全な欠如"であるが、我々人間も、例外なく、一者から流出することによって誕
生する存在者であり、nous, psyche, hyleのすべてを備えた存在者として、既に述べた三つのプロセスに関わっていると解される。
しかし、人間はあくまでその本源を一者に持つものでるから、人間は、究極的には一者に帰ること、即ち、「一者と合一すること」を
"生きる目的"としなければならない。

人間の「魂」(psyche)が、「肉体的・物質的なもの」(hyle)から離れ、「純粋な知性」(nous)となり、さらに知性も超越して一者と一つ
になるその瞬間、そこに、究極の「善」(to hen)、つまり至福の世界に到達することができるのである。

これを式で表すと、以下の如きとなる。

  <hyleである人間の発祥のプロセス> =  to hen ⇒ nous ⇒ psyche ⇒ hyle
  <死後における究極的な目的地> =  hyle ⇒ psyche ⇒ nous ⇒ to hen

この式でも理解できるように、人間の根源はto henであり、死後において至上の幸福に至るためには、結局、最高善である
to henに戻ることが必要とされる。つまり、魂が禁欲的な生活をすることで自己を浄化し、質料的なものから離脱し、純粋な知性と
なり、最後には知性を超越して完全に無刑相なものとなる瞬間、一者と合一になることが可能となるのだ。そして、この状態にな
ると、人間は「没我」(ekstasis)の状態となり、自己自身を忘れるばかりではなく、言語を忘れ、思考も停止することになるのだ。

注)
  プロティノスは、エジプト人で、現在のアシュートで生まれたとされている。28歳になると、アレクサンドレイアでアンモニオス・
 サッカス(Ammonios Sakkas)の下で11年のあいだ哲学を学んだ。40歳になると、ローマで私塾を開設した。当時のローマ教・
 ガリエヌスは、哲学者としてのプロティノスを尊敬していたと伝えられている。彼の著作は、弟子のポルピュリオス(Porphyrios)が
 編集した『エンネアデス』の中に収められている。





    古代日本の律令時代において活躍した三人の偉大な僧侶、業基・最澄・空海





「人間の尊厳」を追及した中世イタリアの神学者、トマス・アクィナス

トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)は、中世イタリアのスコラ学最大の神学者・哲学者であり、同時に、ドミニコ会士、
教会博士(doctor ecclesiae)でもある。トマスの代表的著作は、言うまでもなく『神学大全』(Summa theologiae)である。12世紀から
13世紀にわたって多数のスコラ神学者(オセールのギレルムス、ヘイルズのアレクサンデルなど)によって『神学大全』(Summa
theologiae)が執筆されたが、その中でも、トマス・アクィナスの著書が最も評価が高い。

トマスの『神学大全』は三部から成るものであり、第一部の執筆は1266年、彼が41歳の時である。1274年、トマスは第三部の最
終部分を仕上げようとしている時期にこの世を去ってしまったが、ドミニコ会における彼の友人、ピペルノのレギナルドスが、トマスの
『命題集注解』(Scriptum super libros sententiarum)から該当する部分を抜粋・編纂して完成させた。

トマスは、「人間の生命」、そして「人間の尊厳・尊厳性」の概念について詳細に論じている(トマスが用いるラテン語のdignitasは、
「尊厳」の他、「威厳」「品位」「重要性」「優位性」「威厳」「身分」「役割」などを意味するものである)。トマスは、こう述べる。「生命は
神によって人間に授けられた何らかの賜物であり、殺し、かつ生かすところの彼方の権能の下にある」と。これは、トマスが『神学大
全』において構築した「人間の生命」についての”大前提”として解することができる。

キリスト教においては、旧約聖書以来、生命は神からの賜物であり、神と呼ばれる存在は、「命の道」を提供する「生ける水の泉」で
あり「命の水」である。そして、新約聖書においては、神は、「豊かな命を与える者」であり、「生命を与える霊」であると述べられてい
る。中世の神学者は、「神」や「生命」について、それらのすべてを聖書の立場から立脚して論じるのが通常であったが、トマスの場
合はそうではなかった。

トマスは、それらを探求するにあたり、古代ギリシアのアリストテレスから強い影響を受けた。トマスは、アリストテレスの著書『政治
学』(Politica)の一節を引用し、『神学大全』においてこの世に存在する生命・いのちの価値について格付けを行う。即ち、生命の”階
級”は、@低位に位置する存在は「生きているもの」(vivum)、A中間に位置する存在は「動物」(animal)、B上位に位置するものは
「人間」(homo)であり、Cこれらの最上位にあるものが命への導き手としての「主」である、と。

トマスは、植物のように生きているところのものは、一般的にはすべての動物のためにあり、そして動物たちは人間のためにあると
説く。したがって、もし、人間が植物を動物に役立たせるために使用し、動物を人間に役立たせるために使用したとしても、それは決
して不当なことではない。この考え方は、アリストテレスが『政治学』第1巻第8章で述べているところからしても明白である、と述べ
る。

即ち、植物を動物の使用に供するために、また動物を人間の使用に供するために殺すことは、神的な秩序づけそのものからして許さ
れている。これは、事物の秩序においては、「不完全なものは、より完全なもののために存在する」という大前提から出発し、生成の
プロセスにおいても、まず第一に植物のように@「生きているもの」があり、次にA「動物」、そしてB「人間」が出現したのであるか
ら、植物は動物のためにあり、動物は人間のためにあるということ。

言うまでもなく、すべての人間は動物の一種。そして、人間は、他の動物よりも上位に位置づけられている存在。そうである理由は、
我々人間には、理性によってなされる「真理についての認識能力」があるからだ。

理性は、まさに「神の似像」(imago Dei)といえるものである。トマスは、「理性」と「知性」は、人間にあってはそれぞれ別の能力であ
ると捉えることはできないとし、理性的被造物がそれ以外の被造物を越える所以のものは、まさに「知性」「精神」にあるとした。

非理性的な存在である動物や植物も、人間と同じように”神的な秩序づけ”によって維持されているのであるが、それらは「理性的生
命」を持ってはいない。それらは、常に、他者を介して、「自然本性的な衝動」によって動かされているだけのこと。言うなれば、動物
や植物は自然本性的な奴隷状態にあるのであり、究極的には、「人間の使用に供される宿命を背負っている」のだ。

『神学大全』では、「人格の品位」「諸々の人格の重要性」「人格の威厳」「人格の重要性」という表現が用いられている。この「人格」
という語は"persona"であり、「品位」「威厳」「重要性」という語は"dignitas"が用いられている。当初、トマスは、personaという語を、
「神について適切に語られる」、あるいは「神に対して最高度に適合する」と定義づけをしていた。そして後に、何らかの”優越性”、
つまり、dignitasの要素を有する人間(さらには、理性的本性を有するすべて固体)に対してpersonaと呼ぶようになった。

トマスは、理性的な本性において自在するところのものは「非常な優位」を持つ、と説く。ここにおいて、トマスは、人間を、”理性的な
もの”と捉えていたことがうかがえる。

非常な優位・尊厳性を保持する者は、「理性」を巧みに作用させ、認識したり知的に捉えることができる限りにおいては、そうした存
在者を人間として解することができる。トマスにおいては、非常な優位・尊厳性のある人間とは、いわゆる「理性的存在者」のみを指
す。罪人や悪人などの非理性的動物としての人間は、確かにヒトではあるが、そうした者たちを「尊厳」の所有者とみなすことはでき
ないとした。

注) 
トマスは、ナポリ郊外のアクィノ領・ロッカセッカ城で誕生。5歳の時、モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院に入り、その後、ナポ
リ大学で学ぶ。1244年、ドミニコ会に入会、45年にパリでアルベルトス・マグヌスに師事。1256年には神学教授資格を授与され、
同年、第1回パリ大学神学部教授に就任。72年にはイタリアに戻りナポリ大学などで教えていたが74年に没した。

生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」、、、
(はまの出版)、p67-69要約、、、、、、、、、、




フランチェスコ・トライーニ作
「聖トマス・アクィナスの勝利」
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)

中世イタリアのスコラ学最大の神学者・哲学者、ドミニ
コ会士、教会博士(doctor ecclesiae)、代表的著作とし
て『神学大全』(Summa theologiae)を著す。

12世紀から13世紀にわたって多数のスコラ神学者
(オセールのギレルムス、ヘイルズのアレクサンデルな
ど)によって『神学大全』(Summa theologiae)が執筆さ
れたが、その中でも、トマス・アクィナスの著書が最も高
く評価されている。

















ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ
(Giovanni Pico della Mirandola, 1463-1494)

ギリシア・ユダヤ思想をキリスト教哲学に統合しようと試みたイタリアのルネサンス
期における人文学者・哲学者。生井利幸自身、長年、ピコ・デッラ・ミランドラの美し
い文章に魅了され続け、今でも、『人間の尊厳について』は、古き良き古典とし
て、”夜の思索の友”として愛読し続けている。

『人間の尊厳について』
「人間が生まれるとき、父は、彼にあらゆる種類の種子とあらゆる種類の生命の芽
を挿入しました。それぞれの人間が育むものは、成長してそれぞれの人間の中に
自分の果実を産み出すでしょう。(1)もし植物的なもの(vegetalia)を育むならば、
その人は植物になるでしょう。(2)もし感覚的なもの(sensualia)を育むならば、獣の
ようになるでしょう。(3)もし理性的なもの(rationalia)を育むならば、天界の生きもの
(caeleste animal)になるでしょう。(4)もし知性的なもの(intellectualia)を育むなら
ば、天使、ないしは、神の子になるでしょう。そして、(5)もし彼が、もろもろの被造
物のいかなる身分にも満足せずに、自らの"一性"(unitas)の中心へと自ら引きこも
るならば、彼の霊(spiritus)は神と一つになり、万物を越えたところにおられる父の
「孤独な闇」(solitalia caligo)に置かれて、万物の上に立つものとなるでしょう。」

(ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ著、大出哲・阿部包・伊藤博明訳、
『人間の尊厳について』、国文社、17-18頁参照)、、


    「思索」から「癒し」へ・・・ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラの『人間の尊厳について』を手掛かりに





    ホッブスの「社会契約論」について







ヘンドリック・スティーンヴェイク作

「市場の風景」
トマス・ホッブス
(Thomas Hobbes, 1588-1679)

イギリスの西南部マクスベリにて牧師の子として
誕生。自然権と社会契約説を基盤とする近代国家
論の創始者。












    自己の確立と心の中の癒し・・・デカルトの「良識」(bon sens)を手掛かりに







作: ピエール・ルイ・デュメニール

「クリスティナ女王(スウェーデン)とデカルト」
近代哲学の祖であるフランスの哲学者、デカルト
(Rene Descartes, 1596-1650)は、著書『方法
序説』において、「われ思う、ゆえにわれあり」
(cogito, ergo sum)と述べた。

デカルトは、この書作の中で、この世のあらゆる
事物を懐疑した上で"意識の内容"は疑えるが、
「"意識する自分の存在自体"は疑えない」という
結論を導き出した。

デカルトは、これを第一原理として捉え、数学的
な明証さで明晰判明な原理に到達しようと試
み、懐疑することを確実な認識のための出発点
としたのであった。















心を落ち着けて深く考えてみると、自分の何かが変わる
  ・・・パスカルの『パンセ』を手掛かりに

 人間が生きることは、悩み、そして考えることである。だが、一言で「考える」といっても実に漠然としており、「いったい何を考えたら
よいか」と戸惑う人もいるに違いない。思うに、最初からいきなり背伸びをして、「人間の本性とは何か」とか「カントの観念論哲学の本
質は何か」というような難しい問題を考える必要性はない。したがって、@まずは自分の身の回りの問題について考えることからスタ
ートし、A少しずつより本質的な問題について取り組み、B背伸びすることなく地に足の着いた思索をする、というプロセスを踏むこと
がよいだろう。

 人間が考える重要性を説き、「考える行為にこそ"人間の尊厳"がある」と主張したフランスの哲学者・科学者・宗教家として名を馳
せたパスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)(1)は、著書『パンセ』(Pensees)において以下のような言葉を述べている。

  「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇
  宙が武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。しかし、宇宙がかれをおしつぶし
  ても、人間はかれを殺すものよりもいっそう高貴であろう。なぜなら、かれは自分の死ぬことと、宇宙がかれを超えていることとを
  知っているが、宇宙はそれらのことを何も知らないからである。そうだとすれば、われわれのあらゆる尊厳は、思考のうちにある。わ
  れわれが立ち上がらなければならないのは、そこからであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だか
  ら、よく考えるようにつとめよう。これこそ道徳の本源である。」(2)

 これは、パスカルが述べた有名な一節であるが、ここで彼は、「人間の思考の偉大さ」を強調している。確かに、人間は"一茎の葦"
にすぎないが、それは「考える葦」である。このように「考える行為にこそ『人間の尊厳』がある」としたパスカルのセオリーは、21世紀
社会を生きる我々にも十分にアプライが可能である。

 即ち、宇宙は広大である一方、人間は非常に弱い一茎の葦である。しかし、宇宙は自ら何かを問い、考えることはできない。何かを
問い、考えることができるのは人間のみである。それ故、「人間は"考えることによって"宇宙をも呑める存在」なのである。

 「人間が考える」というダイナミズムは、このような「宇宙をも呑める」という考え方から求められるわけであるが、意外にも、現代人は
この思索におけるダイナミズムを味わうことなく毎日を過ごしている。

 言うまでもなく、考える対象物は、実に人それぞれである。生きることは考えることであるから、生きている以上は、常に何かについ
て考えている。だから、その思索についての中身は、「今晩の夕食は何にしようか」という問題であっても、「明日は彼女とどこでデート
するか」という問題であってもよいわけだ。重要なことは、何を考えるにしても、「考える」という行為についてのダイナミズムを味わい、
「考えることによって宇宙をも呑める」という無限のポテンシャリティーを深く認識することである。

 そこで今、提案したいことがある。これを読むあなた自身も、パスカルになりきって、「私は考えている。考えているからこそ、自分は
『尊厳』を持った動物なのだ!」という認識を持ち、"哲学する人間"として思索の旅に出てみてはどうであろうか。

注)
(1) パスカルは、中部フランスのクレルモンに生まれた。父は税務関係の行政官として生計を立てていたが、また、素人の科学者で
  あった。パスカル自身は、学校には通うことなく、父の下で自由な教育を受けた。16歳になると、『円錐(えんすい)曲線論』を発表
  する。パスカルは熱心なキリスト教信者であり、自身がカトリック信者でありながらも、31歳になると、権威主義を否定するポール・
  ロワイヤル修道院に入り、禁欲生活を送って思索に専心した。パスカルは、哲学の基本理念の形成に関与しつつも、一方では、哲
  学の限界について鋭い言及を行った人物である。「哲学を嘲うことこそ真に哲学することである」というパスカルの言葉は、彼の"逆
  説的論者ぶり"を物語っているといえる。主な著作は、『パンセ』『プロヴァンシアル』『真空論序言』など。

(2) パスカル著、由木康(訳)『パンセ』、第6編「思考の尊厳」347、白水社、142頁参照。





    フランスの啓蒙思想家・ルソーが唱えた「社会契約論」







バルバラ・クラフト作








ヴァルフガング・アマデウス・モーツァルト
(Woflgang Amadeus Mozart, 1756-1791)

「宮廷・貴族のための音楽から”市民”のための音楽へ」

ヴァルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日、オーストリア・ザルツ
ブルク生まれの作曲家、そして、ウイーン古典派における三大巨匠の一人である。

モーツァルトは、35年の短い生涯において、実に600曲以上の作品を書いた”音楽史
上最高峰の作曲家”として広く知られており、数多くの交響曲、協奏曲、室内楽曲に加
え、「フィガロの結婚」、「ドン=ジョバンニ」、「魔笛」などの”歴史的大傑作オペラ”を発
表。生井利幸は、その中でも特に「フィガロの結婚」を、欧州オペラ史上最高峰の作品と
して捉えている。

「フィガロの結婚」の初演は、1786年。西洋文明社会においては、長きにわたる封建
制度が次々と崩壊し、個々の「市民」に自由が賦与され、まさに”人権保障樹立の潮
流”が訪れた時代である。「宮廷・貴族のための音楽から”市民”のための音楽へ」
と、当時における既存の宮廷音楽の常識を覆すことを熱望したモーツァルトは、「自らの
音楽哲学によって、壮大なスケールで”市民革命”を果した」と、私は解釈する。

21世紀社会を迎えた今日においても、西洋文明社会、そして、東洋文明社会における
多くの識者から「神の声」と絶賛されるモーツァルトの音楽は、「人間の尊厳」の追求を
希求する私の日々の思索活動に”良心の声”を届けてくれている。





    世界中のロイヤーの"聖書"として愛され続けている『法の精神』を著し、
    三権分立論を唱えたフランスの啓蒙思想家・モンテスキュー





カントが述べる「理性的存在者」について
  ・・・理性的な人間にのみ「人間の尊厳」がある

 カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は、近代の倫理思想において意志の自律の倫理学を確立させ、人間性の尊重・人格の尊
厳を強く訴えた哲学者であり、言うまでもなく、ドイツ観念論哲学の創始者である。

 カントは、人間は「尊厳」を持つ存在であるから、自他の人間性(人格)の尊厳を侵害するような行為をしてはならないとダイナミ
ックに主張した哲学者である。その根拠は、人間の存在は何かの「目的」のためにあるものであり、単に手段として使用されて
はならないという考え方から導かれる。カントは自身の著作の中で、「人格の内に宿る人間性の尊厳」という表現を用いている。
これは、人間は第一に「内的尊厳」、あるいは「絶対的内的価値」を有する存在であるという意味である。カントによると、この内
的価値こそが「尊厳」そのものである、ということである。

 この「目的」と「手段」について、カントは、以下のように考える。即ち、理性的存在者は、「目的自体」として存在し、誰かの意
志の任意な使用のための手段として存在するのではない。自己自身に対する行為においても、あるいは、他のすべての理性的
存在者に対する行為においても、絶えず同時に”目的”として見られねばならない、とした。

 カントは、この理性的存在者のことを「人格」と呼び、「人格は絶対的価値を有する」と考えた(一方、単なる手段として相対的
価値を有するのみであり、値段が付されて売買の対象となるような存在物を、「物件」と呼ぶ)。

 カントは、さらに、この地球上に存するいかなる人間であっても、不可侵な「尊厳性」を天賦的に備えているわけではないと考え
た。即ち、この世には実に多様な人間が存在している。大きく分けると、(1)「理性的人間」と、(2)「非理性的(動物的)人間」と
の二つに分けられる。カントは、この二つのうち、いわゆる、「理性的人間」のみが、目的それ自体として尊厳性を有している、と
考えたのだ。

 カントは、1785年の『人倫の形而上学の基礎づけ』において、自律が、人間及びすべての理性的存在者の根拠であるという
こと。そして、「人間性の尊厳」には、自己が立てた法則に従い自らそれに服従するという条件はあるが、普遍的法則を構築する
能力を有するという点において尊厳が存在する、と考えた。

 カントが説明する「尊厳」とは、言うなれば「価値」である。これは、極めて"無比なる価値"である。カントはまず、「人間性」その
ものが尊厳であり、人間は、いかなる価格を提示されても売買されるものではなく、決して失うことのできない尊厳を有する存在
であると考えた。そして、「善き意志」こそが、人間の存在に絶対的価値を持たせることができる唯一のものであるとした。

 この「尊厳」について考える上で注意すべき点の一つは、カントにおいては、人間の尊厳性が「神聖性」に通じるとしたことであ
る。カントにおいては、個々の人間が有するとされる人格の内なる人間性は、個々の人間にとって”神聖”でなければならない、
とする。なぜならば、人間は”道徳的法則の主体”であるから、それ自身が神聖なるものの主体であるからである。

 「人間の尊厳性」について、カントがいかに「人間の神聖性」に関連づけたのかについては、『実践理性批判』における一節に
おいて顕著に示されている。即ち、カントは、「本来、人間はあまり神聖ではないが、人間が有する人格の内なる人間性は人間
にとって極めて神聖であるべきである」と説く。

 人間は、自己の自由な自律のために、神聖な道徳的法則の主体であるといえる。この主体は、決して単なる手段として用いら
れるべきではなく、「目的」自体として用いられなければならない。したがって、人間は、人格的存在として、道徳法則の主体で
ある限りにおいて”目的としての存在”であることができ、人間は皆、そのために「尊厳性」と「神聖性」を備えているのである。

 カントは”自身における理論の厳格性”にみられるように、一生涯において非常に厳粛なスタンスをもって豊かな思索活動を展
開することに専心した偉大な哲学者であった。カントがケーニヒスベルク大学で学生に講義をする際においては、「単に暗記する
ための思想を学ぶのではなく、”思考すること”を学びなさい」「哲学を学ぶのではなく、”哲学すること”を学びなさい」と学生に力
説したと伝えられている。

生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」
(はまの出版)、p99-103要約・・・・・・・





写真:ウィキペディア(Wikipedia)
イマニュエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)

近代の倫理思想において意志の自律の倫理学を確立させ、「人間性の尊重」
「人格の尊厳」を強く訴えたドイツ観念論哲学の創始者。

東プロイセンのケーニヒスベルク(現在はロシア領カリーニングラード)生まれ。1732
年、同地のフリードリッヒ学院に入学し古典語を学び、1740年にケーニヒスベルク大
学に入学。哲学、数学、自然科学、神学を学び、1775年に同大学私講師となる。そ
の後、1770年からは正教授として教鞭を執り、論理学、形而上学を教授した。178
6年と89年には同大学総長に就任。カントは、啓蒙思潮の時代を生き抜いた哲学者
であり、イギリスの経験論と大陸の合理論の長所を融合させ、新たな認識批判と認
識理論の根拠を築いた批判哲学、そして超越論的哲学の創始者となった。カントの
批判哲学は、ドイツ観念論哲学の基礎を構築すると共に、広く、欧州の哲学史に対し
て強い影響を与えた。主著は、『純粋理性批判』『人倫の形而上学の基礎づけ』『実
践理性批判』『道徳形而上学原論』『判断力批判』など。









ニーチェは今も、「自分の力で考えよ!」と叫んでいる

今、まさに日が昇ろうとしているこの朝の時間帯において、私は、濃いコーヒーを味わいながらリヒャルト・シュトラウスの交響
詩、『ツアラトウストラはかく語りき』を聴いている。この曲は、シュトラウスがニーチェの大著、『ツアラトウストラはかく語りき』に
深い感銘を受けて作曲した作品である。

長年にわたり、基本的には、"活字"のみでニーチェの哲学に触れている私にとっては、この曲を聴くと、程よく「ニーチェの
"活字"とシュトラウスの"音"の融合」の恩恵を受け、より望ましい状態で深遠なるニーチェの哲学に触れることが可能となる。

ニヒリズムを提唱した19世紀後半のドイツの哲学者、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)は、「人間は、まず
第一に自らの本質を問い直し、厳しく辛い現実を直視し、その上で自分自身の力で逞しく生きなければならない」と主張した人
物である。

本来において、人間が所有している”より強大になろうと闘う意志”、”競争に打ち勝つ力を目指す意志”、つまり「権力への意
志」は、今、人間が生きる社会においては全く生命力のない状態と化してしまっている。大衆社会においては、人間一人ひとり
が持つ「権力への意志」はまさに画一化されてしまい、それぞれの人間は、自分の人生における目標さえも見失ってしまってい
る。ニーチェは、このような時代の潮流における現象を「ニヒリズム」と呼び、このような時代に突入した原因を解明し、それを指
摘することに努めた哲学者である。

ニーチェは、このような問題を引き起こす最大の原因は、キリスト教道徳にあると主張した。即ち、彼は、「キリスト教の教義それ
自体が、力強く生きようとする人々の足を引っ張り、人々を画一化させてしまっている」と考えたのだ。

このような状況を嘆き悲しんだニーチェは、「神は死んだ!」と唱え、キリスト教が支配する奴隷道徳から人々が解放されること
を強く望んだ。そして、彼は、「人間は、キリスト教道徳に代わる新しい価値観を自分の力で作り出さなければならない」と唱え
たのだ。

「神は死んだ!」、だから、我々人間は、”神ではない何らかの生きる支え”を見い出さなければならない。そこでニーチェは、
人間は、「権力への意志」を持ち、獅子の精神と小児の想像力をもって逞しく生きる「超人」にならなければならないと唱えた。

ニーチェはさらに、理想とする「超人」とは、神のように彼岸にあるのではなく、現実を現実のものとして肯定し、自らの生命を充
実させることに全力を尽くし、力溢れる自己を生き抜く自由人、即ち、「力の意志の体現者」を指すと述べた。そして、「すべての
神は死んだ。今や我々は、超人が生きることを欲す」とエネルギッシュに唱えたのだ。

ニーチェは、自らの命を削って”思索しない西洋文明社会”に対して警告の鐘を鳴らした哲学者である。19世紀後半において、
ニーチェは、既存の宗教観・価値観・思想に支配されていた人間社会に対して自ら”偉大な警告”を発し、当時の西洋文明社会
に、「今こそ目を覚ませ。今こそ、自分の力で思索し、自分の足で歩け!」と個々の人間に強く訴えたのだ。


「神は死んだ」と、人類に警告を発した19世紀後半のドイツの哲学者、
フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)

ニーチェは、ドイツ・ザクセン州において、牧師の子として誕生した。ボンと
ライプチヒの大学で神学・哲学を修め、1869年、24歳の若さでスイスの
バーゼル大学教授(古典文献学)に就任。その後、健康を害し35歳で大
学を辞職。持病と闘いながら厳しい孤独生活の中で深遠なる思索を重
ね、執筆を続けた。

主著は、『ツアラトウストラはかく語りき』『悲劇の誕生』『人間的な、あまり
にも人間的な』『権力への意志』『善悪の彼岸』など。


  諸君は、形而上学に逃避してはならない。”生成する文化”に対して活動的に
  献身するべきである。それ故、私は、夢想的観念論に対しては厳しいのである。

フリードリヒ・ニーチェ著、「哲学者の書」・・・・・





ドイツの作曲家、古典派三巨匠の一人と称されるベートー
ヴェン(Ludwig van Beethoven,1770-1827)は、ロマン派音
楽の先駆者として知られている。

代表作は、言うまでもなく、交響曲第5番ハ短調作品67
「運命」。この曲は、厳しく、そして醜い現実と真正面から向
かい合い、凡人には想像し得ない「深遠なる思索」を通過し
て完成させた大傑作である。

「運命」においては、最終章である第4楽章に入ると、「長き
にわたる辛苦を経験して到達した”歓喜”」が壮大なスケー
ルで表現され、ここでベートーヴェンの力強い哲学が見事に
再現される。生井利幸は、朝、この曲を思索の友として聴く
ことが多い。

晩年は、聴力を失いながらも独自の音楽によって深遠なる
境地をダイナミックに表現。人類に対して、「力強く思索する
意義とその価値」を教えてくれたベートーヴェンが果した功
績は、人類史上、極めて偉大なものであると解する。






    大阪の学問所・懐徳堂における「個人の尊重」への熱い思い





    末期状態患者の「死ぬ権利」について





    「生命の質」(quality of life)について







レンブラント作 「トウルブ博士の解剖学講義」





    古代から江戸時代までの「法の主役」・・・法は人々を統治するための道具であった





日本で「哲学」という言葉を初めてつくった哲学者、西周

深く哲学する者として理性的に考える行為は、まさに時代を超えてその威力を発揮し、人間に独自の存在として生きる勇気を与え
てくれる。だが、江戸時代においては、「哲学」という言葉は影も形もなく、この言葉が使われ始めたのは文明開化以降、即ち明治
時代初期に入ってからのことだ。

当時、西洋哲学における諸概念を日本へ移入する上で大きく貢献したのは、西周(にしあまね)(1829〜97)である。彼は、「哲
学」を始め、「観念」「概念」「主観」「客観」「演繹」「帰納」「理性」「悟性」など、西洋哲学で基本となる諸概念を日本語に訳すことに
務めた人物であり、これらの哲学の専門用語は、江戸時代においては哲学の概念を表現する言葉としては存在してはいなかった
のだ。

西周は、明治初期の啓蒙思想家・哲学者として活躍した人物である。彼は、青少年期には朱子学を学んだが、後に洋学の必要性
に目覚め、1863年(文久3年)―1865(慶応1年)年までオランダ最古の大学であるライデン大学に学んだ。

ライデン大学(Universiteit Leiden)は、創立1575年のオランダ最古の大学である。ライデン(Leiden、オランダ語の発音はレイデン)
は同国の西部に位置する都市であり、ライン川の分流に臨む運河の街である。市内には、今でもルネサンス時代の建物が数多く
残っており、同大学は、"自然法の父"であり"国際法の祖"としても名を馳せたグロティウス(Hugo Grotius, 1583-1645)などの有
名な学者を擁したことで広く知られている。

西は、オランダから日本に帰国すると、幕府の開成所の教授に就任した。幕府が崩壊した後は、一時、沼津兵学校の教授として教
壇に立ち、その後、明治政府の要請で1870年(明治3年)に兵務省に入省した。さらに、西は、1873年に明六社の創立に参加
し、その後、東京学士会院会長、東京師範学校校長、元老院議員、貴族院議員を歴任した。

西が影響を受けた哲学者は、A・コント、ジョン・スチュアート・ミル、W・ハミルトンなどである。主な著書は、『百学連環』、『百一新
作』、『知説』、『人世三宝説』などである。西は、百学連環(統一科学)を樹立することをヒロソヒーと呼び、日本語ではこれを「哲学」
と訳し、我が国で初めて「哲学」という言葉を用いた学者として知られている。





    無教会主義キリスト教の提唱者、内村鑑三の世界





    西田幾多郎の哲学・・・「純粋経験」こそが真なる実在である






写真:ウィキペディア(Wikipedia)
西田幾多郎(1870-1945)

日本における代表的哲学者。京都学派の創設者。仏教・禅宗の境地、
生の哲学、ドイツ観念論の論理を思弁的に統合した哲学者。

石川県で生まれた西田は金沢の第四高等学校に入学。後に東京大学哲学
科の選科生となるが、本科生と区別される生活を送りつつ、禅寺に参禅する
ために鎌倉に通い続ける。やがて、金沢の中学教師、第四高等学校教授と
なる。その一方で、座禅に専心するかたわら思索に没頭。1910年(明治43
年)、京都大学に迎えられ同大学の教壇に立つ一方、田辺元(1885−196
2)、高坂正顕(1900−1969)、西谷啓治(1900−1990)、三木清(18
97−1945)などの哲学者・思想家を集めて「京都学派」を創設。主な著書
は、『善の研究』、『一般者の自覚的体系』、『無の自覚的体系』、『哲学論文
集』など。






人間は「間柄的存在」である・・・和辻哲郎の理論

 近代における西洋哲学では、言うまでもなく、「個人の尊重」を背景に、「いかなる考え方を基盤として"個人"の完全なる独立
を樹立すべきか」という理論展開が学界におけるメインストリームを形成した。ところが、日本の和辻哲郎(1889-1960)は、そうし
た西洋哲学の潮流を批判し、西洋と東洋の文化比較における深い研究とその理解を通して、倫理学において独自の理論を展開
するに至った。

 和辻の理論は、いわゆる「人間の学としての倫理学」と呼ばれ、西洋哲学の方法論を用いつつ、仏教や儒学に代表される日
本と東洋の伝統文化を肯定的に説明する試みとして高く評価されたものであった。

 和辻の考え方によると、そもそも人間は、独立した個人的な存在ではない。また、社会システムに全面的に依存する機械の歯
車のような存在でもない。では、一体どのような存在であるかというと、簡単に言えば、「人間は、人と人との関係の中で生きて
いる存在」であるということだ。

 これをべつの言葉で言うならば、「個人」と「社会」とは、人間のあり方の二つの側面であり、我々人間は、いわゆる(1)「個人
性」と(2)「社会性」という"互いに対立し合う極めて弁証法的な統一"なのである。和辻は、人間の存在を「間柄的存在」として
考えるという立場から、個人的存在としての個々の人間を、社会や組織から意図的に分離させようとした西洋の近代哲学をセン
セーショナルに批判したのであった。

 和辻が、人間を間柄的存在という理論の展開をさせる以上、彼にとっての倫理とは、単に、個人だけの問題でもなければ社会
だけの問題でもない。

 即ち、倫理とは、人と人との間柄を律する"理法"であり、人間の働きや行為などの動的な関係における"道理"なのである。つ
まり、倫理学とは、「人倫の理法をシステマッティックに解明・説明する"人間の学"」ということなのだ。

 結局のところ、和辻が考える「倫理」とは、個人に関して述べれば、(1)社会の範疇にありながらも"その範疇に埋没すること"
を否定し、"自己の確かな存在"を確認する一方、(2)孤立的な個人としての自己を否定し、再度、"社会の中に自己を合一させ
て社会全体をより善いものにする"という、極めて動的な動き・行為における"道理"であると捉えることができる。彼は、まさに、
個人と社会は、このような道理を基盤とする"動的関係"において成立すると解したのである。

注)
 和辻哲郎は、姫路郊外の農村、仁豊野(にぶの)に医師の次男として誕生した。一高を経て、東京大学哲学科で学ぶ。夏目
漱石に大きく影響を受け、倫理学者として東洋大学、京都大学、東京大学で教授を歴任。著書は、『日本精神史研究』、『原始
仏教の実践哲学』、『風土―人間学的考察』、『人間の学としての倫理学』など多数。上巻、中巻、下巻の3巻から成る『倫理学』
は12年の歳月をかけて完成させた大作である。





    「今、ここに生きている」という事実がすべてである・・・サルトルの「実存主義」を手掛かりに




明治維新はまだ終わっていない

承知のように、日本は、古代において中国から律令制度を導入した。古代ロ−マ法の精神においては、「法は個人間の紛争を解
決するための道具である」という基本理念があったが、一方、中国や日本の古代法では、単に「統治者が定めた法を被統治者が
守る」という戒律的な理念が基本となっていた。

「近代」という時代区分が意味するものは、いわゆる「個人の尊重」である。日本において法によって個人の権利が擁護されるよう
になったその歩みは、西洋のそれと比べるとまだ歴史が浅い。しかし、実際、(被統治者である)庶民の生活においては、古くから
"相互の関係において個人を尊重しよう"とするスピリットが存在していたと私は考える。

江戸時代末期、即ち、1853年、マシュー・ペリー提督(Commodore Matthew Calbraith Perry)が率いるアメリカ合衆国海軍東イ
ンド艦隊が日本の江戸湾浦賀に来航した。1854年、ペリー提督が再び来航し、日米和親条約が締結。これにより、徳川幕府に
よる長きにわたる鎖国政策が終焉を迎えるに至った。

1868年の明治維新を経て1889年に制定された大日本国憲法においては、現行憲法ほどの人権保障は定められてはいなかっ
た。だが、そこには、当時の人々の心の中にも個人を尊重しようとする精神が確かにあったと私は捉える。当時の日本が”西洋文
明社会における個人の尊重の理念”を理解していたか否かにかかわりなく、当時の現実の市民レベルでの人間関係においては、
「お互いを”個人”として尊重するスタンスが意気揚々と存在していた」と私はみる。

日本では、伝統的に、「義理」)と「人情」が庶民生活の精神基盤としての役割を果たしている。そして、厳格な縦社会構造の中
で、人々は、日々の生活において「本音」と「建て前」という「精神構造における”二重の基準”」を巧みに使い分けることによって、
複雑な人間関係を上手にマネージしている。

義理と人情は、日本の地域社会の人々の生活の中に古くからある伝統的な精神構造である。それらが明確に概念化され始めた
のは、言うなれば江戸時代に入ってからである。当時の庶民が持つ独特の精神構造を描写した人物といえば、脚本家の近松門
左衛門(1653〜1724)を挙げることができよう。近松は、元禄末期にたくさんの庶民に愛された浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎の
一連の作品の中で、封建主義の時代において人々がどのようにお互いの立場を気遣い、それぞれが「異なる感情を有する個人」
としてどのように交流していくべきなのかということを、「演劇」という一般大衆にアピ−ルしやすい方法を使って、多くの人々を魅了
した文学者である。

近松は、自身の作品の中で、社会に存する義理と人情の狭間で苦しむ人間の悲劇を描写することに努めた。これは、当時の封建
社会における2つの側面、即ち、1)「縦社会構造に定着した厳格な道徳や規範」、2)「人間としての本来の愛情」とが対立する構
図として表現されたものだ。今、私自身、近松の文学の中にある本質について考えるとき、そこには、確かに、「人間の尊厳とは
一体何か」という、本来、私たち人間が考えるべき最も重要な問題があったのではないかと強く感じる。

日本研究に造詣が深いコロンビア大学のドナルド・キ−ン名誉教授は、イギリスのシェイクスピアと日本の近松の比較研究におい
て非常に興味深い見方をしている。キーン名誉教授は、シェイクスピアの作品の悲劇の主人公は皆、身分が高いが、近松の作品
での主人公は"庶民"であるということに着目する。そして彼は、両者の文学の比較において、「近松の一連の作品が主眼とした
悲劇の主人公は支配階級に属する権力者ではなく、一般の庶民そのものであった。だからある意味で、シェイクスピアよりも近松
の方がより近代的である」と述べている。

明治初期における西洋文化・思想・科学等の”輸入”については、「鎖国政策で盲目になってしまった"島国日本"が、急速に世界
の列強と肩を並べるためには通らざるを得ないプロセスだった」という見方が一般的である。明治、大正、昭和と、日本は長いあい
だ帝国主義国家として歩み続け、1945年に太平洋戦争に敗れた。翌年、日本は、G.H.Q.指導の下、日本国憲法を制定。その
憲法の精神基盤は、アメリカの独立宣言(The Declaration of Independence)や合衆国憲法(The Constitution of the United
States of America)に強い影響を受けることになる。

アメリカ合衆国憲法の精神が「自由」と「平等」を基調とするものであることは、広く知られていることである。しかし、実際のところ、
日本人には、そうしたアメリカ型の自由・平等という観念は"どうもしっくりとこない"というのが本音ではないだろうか。

むろん、「自由・平等でありたい」「差別されたくない」「自分の権利をしっかりと守り、それを行使したい」という人間としての願望
は、西洋諸国でも日本でも、”一個の人間としての願望”であるに違いない。それにもかかわらず、日本ではなぜ、個々の人間の
心の中に”程よい定着意識”を構築することができないのであろうか。

考えられる理由の一つは、「西洋と日本では宗教観が違う」ということである。基本的に、西洋の近代思想は、ユダヤ・キリスト教
思想を源流とする”天賦的な人権思想”である。そして、そこには、「自由・平等は、神から万民に対して与えられたものである」と
いう理念が存在している。

もちろん、日本人においても、「人間としての自由・平等を堅持したい」という願望はある。だが、本来、この日本において長く信じら
れてきた宗教は、神道と仏教である。遠い昔から、そうした宗教観が人々の血の中に浸透しているこの日本において、ある時点に
おいて突然、西洋型の自由・平等思想を持ち込んでも、その思想が程よく”日本人の血の中”に浸透するにはそれなりの時間を要
するのだ。

そうであるならば、私たちは、そうした西洋の近代思想について一体どのように受け止めていけばよいのであろうか。そして、それ
らを日常生活の基本理念として、現実の生活の中にどのように反映させるべきなのだろか。私は、このことを考える上で極めて重
要な問題は、「1868年、明治維新で花咲いた文明開化から現代に至るまでのプロセスをどう捉えるか」という問題の中に隠され
ていると考える。

私は、21世紀を生きる現代人がより深く思索するべき大きな理由はまさにそこにあると捉える。即ち、まず第一に、私たちは、
日本における伝統的文化遺産を継承・維持すると共に、明治維新以降に西洋から輸入した近代思想、即ち、「自由」「平等」
「正義」などの概念について十分に理解することが必要だと考える。そうすることで、日本の伝統的文化を維持しながら、「個人の
尊重」「人間の尊厳」の概念が”日本人一人ひとりの血の中”に浸透していくものと私は想像する。

今、21世紀を生きる私たちは、明治維新を”単なる過去の経験”として歴史の暗闇の中に封じ込めてはならない。明治維新は、
現代においてもまだ続いている「一連の文明開化」である。日本人は、「個人の尊重」の精神について、単なる”借り物”の考え方
としてではなく、ごく自然な形でそれを実践できる時代を迎えた時にこそ、「明治維新の終焉」を迎えることができるのだ。

生井利幸著、 「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)、p233-237参照






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