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、、、、、
、、、、、、生井利幸が心を込めて綴る、”真実のストーリー”




教養講座・「哲学(総論・各論)」開講のご報告

昨日、生井利幸事務所・社会貢献事業、2012年度教養講座 「哲学(総論・各論)」の第一回目の講義が始まりました。教養講座で学
ぶ受講生の皆さんは、事前の審査(小論文試験・面接試験)を通過した優秀な方々。講義は連続講義(大学学部程度の講義)で、アカ
デミック・イヤー(通年制)です。

わたくしは、様々な組織体から招聘を受け講演を行いますが、講演会における聴講者は通常、数百人。「数百人の前で講演を行う」と
いう活動は、”社会貢献性”を鑑みるとそれなりの意味を成しますが、そもそも、講演は、一カ所で一度だけ行うもの。昨日に始まった教
養講座は通年制の連続講義ですので、この講義では、たっぷりと時間をかけて、相当深い内容まで教授することができます。

昨日からスタートした講義・「哲学(総論・各論)」について、早速、受講したある方からご連絡をいただき、第一回目の講義の内容を整
理したノートを見せていただきました。ノートの内容がかなり整理された内容でしたので、ご本人と相談の上、このたび、この公式サイト
上でノートの一部をご紹介させていただくこととなりました。以下において、PDFファイルでノートをご紹介します。



2012年6月25日(月)







次は自分の番

「次は自分の番」、・・・・・私にとっての自分の番とは、「自分が死を迎える番」を指します。私は現在40代ですが、私の頭の中では、
20歳当時の思い出は“つい昨日のよう”です。広大な宇宙の時間に比べると、この地球における時間的空間はほんの些細なもので
す。その長さを天文学的に述べるならば、その長さは、まさに、“ほんの些細な一瞬”でしかありません。

この地球が歩んできた“些細な時間的空間”において、人類が独自の進化に入ったのは今から約800万年から500万年前(実年代は
推定。研究者によって見解が異なる)。現在における人類学・考古学等における研究では、最古の人類は「猿人」、即ち、エチオピアで
発見されたラミダス猿人(Australopithecus ramidus)。後に発見されたアウストラロピテクス=アファレンシス(Australopithecus
aphalensis)もエチオピアで発見されました。その後、更新世(約170万年〜1万年前)に入るころに「原人」、ホモ=エレクトス(Homo
erectus)がアフリカに出現(原人の脳の容積は猿人の2倍(1000ccほどの容積))。やがて、原人は「旧人」、ホモ=サピエンス=ネアン
デルターレンシス(Homo sapiens neanderthalensis、通称、ネアンデルタール人と呼ばれる)へと進化。ネアンデルタール人は、12万年
前から3万5000年前にヨーロッパから中央アジアに至るまで広域にわたって存在しました(脳の容積は1300〜1600ccほどで、現
代の人類と同等レヴェル)。

そしてようやく、約6万から5万年前に人類最初の「新人」(新生人類)、いわゆるホモ=サピエンス=サピエンス(Homo sapiens sapiens)
が出現します。この時点で、新人の骨格や顔の形は、現代の人間とほぼ同等のものとなりました。新人における石器の技術は著しく進
化し、人類は、後期旧石器時代に突入。やがて集落(人間社会の起源)が生まれ、少しずつ、世界の至る所に文明が開化していった
のです。

今、2012年の現代社会に生きる私たちにとって、このような立ち位置から人類の歴史を静観すると、「数十年の命を賦与された“一個
の人間が息をする時間”」は、まさに、“ほんの一瞬”のことであることがわかります。このようなことを毎日考えている私にとって、「人間
の生」を哲学することは、言うなれば、毎日の日課であり、「ものを書く」という観点から述べるならば、このような問題意識の中で生きる
ことは毎日の仕事でもあります。

「次は自分の番」、・・・・・実際、毎年のように、近い親戚、知人、友人等に死が訪れています。無論、私たち人間にとって「健康である
こと」は最も感謝するべき有様。健康であることは決して当たり前ではない、このことは、健康であった自分自身が病気になるとしみじ
みと感じることです。「次は自分の番」、・・・・・だからこそ、今、私にとって一番怖いものは、「何もしない時間を過ごすこと」です。今ここ
で率直に述べるならば、私自身、「何もしないで時間ばかりがどんどんと経過していく」という有様ほど”恐怖”を感じるものは他にはあり
ません。

どのような人間でも、一生に何回かは何らかの病気になります。そして、言うまでもなく、年齢を重ねると、やがて死を迎えます。究極論
を述べるならば、「死を迎える」という有様は、間違いなく、世界中のどのような人間においても同じ有様です。無論、人によって「生の期
間」はそれぞれ違いますが、人は、その期間に限らず、「自分における“限定された生”において、本当にやりたいことをやっているの
か」と自分自身に問うその時、“切実なる実感”として、「自分に与えられた生を全うすることの”意味”・”重要性”」を感じ取るのだと思い
ます。

読者の皆さん、現在、皆さんが何歳であったとしても、是非、日々の生活において、「次は自分の番」と自分に唱えてみてください。「次
は自分の番」、・・・・・そう考えると、今現在、「何もしない」「時間を無駄にする」という有様に対して大きな恐怖心を抱くに違いありませ
ん。「時間を無駄にする」、言うなれば、それは、「限りある自分の人生の時間を無駄にする」ということです。

2012年4月22日(日)







ひしひしと「活字の威力」について考える今

先日の3月31日(土)、新国立劇場中劇場にて、ウィリアム・シェークスピア原作、「ロミオとジュリエット」全2幕を、東京シティー・バレエ
団のバレエ、そして、東京シティー・フィルハーモニック管弦楽団の演奏で鑑賞してきました。今回は、洗練されたオーケストラの演奏と
バレエの華麗な演技の調和を満喫し、心にたくさんのエネルギーを注入することができました。

私は、自身の作品の創作との関わりから、毎日、できるだけ多くの芸術作品に触れるようにしていますが、クラッシック音楽のコンサー
トや美術館での絵画の鑑賞も、可能な限り時間を捻出し、”実際の本物”を鑑賞するようにしています。

深い意味で述べるならば、芸術とは、「人間存在に存する”本質”」の探求です。無論、芸術作品の多くは人間をテーマとしていますが、
一方、人間自体をテーマとしていない作品であっても、究極的には、人間存在に関わる本質を追及し、それを独自(唯一無二)の表現
方法で表現しているわけです。私自身は、「活字」で表現する立場の者。「活字」は、一見すると簡素な表現方法であるように感じられ
ますが、実際のところ、活字には、”もの凄いパワー”が潜んでいます。

2012年も春を迎え、今、桜の季節となりました。私は今現在、銀座書斎にて実に清々しい気分で春の朝を楽しんでいます。そうした
中、日本の活字文化に”新しい命”を吹き込むべく、今ここで改めて、この、「活字の威力」について厳粛に受け止め、神と学問の面前に
おいて謙虚な姿勢で一秒一秒を刻んでいきたいと心に誓っています。

2012年4月2日(月)







"Necessity knows no law."

記述は、PDFファイルとなっております。以下をクリックしてお読みください。

   ■PDFファイル(記述)

   ■講義(音声)

2012年2月11日(土)







「狭き門」から入る意味

新約聖書のマタイによる福音書7の13,14において、「”狭き門”から入る意味」について述べられています。西洋文明社会では、「広
い門ではなく、あえて”狭い門”を選ぶ」という考え方は、人々において広く知られた考え方です。

読者の皆さん、是非、静寂の雰囲気の中で、心を落ち着かせて以下の言葉を精読してみてください。静かに、そして、厳粛な心のス
テージを基盤として言葉を精読しながら「自分の生き方」を問うことにより、自分の「生」を全うする上で極めて重要な気づきと出会うこと
ができるでしょう。

  「狭い門」 (The Narrow Gate)
   -13-
   狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
   Go in through the narrow gate, because the gate to hell is wide and the road that leads to it is easy, and there are many
   who travel it.
   -14-
   しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
   But the gate to life is narrow and the way that leads to it is hard, and there are few people who find it.

(新約聖書、マタイによる福音書7の13,14を引用)

     ■このテーマに関してわたくしが銀座書斎で講じた講義の一部
       狭き門から入る意味(音声)

2012年1月20日(金)







恥をかかなければ前に進めない

2011年12月31日(土)は、ベートーヴェンの全交響曲演奏会 2011、小林研一郎先生指揮、岩城宏一メモリアル・オーケストラ演奏
を鑑賞。東京文化会館にて、午後1時から年明け直前までの長時間にわたって交響曲第1番から交響曲第9番までのすべてを鑑賞し
てきました。

私はこれまで、長年にわたってベートーヴェンの精神・哲学に触れてきましたが、この日は、交響曲第1番の演奏が始まると間もなく、
ベートーヴェンの哲学が2007年以来続いている背中の痛みにじわりじわりと入り込み、演奏会スタート時点から、私の背中が硬くな
り、まさに”鉄板状態”となってしまいました。かつて、2007年において突如私を襲った背中の痛みに関しては、この銀座書斎日記に
おける一番最初のエッセー、即ち、2009年5月29日に執筆した「”試練”と闘ってきたこの2年間」において詳しく述べましたが、実の
ところ、この背中の痛みは現在も続いています。

背中の痛み、・・・・・この痛さは、普通の痛さではありませんが、率直に述べるならば、私は、この痛みは、私に「生きる道」を教えてく
れる”先生”であると捉えています。実際、”痛い”という有様は大変辛いものです。しかし、”痛み”は、人間に、大切な気づきを与えてく
れるということも事実です。では、一個人としての私はこの痛みから何を学ぶか、それはすべて、私自身における「生」に対する意識・捉
え方如何で大きく変わっていくに違いありません。

2012年1月2日(月)、新年を迎えた今、私は、”一からやり直す”というよりは、まさに、「ゼロから再出発」という決意をしております。
私は、今、自分におけるすべての「属性」(attribution)を洗い直し、自分自身の血・肉・骨に新しいエネルギーを注入するべく、迎える一
日一日における一秒一秒を魂で刻んでいきます。

深い意味で言うならば、人間は、自分独自の”色”を出して前に進めば、多かれ少なかれ恥をかきます。私は、これまでの人生におい
て、日本でも海外でも相当数の恥をかいてきましたが、2012年も勇気を振り絞って、さらにたくさんの恥をかいていく覚悟を決めていま
す。「恥をかかなければ前に進めない」、・・・・・だからこそ、私は、”率先して”恥をかいていきます。



2012年1月2日(月)







生き抜く宿命

2011年も、いよいよ終焉を迎えようとしています。今年も、この銀座書斎にて、様々なドラマが展開されました。

銀座書斎は、本来、作家である私自身が思索と執筆を行う場所として開設しましたが、それと同時に、この空間は、社会貢献活動の一
環として、学問・文化・芸術を総合的に捉え、一般の人々における「人間の尊厳」の追求と実現を目的として様々な啓蒙活動を行う場所
でもあります。私は、常に、この銀座書斎において、”公平無私な学問の精神”の下、「”本質”を丁寧に伝えていく」ということを主眼とし
て活動を行っています。

人々に対して啓蒙活動を行う上で、私自身、常に考えさせられることは、どのような人にとっても、本来、「生きる」ということは決して簡
単ではないということです。「生きることは簡単ではない」、・・・・・率直に述べるならば、このことは、私自身においても全く同様に言える
ことです。事実、私自身、迎える一日一日において、「簡単に生きれた」という日は一日たりともありません。生きることは難しい。だから
こそ、「生きる意味」がそこにあるわけです。

本日は、2011年の幕を閉じる今、読者の皆さんに対して次の哲学詩を捧げたいと思います。



生き抜く宿命
                   生井利幸

人は、困難に直面すると、
生きることの意味について考えるようになる

人は一体どうして悩み、
苦しみながら生きなければならないのか、と

そう考えるときは、生きることに疲れ果てて、生きることに疑問を感じたとき
生まれた、という結果を出発点とするすべての人間は、
この世に生を受けた後に、自分の意志で生きる宿命を背負うことになる

どんな人でも、長く生きていると、時には困難に直面する
自分の力で、目の前の現実や困難と闘おうとするそのとき、
人は、この世に生まれたことの意味について考えるようになる

今、私は改めて思う
人は、単に生きるだけでなく、
”生き抜く宿命”を背負っている、と

この、”生き抜く宿命”について心の中に深く刻んだ人が発揮する力、
この力こそが、轟音をとどろかせて迫ってくる強風にも決して屈しない”底力”となっていくのだ



2011年12月30日(金)







外で食事をすると、切実なる想いで、「生の尊さ」を実感できる

もうすっかり、オーバーコートが必要な季節となりました。私は、ニューヨークでは一人歩きが好きなのですが、この感覚は東京でも同じ
です。日々の生活において、空き時間があるとき、自分一人で周辺地域を闊歩することに躊躇することはありません。

寒さの厳しい季節に一人で外を歩くことは、「深い思索の源泉」としての役割を演じてくれます。冷たい空気は、程よく頭を冷やしてくれ
ますが、これは直接、「理性的思索」を試みるための絶好の機会となります。

私はこの季節でも、自宅バルコニーにおいて食事をします。無論、周辺のマンションにおいて、寒い中、そのような光景を見ることはまず
ありません。大抵の人は、この文章を読み、「寒いのになぜ外で食事をするのだろう?」と感じることでしょう。

私自身、実際のところ、外で食事をするとき、「寒くて食べられない」という気持ちになることはまずありません。大抵の場合、雨、あるい
は、雪でも降らない限り、外の新鮮な空気を吸収しながら時を刻むと、実に快適な時間を過ごすことができ、”食べる”という行為、そし
て、”飲む”という行為において「切実なる幸福感」を感じます。

外気に触れて食事をすると、「自分は、この地球上で、”一個の存在者”としてものを食べている」という”真実”を実感することができま
す。人間は、そうした”真実”の面前において「”一個の存在者”として呼吸をする尊さ」を自分の肌で感じたとき、「広大な宇宙に存する
一個の”個”」として、まさに、「”個”としての生の尊さ」を切実に感じるのだと思います。

2011年11月22日(火)







自然との対話

日曜日の本日も、朝の4時40分に起床。まず始めにゆっくりと朝食を食べ、5時には自宅の屋上に上がり、広大な空を満喫しました。
2011年も、もう既に9月18日(日)。この時期でも、朝の5時過ぎには青空(朝日の光が作り出す”純粋無垢な青空”)を見ることがで
きます。

朝一番で、純粋無垢な青空、そして、雲の動き・流れを見ていると、「自分は一体何者であるか」という人間存在における根本問題につ
いて、”思い違い”・”勘違い”することを回避することができます。

「自分は何者であるか」について思い違い・勘違いをしないためには、迎える一日一日において「人間存在」について深い思索をするこ
とが求められます。その際、以下に掲げる3つの根本問題について思索することが重要となります。

   1) 「自分は、一体どこからやって来たのであろうか。」
   2) 「自分は、今現在、宇宙空間におけるどこに存在しているのか。」
   3) 「自分は、”一個の生”を全うした後、一体どこに行くのであろうか。」

「人間存在」について思索するとき、何よりも基本となる根本問題は、常に、前述した3つの問題です。これらの問題は、日本に住んで
いようとも、海外に住んでいようとも、常に、同じように重要な問題であるということは言うまでもありません。

これらの問題は、時代を超越し、世界のありとあらゆる文明・文化を超越して共通する最も根本的な問題。読者の皆さんにご提案したい
ことは、「文明社会に存する雑多なネオン・雑音に心を奪われることなく、この地球に存する一個の存在者として、自分を”丸裸”にして、
自分自身を哲学していただきたい」ということです。

これら3つの問題について深い思索を試みると、その次のステージとして、その思索の経験を基盤として、「自分は、この地球に存する
一個の存在者としてどのように生きるべきなのか」という自らの人生を生きる上で最も重要な問題について、極めて厳格に、そして、
最も地に足の着いた方法で哲学することが可能となります。

まずは、心の中を丸裸の状態にして「自然」(緑)と向き合ってみてください。静寂の中で「自然」と向き合うと、必ず、何かが見えてきま
す。




       自宅では、森の中で、「自然との対話」を楽しんでいます。自然との対話は、世界のどのような古典を読むよりも、
       人間の「生」と「死」を哲学する上で”極めて価値ある時間”となります。

2011年9月20日(火)







ベートーヴェンの交響曲が鳴り響く銀座書斎

生井利幸事務所では、現在、社会貢献活動の一環として、一般の皆様方を対象として、ベートーヴェン交響曲の鑑賞をプレゼントしてお
ります。鑑賞会は、当・生井利幸事務所・銀座書斎で行われ、ベートーヴェンの1〜9の交響曲のうち、お好きな交響曲1曲を鑑賞する
ことができます。

鑑賞をご希望の方は、事前にメールで申込みが必要です。すべての鑑賞会は、完全アポイントメント制となってります。なお、鑑賞会は
すべて無料で参加でき、鑑賞は、土曜の午後、または、日曜の午前に実施されます。

また、このたび、当・生井利幸公式サイトにて、ベートーヴェンをテーマとする新コンテンツをスタートします。新記述は、エッセー形式と
し、読者の皆さんにおいては、文章を読み進めながら、少しずつベートーヴェンの生き方と音楽について理解を深め、”人類”という大き
な枠組みの中で、世界史における歴史的潮流を見据えながら、(1)「ベートーヴェンの哲学」と(2)「西洋における芸術・文化・学問等」
の相互関係について知ることができます。

当ウェブサイトにおいては、ベートーヴェンに関するすべてのコンテンツは、以下のページにおいてご覧いただけます。


また、現在、生井利幸は、「ベートーヴェンの”音楽哲学”」を述べた単行本を出版する予定で、その準備を進めています。その他、別の
テーマによる単行本出版の構想も含めて、少しずつ、読者の皆さんにお伝えしていきたいと思います。

2011年8月30日(火)







大切なポイントを逃さないコツ

今の世の中は、常に度を越えて情報が溢れ、膨大な情報に人間が左右され、時として、私たち人間は、情報の面前で”盲目”の状態と
なっています。

「情報の面前で盲目になる」とは、本来、”道具”としての情報に人間が支配され、「人間そのものが思索を止める」ということです。本稿
をお読みになる読者の皆さんの中には、「自分においては、決してそのようなことはない」と考える人もいるでしょう。無論、このことにつ
いていかに捉えるかは個人によって相当違ってきます。

率直に述べるならば、常に、執筆において「人間における思索の重要性」を唱えている私自身も、しばしば、「私自身、何も考えていな
いときがある」という”事実”に気づくことがあります。日々において何か考えているとき、そうした「何も考えていなかった自分」を振り
返ってみるとき、”無思索”が作り出す「無の時間的空間」(ゼロの時間帯)について”ある種の恐怖感”を感じることがあります。この、
”ある種の恐怖感”とは一体どこから来るのでしょうか。それは、言うまでもなく、私自身における”一個人”としての「時間に対する価値
観」がそのような恐怖感を生じさせるのだと思います。

「時間は、無限に存在し続ける代物ではない」、・・・・・人間は皆、このことを”理屈”として理解することはできますが、確かな実感として
心の奥底でひしひしと感じるには、「限られた時間と体力の中で、全エネルギーを投入して自己の限界(極限)に挑戦する」という
”超・経験”を積み重ねることが必要となります。

本稿のタイトルで表現した「大切なポイントを逃さないコツ」とは、前述した「限られた時間・体力の中で自己の限界に挑戦する」という
”超・経験”を積み重ねながら得ることができるものです。なぜならば、本来における”大切なポイント”とは、「決して”大切なもの”だけで
なく、”大切でないもの”に惑わされ、その結果、その本人が”限りある時間的空間”を生きる存在者であるにもかかわらず、非理性的
に、実に膨大な時間を無駄にしてしまった」という”ネガティブな実体験”を少しずつ重ねながら認識していく代物であるからです。

人間は、失敗を積み重ねながら、少しずつ何かを悟っていく動物です。今ここで、このラインで結論を急ぐならば、大切なポイントを逃さな
いコツを得るための近道とは、一にも二にも、「失敗を重ねていく」ということです。言葉を換えれば、まさに、「苦い経験を重ねていく」と
いうことです。

苦い経験は、人間に「道」を与えてくれます。大切なことは、「今現在、自分が置かれている立場の面前で胡坐をかくことなく、常に、
厳粛な姿勢を忘れることなく、頗る謙虚に生きる」ということです。今現在、存在する環境や条件、あるいは、事物の面前で胡坐をかい
てしまったら、いつの日か必ず、そのほとんどすべてが、自分には決して手の届かない遠くの場所に行ってしまいます。

「”本当に大切なもの”の価値は、それを持っているときにはわからない。その真価についてわかるときは、それを失ってからある程度の
年月が過ぎたときである」、・・・・・このことは、常に真実です。

2011年8月3日(水)







人間存在にとっての”日の出の意味”

本日は日曜日。今朝は4時に起床。まずは、バルコニーで日の出を静観。その後、この銀座書斎へと向かいました。

銀座という街は、実に面白い街。ここでは、「人間の人生における様々な様相」を見ることができます。例えば、朝の4時半でも、様々な
人々を見かけます。ジョギングをしている人、犬と共に散歩している人、飲み屋街での仕事が終わり家に帰る人、ホームレスの人、そし
て、しばしば、酔いつぶれてビルの一角で寝ている人も見かけます。

日の出は、言うまでもなく、一日の始まり。私は、日々の生活において、日の出を見るたびに、「私たち人間にとっての”太陽の光の
意味”」を考えます。

「人間は、一体何のために生きるのか(働くのか)」、・・・・・この問題は、私たち人間にとって極めて根本的な問題ではありますが、
実際、私たちは、日々の生活においてこの根本問題について他人と話し合う機会はほとんどありません。

一般論で言うならば、会社で働く人々にとって、1)「毎月の給料を貰って生活を営むため」、2)「定年まで働いて、老後は年金を貰うた
め」と考えるのは、当たり前と言えば当たり前の考え方でしょう。しかし、人間が”人間”(理性的存在者)として生きる以上、それだけの
見識・捉え方のみで「生」を謳歌することそれ自体を、<極めて理性的な”生”>と捉えることには難しさがあります。

読者の皆さんに、今、ご提案します。是非、一度、早起きをして、自分の目で日の出を見、今再び、「人間にとって、”生きる”という行為
は一体何のためにあるのか」という”人間存在における根本問題”について深い思索を試みてください。人間は、「人間の”生”」を哲学
することによって「”生”の目的」を知り、そうした認識・理解を基盤として、「太陽の光の意味」としっかりと向き合えるようになります。

かつて、ドイツの観念論哲学者、イマニュエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は、長年教壇に立ったケーニヒスベルク大学におい
て、学生たちに対して以下のように述べました。

  「単に暗記するための思想を学ぶのではなく、”思考すること”を学びなさい」
  「哲学を学ぶのではなく、”哲学すること”を学びなさい」
             (生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)、103頁参照)

西洋・東洋に限らず、21世紀社会を生きる現代人の多くは、「上辺だけの情報」、「”本質不在”の情報」に依存した生活を送り続け、
まさに、”思索不在”の日々を過ごし、その結果、そうした人々においては、カントが述べたこのような言葉に存する意味・価値に対して
無頓着な状態となってしまっています。

読者の皆さん、まず第一に、早起きをして、新鮮な空気を吸い、この地球に存する一個の理性的存在者として、意気揚々と「太陽の光」
と向き合ってみてください。「朝、誰よりも早く太陽の光を見る」というその実体験は、必ず、あなた自身に、「”生”の尊厳」を哲学する上
での絶好の機会を与えてくれます。




自宅バルコニーで浴びる朝の光は、「理性」と「感性」にたくさんのエネルギーを与えてくれます。

2011年7月17日(日)







幸せは、”毎日の日常生活の24時間の中”に存在する

先日、自宅のバルコニーで朝顔が咲きました。その朝顔は、今年、初めて咲いた朝顔。私自身、毎日、丁寧に水をやり、愛情を込めて
その成長を見守ってきたということもあり、今年初めて咲いた朝顔を見たその瞬間、全身で「大きな喜び」を感じ、しばらくの間、その場を
離れることができませんでした。

私たち現代人は、「喜び」「幸せ」「感動」を求め、しばしば旅に出ます。無論、毎日、多忙な日々を送り、朝から晩まで働いている人に
とって、数ヶ月に一度、休暇を取って旅行に出掛けるということは、「心と体をリフレッシュさせる」という意味で必要な活動であるに違い
ないでしょう。

ただ、一つ、忘れてはならないことがあります。それは、本来、「喜び」「幸せ」「感動」というものは、遠く離れた土地(観光地)のみにあ
るのではなく、毎日における現実の日常生活、つまり、「一日一日における24時間の中」で経験することができるということです。

「幸せ」は、常に、自分の目の前にあります。それに気づくか否かは、常に、「自分の心の持ち方次第」。毎日の日常生活を送るそのプ
ロセスにおいて、一つひとつの”小さなこと”を大切にし、清らかな心でたくさんのことを感じながら生きていきたいものです。



2011年7月15日(金)







無駄には二つある

「宇宙の時間」から鑑みるとき、私たち人間の人生の長さは、”頗る短いもの”であることがわかります。「人生は短い。だからこそ、
毎日、一分一秒を大切にし、価値ある時間を過ごしたい」と考えるのは”人間の常”です。

どのような人間においても、いずれは「死」が到来します。今現在、毎日元気に過ごしていても、一時間後に、何らかの事故、あるいは、
自分の体(健康状態)に異変が起きるかもしれません。まさに、人間の「生」は、”一寸先は闇”と言えるものです。

人間の「生」が”一寸先は闇”であるならば、迎える日々において、一日24時間、一分一秒たりとも時間を無駄にしたくないと考えるの
は”自明の理”です。

思うに、無駄には、二つあります。一つは、「一見、無駄と思えても、長い目で見れば”必要な無駄”」。もう一つは、「長い目で見ても、
無駄としか捉えることのできない”不必要な無駄”」。前者は、所謂、「人は経験で学ぶ。人は、良い経験だけでなく、悪い経験からも何
らかの気づきを得る」という考え方。そして、後者は、「人は経験でものを学ぶが、この世の中には”不必要な経験”というものも確かに
存在する」という考え方。

私自身、執筆においても、講演においても、常に、「人間の成長には、多種多様な経験が必要である」というラインで言葉を発していま
す。しかし、一口に経験といっても、世の中には、「必要のない経験」、「どのように解釈しても、無駄としか思えない無駄な経験」という
ものがあります。

人間の一生は、頗る短い代物。必要な無駄は”意味のある無駄”ですが、「無駄な無駄は、”無意味な無駄”でしかない」と私は捉えま
す。

2011年6月17日(金)







自己を実現する存在者は、「"辛苦"を楽しむ理性的存在者」である
 ・・・「人間の辛苦」についての二つの捉え方を通して

「人生を生きる」ということ、・・・・・それは、この地球上におけるどのような人間においても決して簡単な行為ではないと明言できるでしょ
う。

言うまでもなく、私たち人間は、自らの人生を生きるそのプロセスにおいて、実に様々な経験を通過します。無論、"根本的願望"とし
て、人間には、皆、「楽しい日々を過ごしたい」という願いがあります。また、その一方で、個々の人間における個々の人生において、
それぞれ「苦しい経験」をすることもあります。本稿においては、「"人間存在"の意味について考えていく」という思索活動の一環とし
て、前述した2つの有様のうち、後者の「苦しい経験」、即ち、「辛苦」について述べていきたいと思います。

「辛苦」という言葉、これを文字通り解釈するならば、「辛く苦しい」という意味。どのような人間にとっても、この「辛く苦しい」という経験
は、可能であるならば、自分の人生においては"避けて通りたいもの"であるに違いないでしょう。しかし、現実問題として、私たち人間
は、迎える日々における現実の日常生活において、しばしば、何らかの困難な状況に遭遇し、「辛く苦しい」経験をすることになります。

「辛苦」という経験、・・・・・この経験を、「人生におけるどのような局面において遭遇するのか」ということはまさに個人個人によって異な
りますが、この、"辛苦に直面する理由"について捉えようとするとき、通常、以下の二つの捉え方を見い出すことができます。

第一に、辛苦とは、「人間が何かを成し遂げようとするとき、そのプロセスにおいて必要不可欠の経験である」という捉え方。そして、
第二に、辛苦とは、「自分における悪行・非行に対する”罰”(punishment)である」という捉え方。

第一の捉え方は、世界中の成功者、言葉を換えれば、「"自己実現"(self-realization)を果たした存在者」において最も該当する捉え方
です。本稿冒頭で述べたように、本来、「人生を生きる」ということは、決して簡単ではない行為。迎える一日一日において、そう易々と
事や願望が進まないその時間的空間において、1)「今現在、自分には存在しない能力を将来において存在させる」、2)「今現在、
所有していない何らかの(有形・無形の)事物を所有する」という具体的計画・目標を実現するには、当然ながら、毎日、その本人が、
"心の中で自分自身が刻む一秒一秒における時間的空間"において、それなりの汗と涙を流してその実現のために努力していくことが
必要となります。

第二の捉え方は、罪意識(a feeling of guilt)の深い"理性的存在者"、あるいは、"感性的存在者"にみられる捉え方。ここで本質論を述
べるならば、「不完全な存在者」(imperfect existence)である私たちすべての人間にとって、”人生を生きる”というその過程において、
自分が行うすべての行為について「それらすべてについて完璧に行う」ということは不可能であると明言できます。しかし、常に、
「完璧」(perfection)を求めて自分を極限まで追い込み、究極まで磨き抜き、"生命の長さ"において限りあるその人生において「自分に
とって最も理想とする存在者」であろうとする"理性的存在者"、あるいは、"感性的存在者"は、「自分が犯した”小さな過ち”・”間違
い”」について、その都度、厳しく回顧・反省し、より崇高な生き方を追及・実現しようとします。

私たち人間が、「辛苦」について、第一の捉え方、あるいは、第二の捉え方を選択するかの判断は、まさに、「理性的判断としての
"自由裁量"(discretion)」として行われるべき問題。「人間は、本来、苦を経験しながら自分を磨いていく理性的存在者である」という
解釈をするならば、辛苦とは、決して苦しくて辛いものではなく、「自分を高める上で”必要不可欠な道筋(道程)”である」ということがで
きます。

人間には、皆、「自分を高めたい」という願望があります。「自分を高めるそのプロセスにおいて、”辛苦”は必須の経験である」ということ
が明確になった今、その”辛苦”をしっかりと味わい、楽しんでしまったらいかがでしょうか。

「”辛苦”を楽しむ」、・・・・・実際のところ、一般的には少々難しい考え方ですが、「たった一度の人生においてしっかりと自己実現を図り
たい」という願望を持っている人にとっては、まさに、”妥当性のある考え方”であるといえます。

    [追記]
     本稿で述べる「辛苦」とは、「自分を高めたい」と切望する人にとって必要不可欠と思われる”人生における様々な困難”を指す
     ものです。本稿は、「人生を生きる」という行為について極めて前向き・建設的に捉える観点から、「困難から逃げ、安易な道を
     選ぶと自分を成長させることができない」という趣旨で書かれた内容です(本稿で述べる”辛苦”とは、重い病気を患い、日々、
     耐え難い苦痛に苦しんでいる方々の病状を指すものではありません)。

2011年4月3日(日)







人間は、少々専門を深めると、頗る盲目になる
 ・・・医師という職業を具体例として

言うまでもなく、「専門を深める」ということは、実に価値ある行為であるに違いありません。例えば、1)「高校を卒業し、法学部に入学。
その後、ロー・スクールを経て、弁護士資格を取る」、2)「高校を卒業し、医学部に入学。医師免許を取得し、医師として病院に勤務す
る」など、通常、10代において何らの専門性をも持っていなくても、自分が望む教育を受け、そこでしっかりと勉強をすれば、その専門
の道に進むことが可能となります。

弁護士や医師に限らず、人間社会には、実に様々な職業専門家が存在しています。「専門を深める」という行為は、実に素晴らしい
行為ではありますが、大抵の場合、深く専門を極めようとすればするほどに、その専門分野以外の分野・事項について、少しずつ盲目
になっていきます。

専門を深めると盲目になる事例としてその様相を顕著にうかがうことができる職業の一つは、「医師」という職業。そもそも、医師は、単
に、大学医学部を卒業し医師免許を取得しただけの"medical practitioner"(医療実務家)。医師は、間違いなく、”医療(medicine)を
実践(practice)する存在者なのですが、日本社会では、医師は、他の職業人と比較すると、必要以上に尊重される職業の一つ。社会
経験の無いごく普通の若者が医学部を卒業して医師となるだけで、周囲の人々から「先生」と呼ばれ、「病院」という、”一種独特の
治外法権圏域”において毎日を過ごすことになります。「病院という”一種独特の治外法権圏域”は、本当に”一般社会の一部”なので
あろうか」、この問題は、医師でない一般の人々における問題というよりは、実は、医師たち自らが深く考えなければならない極めて
重要な問題といえるものです。

悲しい現実ですが、病院においては、「一般社会に存する常識(道徳意識)を顧みない医師が、一般社会の常識を熟知した患者に対し
て”極めて非常識に接する”」という行為が、毎日、繰り返し行われています。

医師の中には、「医学の研究、即ち、病気の治療法には興味があっても、人間そのものには興味がない」という人がいます。ここで、
そのような医師の割合を正確な数値で示すことには難しさがありますが、本稿を読む読者の皆さんにおいても、病気になって病院に
行ったとき、多かれ少なかれ、”社会常識の無い医師”と接した経験があるものと想像します。

無論、常識のある医師も確かに存在します。しかし、実際、多くの医師の場合、「病気の治療法についての研究は頗る熱心ではある
が、人間とのコミュニケーションには関心がない」という、”人間として大切にするべき根本の根本”が欠如しているという医師は、日本
のどのような医療機関に行っても存在します。

深い意味での”学問”として医学を捉えるならば、医学は、言うなれば、「人間学」。そうした観点から述べるならば、医療に携わる医師
は、医学の研究においては、単に、”医術”にばかりその関心を向けるのではなく、「人類」(mankind)という立ち位置から、人間研究の
一貫として医学を総合的に捉えることが必要不可欠である、と私は考えます。

”医術”しか興味のない医師は、単なる”技術屋”です。技術は、それ自体がどのように優れていようとも、その技術をいかに運用・活用
していくべきかという根本問題について深い考察・研究を試みない限り、それは、”極めて表面的な技術”でしかありません。

医師は、「人間の尊厳」(human dignity)について深く哲学し、”人間学の一部門”として医療を総合的に見据えていくべきだと私は考え
ます。総合的に医療を見据える上で第一に考えるべきことは、一にも二にも、「医師は、一体何のために医療を行うのか」という根本
問題です。「経験を積んで、より上級のポストを得るためなのか」、それとも、「患者の病気を治療し、患者本人の幸福を実現する一助と
なるためなのか」、・・・・・この答えは、言うなれば、”子供でもわかる極めて明確なもの”と言えるでしょう。

医師が、”一個の人間”として、真に大切な問題について盲目にならない方法の一つとして考えられることは、たとえ今現在、医師とし
て働いていても、一度、(勇気を持って勇敢に)医療現場から離れ、医療とは無関係の仕事をしてみるということです。

一年間、医療とは無関係の仕事をすると、これまでの人生において気づかなかった様々な重要なことがより鮮明に見えてきます。
「あー、そうだったのか。このような場所でこのような人が、こんな気持ちで仕事をしていたのか!」、「世の中のしくみは、実際は、
こうだったのか!」という如く、毎日、これまでの自分の人生においては知り得なかった様々な様相が見えてきます。

現実問題としては、医師にとって、「一年間、医療現場から離れる」ということは不可能でしょう。上記の記述は、いわば”例え話”です。
しかし、一年間、医療現場から離れることは不可能であっても、”極めて理性的に”、「自分自身における固定観念、そして、ものの
見方・考え方」を洗い直すことは可能だと思います。

より視野の広い医師となる上で必要なことは、「自分は、医師である前に、一般社会に生きる”一個の人間”である。自分は、一般社会
に生きる”一個の人間”として、一体いかに生きるべきなのだろうか」という問題について深く思索することです。さらに深く述べるなら
ば、この問題について思索するとき、”頭の中の理屈”として思索するのではなく、「この地球に存する一個の理性的存在者として、
自分自身の”腹”で哲学する」ことが重要となります。荒れ果てた大地の上を、勇気を持って勇敢に、土の感触を自分自身の”素足”で
感じ取ることが最も重要な経験となります。勇気を出して、靴も靴下も脱ぎ、自分自身の”素足”で大地を歩いてみてください。そうする
と、これまでの人生において決して気づくことのなかった「大切な気づき」(英知)と出会うことができます。

16世紀フランスにおいて、解剖学を外科に応用し、近代外科学の基礎を築いた外科医、アンブロアズ・パレ(Ambroise Pare, 1510-90)
は、"Je le pansay Dieu le guarit."(余包帯し、神これを癒し給う)と唱えました。パレは、「外科医は決して驕ってはならない。癒すのは
医師のみでなく、神から人間に与えられた自然治癒力が癒すのだ」と述べ、医師に対して、「一個の人間(不完全な存在者)として、
”謙虚な姿勢”を持つことの重要性」を訴えたのです(生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)、p.204参照)。

医師における謙虚な姿勢、これは、”医術”としての問題だけでなく、まさに、「一個の人間として持つべき謙虚さの重要性」にも直結す
る問題でもあります。医師は、どのように長く医療に携わったとしても、このことについて”腹の底から”深く哲学しない限り、所謂、
”医療の理想郷”に到達することはないでしょう。

2011年2月18日(金)







理性を宿す土

2011年を迎えた今、読者の皆さんに哲学詩を捧げます。





理性を宿す土

生井利幸、、、、、、、、、、、、、、、、

心が渇く
心の中の、まさに、”底”から湧いてくる熱情は、
心の真空の部分に”渇き”をつくる

私は、この渇きを満たしたいという一心で、
無秩序に、無数の活字を噛み、そして、また噛み締める
だが、どのように噛み締めようとも、この渇きが満たされることはない

西洋における尊厳性に大きく落胆した後、
しばらくの間、出口のない暗闇の中で、
これまでの人生において経験したことのない辛苦に耐え忍ぶ

そして、ようやく、もがき苦しみながらも、
東洋における尊厳性を全身全霊で感じ取り、そこに”光り輝く歓喜”を見た

今、目の前に、”理性を宿す土”が見える
人は皆、幼い頃に土をいじる
だが、やがて、人は成長し、
いじった土、そして、その匂いまでも忘れてしまう

今、私は考える
人は、幼い頃、自分の手でいじった土の感触と匂いに再び目を覚ましたそのとき、
まさに、土をいじりながら、
”生きる”ということの意味と重さについてひしひしと感じるようになるのだ、と







植物は、心を込めて愛すると、人間に清らかな色を見せてくれます(自宅にて撮影)。

2011年1月13日(水)



一にも二にも、”行動”が自分の人生をつくる

2010年も、あと僅かになりました。まさに、「光陰矢の如し」。時が過ぎ去るのは、驚くほど速いものです。

私にとっての今年は、一体、どのような一年だったのでしょうか。今、このことを銀座書斎で振り返ってみると、すぐに思い浮かぶことと
いえば、「過去と未来における”調整の一年”」だったということです。

この近年における私は、特に目立った動きをすることなく、とにかく、この数年において苦しんできた背中の痛みを和らげることに、その
注意を払ってきました。去る2007年、突如、襲ってきた過酷な背中の痛みは、この銀座書斎日記における一番最初の記述(2009
年5月29日付の記述)において詳しく書きました。その後、2010年12月現在における背中の痛みは、ようやく我慢できる状態にま
で快復。この状態であれば、「2011年のある時期までには、”ほぼ普通の状態”に戻るのではないか」という期待が持てるようになり
ました。

背中が痛いのは、正直言いまして、とにかく辛いです。私自身、現在、来る日も来る日も朝の4:40に起床していますが、正直なとこ
ろ、「もう少し寝ていれば背中が楽なのに!」という誘惑に負けそうになるときもあります。

しかし、「もう少し寝ていたい」という誘惑に負け、そのまま寝てしまったら、私自身、「自分の弱さ」に負けたことになります。即ち、自分
自身の決断で、毎朝、4:40に起床すると決めたのだから、それを実行するのが当たり前。決断するだけでそれを実行しないのであれ
ば、私自身、「口だけの人間」ということになってしまいます。

そもそも、私たち人間は、”理想論”を言い過ぎる存在者なのかも知れません。人間は皆、「本当はこうしたい!」「本当の自分は・・な
のだ!」と”自分の理想像”を唱えますが、実際、その理想像通りに自分が生きるべく、一つひとつ丁寧に実行に移している人は極め
て少ないといえます。

2010年も、あと数えるほどとなりましたが、私自身、今、考えることは、はやり、「何事も、口で言うだけでなく、実行しなければ意味
がない」ということです。「一にも二にも、”行動”が自分の人生をつくる」、・・・・・クリスマスを直前にして、今、この銀座書斎にて、この
ことをしみじみと感じています。



2010年のクリスマスを目前に控えた銀座書斎にて。

2010年12月15日(水)







気高き優雅な朝



気高き優雅な朝

                                               生井利幸

徹夜して迎える朝
起床して迎える朝

同じ朝でも、その様相はかなり違う

徹夜して迎える朝は深い
確かに深いが、その朝は、実にどんよりとした朝

起床して迎える朝は、今、まさに始まったばかりの朝
思索は、たった今始まったばかりだが、そこに漂う気配は、”極めて新鮮な気配”
そして、この一瞬に味わう”苦味”は、頗る引き立つ苦味

苦味は、この世のすべての存在物のはかなさを教えてくれる
同時に、舌で味わう苦味は、徐々に、全身で味わう”気高き喜び”に変貌していく

この”気高き喜び”は、
まさに、迎えるこの日の時間的空間において、何よりも勝る”極上の優雅な世界”を与えてくれる

朝は、一日の始まり
私は、常に、”気高き優雅な朝”を愛している





自宅にて満喫する、私の”気高き優雅な朝”





2010年12月4日(土)







道に迷ったら原点に戻る

どのような人間でも、たとえ毎日一生懸命に生きていても、時には、「やる気が出ない」「モティベーションを維持できない」という事態に
遭遇することがあるでしょう。人間は、言うまでもなく、「日々、感じながら生きる存在者」。それ故に、迎える一日一日において、ありと
あらゆる場所において様々な人々との出会い・コミュニケーションの影響をじかに受け、「私もあのような人になりたい」という如く”素晴
らしいエネルギー”を他者から受ける場合もあれば、それとは逆に、あるきっかけで、自身のモティベーションが著しく下がり、「やる気
をなくす」という事態も起ります。

では、モティベーションが下がってしまったとき、どのようにして自分を望ましい方向性へと改善することができるのでしょうか。本稿で
提案する考え方は、「”原点”に戻る」ということです。

人は道に迷ってしまったとき、冷静さを失い、今まで歩いてきた道をしっかりと思い出すことから遠ざかり、「一体ここからどう行ったらい
いんだ!」という如く、とにかく、先を見ようとします。無論、何事においても、「先を見る」という行為は大切です。しかし、それは、自分
の道を一歩一歩しっかりと歩んでいるときに言えることです。道に迷ったときには、とにかく、これまで自分が歩んできたことを振り返
り、「最初の出発点」を再確認・再認識するということが求められます。

人間は、常に自分をしっかりと持っていないと、何かをきっかけとして横道に逸れ(あるいは、邪道に陥り)、知らず知らずのうちに、
本来、実現したい夢・目標・計画から遠ざかり、当初、それに着手し始めたときに持っていた「純粋な気持ち」「謙虚な姿勢」が崩れ
去っていきます。人間は、自身の生き方において、この「純粋な気持ち」「謙虚な姿勢」の崩壊について気づくことなく安易な方向へと
向かい始めたとき、自分が本当に望んでいた夢・目標・計画とはまったく逆の方向へと進んでいってしまうのです。

読者の皆さん、今ここで、再度、「最近の自分の行動」について振り返ってみてください。もし、自分の行動について自分自身が不満足
であったなら、それは恐らく、本来において自分が望んでいる方向性ではないのだと思います。

道に迷ったら、「原点」に戻ってみましょう。勇気を持って、勇敢に原点を見据えることで、今現在における「自分自身の立ち位置」を
再確認することができ、且つ、今日の”この今”から一体何をするべきなのか、”はっきりと”、且つ、”具体的に”見えてきます。

2010年11月29日(月)







深い思索が、”次の理性的ステージ”をつくる

先日の2010年11月6日(土)、渋谷にて、ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ、「フィガロの結婚」(モーツアルト作曲)を
鑑賞してきました。私は、オペラ鑑賞は、ある意味において、”耳でも目でも楽しめる総合芸術”であると捉えますが、今回の「フィガロ
の結婚」においても、様々な観点から、心の中で新しい経験をすることができました。

本来、音楽家(指揮者)が音楽を表現するとき、オリジナルは”オリジナル”として絶対不可侵の代物ですが、実際、それを表現すると
き、そこには、様々な解釈がなされます。この話を”解釈のダイナミズム”という観点から述べるならば、モーツアルトの「フィガロの
結婚」に限らず、歴史に名を刻んだ偉大な作曲家の様々な交響曲においても、作曲家が生きていた時代の後の時代に、「作曲家の
オリジナルの音楽が、時代の推移・変遷と共に進化する(様々な解釈がなされる)」という現象が起るわけです。

このことは、法律の分野においても同じこと。例えば、制定法には、その制定当時にはそれ相応の理念・解釈というものがあります
が、時が経過するにしたがって”条文の解釈”(捉え方)が変わっていくことがあります。つまり、オリジナルはオリジナルとして存在し
続けますが、そのオリジナルは、時代の推移、あるいは、変遷と共に、進化していくことがあるのです。

「オリジナルが進化する」、言葉を換えれば、「もともとあった固有の存在物が進化・発展する」ということ。これは実に、興味深い現象
であると私は考えます。フランスの哲学者、ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)は、著書 『パンセ』(Pensees)において、
人間は考える葦である」と述べています。これまでの人類の歴史を振り返ってみると、西洋文明社会、そして、東洋文明社会におい
ても、実に多くの哲学者・作家たちが、人間社会に対して「考える重要性」を唱えてきました。そして今、私は、過去の歴史を振り返り
ながら、以下のように考えます。

   「人間は、考える存在者である。それ故に、人間は、考えることによってものを生み出し、さらに、”次の理性的ステージ”として、 
   考えることによって既に生み出したもの(生み出されたもの)を進化・発展させる」と。

2010年11月16日(火)







街のネオン・雑音に惑わされることなく、「自分」という”世界で唯一の個”を堅持しながら生きる
・・・ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラの『人間の尊厳について』を手掛かりに

日本では、どこの都市へ行っても、ネオンや雑音が交錯しています。西洋文明社会における諸都市と違い、日本の都市は、人間が住
みやすい街の外観をつくることよりも"過剰な商業主義"が先行。日本では、街の至る所において、商品やサービスの宣伝が行われて
います。

私たち日本人は、そんな街を毎日歩いていると、いつの間にか本来の自分自身を忘れ去り、街のネオンや雑音に心が奪われることも
しばしばあります。ギラギラと、あるいは、ガヤガヤとした街の雰囲気の中、人々は、知らず知らずのうちに我を忘れ、”本来の自分”と
して「人生いかに生きるべきか」という、人間として最も根本的な問題についてじっくりと考えようとしない日々を送るようになっていきま
す。

そうなると、人々は、深い思索を試みることから離れ、「”物理的に”目に見えるもの・耳で聴こえるもの」のみに身を任せて毎日を過ご
し、次第にそれに溺れ、安易な情報・中身のない情報に依存し、自分自身の立ち位置について盲目になっていきます。

ルネサンス期イタリアの哲学者・人文主義者であるジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(1463-1494)は、著書 『人間の尊厳について』
において以下のように述べています。

   「人間が生まれるとき、父は、彼にあらゆる種類の種子とあらゆる種類の生命の芽を挿入しました。それぞれの人間が育むもの 
   は、成長してそれぞれの人間の中に自分の果実を産み出すでしょう。(1)もし植物的なもの(vegetalia)を育むならば、その人は
   植物になるでしょう。(2)もし感覚的なもの(sensualia)を育むならば、獣のようになるでしょう。(3)もし理性的なもの(rationalia)を
   育むならば、天界の生きもの(caeleste animal)になるでしょう。(4)もし知性的なもの(intellectualia)を育むならば、天使、ないし
   は、神の子になるでしょう。そして、(5)もし彼が、もろもろの被造物のいかなる身分にも満足せずに、自らの"一性"(unitas)の
   中心へと自ら引きこもるならば、彼の霊(spiritus)は神と一つになり、万物を越えたところにおられる父の「孤独な闇」
   (solitalia caligo)に置かれて、万物の上に立つものとなるでしょう。」

(ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ著、大出哲・阿部包・伊藤博明訳、『人間の尊厳について』、国文社、17-18頁参照)、、

ピコは、著書『人間の尊厳について』において一体何を言いたかったかというと、すべての人間には、いわゆる「自由意志」が賦与され
ているということです。自分自身を一体どのようにするか、即ち、「"神から与えられた理性"によって人間がどのように思索するかは、
個々の人間の"自由意志"に委ねられている」ということをピコは言いたかったのです。

読者の皆さんは、今、どう感じるでしょうか。毎日の生活において、街の至る所にどのようなネオン・雑音があろうとも、”考える能力”と
しての「理性」を駆使し、自分自身の責任において深い思索を試みるならば、「自分」という”世界で唯一の個”を見失うことはないと思
います。



蝋燭の灯火は、都会の喧騒を忘れさせてくれ、「静寂の優雅さ」を醸し出してくれます。(自宅にて)

2010年10月6日(水)







理性的存在者として、腹で哲学する

「経験は学びの母である」という考え方は、人類史で言うならば、”記録”として歴史的事実が書かれていない時代、即ち、「記憶の
及ばない時代」(from time immemorial)から、人間が自らの経験を通して学んできた経験則と言えるものです。

私は、日々の生活において実に様々な”職業専門家”とお話する機会がありますが、そうした人々との交流を通して常に感じることが
あります。それは、「人間は、理屈どおりにはいかない存在者である」ということです。

世の中には、”セオリーどおり”に生きている人は大勢います。秩序あるライフスタイルを送るためには、”一般社会通念”としてのセオ
リーに準じ、それを模範として生きることはそれなりに意味のあることでしょう。

しかし、毎日の生活において、どのような状況に遭遇しようとも、常に、「世の中がこうだから私もこうする」「本当はチャレンジしたいこと
があるのだが、人に知られると恥ずかしい(笑われる)」と考え、本来、自分がしたいことを抑えてしまう人は、本当の自分として人生を
謳歌することは不可能となってしまいます。

今回は、読者の皆さんに、次のメッセージをプレゼントします。


自分自身の”素足”で、一歩一歩、大地を歩く

「既存の理屈」にとらわれることは、自分を「暗闇の牢獄」に封じ込め、自分に存する限りない可能性を殺してしま
う行為である。大切なことは、勇気を持って、そして、勇敢に、自分自身が本当に望む自分像に到達するべく、
本来の自分、即ち、「”自然体”の自分」として毎日を生きてみるということだ。

既存の理屈にとらわれるということは、言うなれば、既存の理屈の”奴隷状態”になるということである。人間に
は、天賦的理性が賦与されている。「人間には、理性がどうして”天賦的に”賦与されているのか」、今、このこと
を自分自身の”腹”で哲学してみよう。

理性の存在理由について腹で哲学する存在者こそが、本来、「理性的存在者として、自分自身の”素足”で、
一歩一歩、力強く生きる」というその意義・価値について認識できるのだ。

素足で大地を歩くことは、険しく、痛い。しかし、人間は、自らの意志で素足で大地を歩かない限り、真の意味で
の「生きるという”尊厳性”」について認識することはできない。

常に、認識には、”痛み”が伴うものだ。

2010年9月23日(木)







一個の人間における「労働の尊厳」について

概して、人は、人生経験を積めば積むほどに、「人間における、”人間”としての生き方・在り方」について少しずつ知るようになるのだ
と考えます。

学問においては、「理論と実際は異なる」という事態がしばしば起り得ますが、このことは、”生身の存在者”である人間の人生におい
ても同様に言えることです。「理屈ではわかる。しかし、理屈でわかっていても、それを実際に経験しない限り、”確かな実感”として
十分な理解を得ることは難しい」ということは、古今東西において、どのような人においても必ず該当することです。

例えば、一人の人間が労働を通して流す「汗」。一生懸命に働いて流す「汗の価値」がどれほど重みのあるものであるかということは、
通常の常識を備えた人であれば、理屈としてわかります。

しかし、その「汗の価値」について理屈としてわかっても、”確かな実感”として感じ取り、その「価値」「意味」についてしっかりと理解す
るためには、それなりの人生経験を積んでいく必要があります。

例えば、20代の若い世代の人々の場合、このことは理屈ではわかるでしょうが、学校を卒業して僅か数年ほど一般社会で働いたとい
う経験では、「労働を通して、一個の人間が流す”汗の重さ”」について理解するということは、なかなか難しいことでしょう。

通常であれば、人は、30代あたりから、本来、「自分は何者でもない」という事実に気づき始め、「学校で習った知識・技術程度では、
本物のプロフェッショナルとして身を立てるのは難しい」ということを認識するようになります。今、そうした観点から述べるならば、30代
という年齢層は、ある意味で、「”一社会人”、または、”一社会的存在者”として、地に足の着いた方法で、本当の勉強をするための
期間」ということができるでしょう。

私自身、10代はおろか、20代の頃は、労働で流す汗の重さについて、かなり無頓着であったということを思い出します。今考えると、
それは、非常に恐ろしい有様そのもの。「無知」、あるいは、「経験が浅い」という有様は、”実に滑稽、そして、恐ろしい有様”だと感じ
ます。

人間は、日々、数多くの辛苦を経験し、勇気を持って、頗る勇敢に困難と闘いながら、少しずつ、「生きるということの意味」「働くという
ことの意味」について知るようになる”理性的存在者”です。「他人の苦労」の重さ・価値は、まず第一に、自分自身が相当数の苦労を
経験しない限り、決して理解することはできません。人が一般社会を見て、「あの人はあんなに成功している。とてもラッキーな人な
だ!」と捉えるのは、言うなれば、”世の常”。しかし、実際、「努力もしないで大成功を収める」ということはあり得ません。

今、自分が進むべき道がなかなか定まらない人、あるいは、人の成功・幸福について素直な気持ちで喜べないという人は、ここで
是非、もう一度、「一個の人間が、労働を通して流す”一滴の汗”」について、自分なりの方法でしっかりと考えてみてください。

皆さんが、自分自身の人生における生き方について考えるとき、特に、大きな目標を立てる必要はありません。まずは、「目の前にあ
る”小さなこと”」を大切にし、一つひとつ、”頗る厳粛な気持ち”で丁寧に取り組んでみてください。

「真心を持って、”小さなこと”を丁寧にやっていく」、・・・・・人間は皆、このことの「価値」「尊厳」について、自分自身の人生経験を積み
重ねながら感じ取っていく存在者なのです。



写真は、銀座書斎で、多くの人々に愛されているジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)の「馬鈴薯植え」。
        銀座書斎に訪問する多くの方々は、ミレーが、この絵画を通して世の中の人々に伝えたかった大切な
        メッセージについて、自らの人生経験を基盤として、清らかな心で感じ取り、解釈しています。

2010年9月19日(日)







私にとっての「贅沢な心の時間」

今、思えば、長年、海外で生活をしている間に、本当に、あっという間に人生の後半に入ってしまったという感じがします。加えて、
日本に全面帰国して以来も、もの凄いスピードで時間が過ぎ去りました。現在、私にとって最も貴重な財産は、「”心の贅沢”を醸し出
す空間」です。「心の贅沢」は、深遠なる思索を生み出してくれ、自身の「理性」と「感性」を駆使し、海を渡ることなく様々な「心の旅」を
楽しむことが可能となります。

私の住まいは、仕事場である銀座書斎(銀座3丁目)から歩いて13分ほどの場所に位置し、自宅からは隅田川も見えます。現在、
私にとっての贅沢とは、川や海を眺めながらの散歩、そして、書斎や自宅周辺地域の公園等で楽しむことができる植物に触れることで
す。また、自宅では、植物や絵画を目の前にして、オペラを聴きながら重い赤ワインを味わい、より深い思索の時間へと入っていきま
す。

銀座書斎においては、毎日、たくさんの人々が出入りしますが、そうした人々との交流から常に感じることは、「生活環境の重要性」で
す。古今東西において、「環境は人を変える」という捉え方は、”異なる文明・文化を超越して、共通する真実である”と言うことができ
ます。実際、私自身の人生においても、住んできた国や環境によって、私自身、”何らかの変化”を経験してきました。

無論、”個人としての自分自身”は、どのような環境で生活しようとも”同じ存在者”であるには違いありません。しかし、人間は、環境
によって、良い影響も、そして、悪い影響も受ける”不完全な存在者”です。

かつての一連のIT革命以降、インターネットの普及により、直接的にも間接的にも、様々な情報に左右、あるいは、扇動されつつあ
る、この「”極めて流動的な”人間社会」の中で日々生活する読者の皆さんにおいては、常に、自分自身をしっかりと見詰め、地に足の
着いた考え方を基盤として、堅実に、少しずつ前に進んでいっていただきたいと切望しています。

読者の皆さん、是非、自分なりの方法で「贅沢な心の時間」を確保し、安易な情報に惑わされることなく、しっかりと自分自身の力で深
い思索を試みてください。落ち着いた環境でしっかりと思索すれば、「本当の自分自身」を見失うことなく時を刻むことができます。




私は、空き時間があると、隅田川沿いを散歩し、心と体に新鮮な空気を与えます。




先日、自宅宛に、経営顧問をしている会社から季節の贈り物をいただきました。




自宅では、植物、絵画、オペラ、重い赤ワインの組み合わせを介して、「贅沢な心の旅」を楽しんでいます。

2010年7月30日(金)







善を見、善を語り、善に生きる

嘘偽りが多いこの物質文明社会において、「善を見、善を語り、善に生きる」という生き方を実践することは、決して簡単なことではあり
ません。

安易な生き方を選び、安易な道を歩むのであれば、それほどの苦痛を味わうことなく、毎日、楽しく生きることができます。無論、楽しく
生きるという行為は、どのような人間にとっても追い求めたい生き方ではあります。しかし、人間は、楽しく生きるだけでは、自身に備
わっている「理性」「感性」をより良い形で活用することはできません。

言うまでもなく、人間は、「理性」でものを考え、「感性」でものを感じる存在者です。人間は本来、「理性的存在者」であり、それと同時
に、「感性的存在者」でもあります。

この世には、様々な「”善”としての存在物」、そして、「”悪”としての存在物」が散乱しており、私たち人間は、一体どれが善なのか、
あるいは、どれが悪なのか、その判断に困惑することがあります。

判断に困惑する最大の理由は、「考えることの欠如」、そして、「感じることの欠如」にその原因をみることができます。今、善を見据
え、”一個の人間”として正しく生きようとする読者の皆さん、是非、勇気を持って「善を見、善を語り、善に生きる」という生き方を身を挺
して実践してみてください。

目先の損得勘定で自分の行動を決めるのではなく、勇気を持って、頗る勇敢に、善を実行してみてください。

善に生きる存在者は、”正真正銘の本物”。嘘偽りが氾濫しているこの物質文明社会において、善を基盤とした行動は、いずれは正し
く評価され、人々の心を必ず掴みます。

2010年6月16日(水)







この「今」を楽しむ・・・仏教・禅宗における無常観の境地から

言うまでもなく、物質社会におけるすべての存在物は、生まれ、変化し、消滅する、という一連の流れを繰り返しています。仏教におい
てこのような考え方を「諸行無常」といいますが、これは、仏教・禅宗において、生滅変化する存在物に対する基本認識として捉えられ
てきた概念です。

この話をさらに進めると、「禅」は、禅那(ぜんな)・禅定(ぜんじょう)の略。これは即ち、「静慮」の意。古くは、6世紀初頭、インドの
菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に来て以来、坐禅によって釈迦の菩提樹の下での悟りと同じ悟りを開こうとする新しい宗派がおこり、
それが禅宗と呼ばれるようになったものです。

日本では、天台の僧である栄西(1141-1215)が日本に伝えたのが禅宗の始まり。栄西は、比叡山で天台密教を学んだ後、2度ほど
宋(中国)に渡り、1191年に臨済禅を伝えた人物です。栄西は、決して天台宗などの旧仏教を否定したわけではありませんが、
比叡山は禅の重視に反対する立場をとりました。栄西は後に、鎌倉将軍家の援助を受け、寿福寺(京都)や建仁寺(鎌倉)を建て、
臨済禅の普及に努めました。栄西の主著 『興禅護国論』 は、天台宗による非難を批判。当時の日本に禅法が必要な理由を論じたも
ものとして知られています。

栄西の弟子・道元(1200-1253)は、栄西と同様、宋に渡り、そこで厳しい禅の修業を経験。後に帰国し、曹洞宗をおこしました。道元
は、強靭な信念を貫いた人物として知られています。本稿においては、興味深い逸話として、自己を捨て慈悲を重んじる道元の徳風に
ついて述べたいと思います。

即ち、道元が48歳の時、当時の執権、北条時頼の招待を受け、関東で人々に仏道を説いた時のこと。道元は、説法の役目を終え
越前国(現在の福井県)の永平寺に帰ると、弟子の玄明が、時頼から永平寺に3000石の土地を寄付する「お墨付き」を預かり、それ
を、嬉しそうに道元に差し出したということです。しかし、どうでしょう。道元はそれを見るや否や、「わしは、べつに財・名声のために
真理を説いているわけではない」と玄明を怒鳴りつけ、玄明から僧衣を剥ぎ、即刻、永平寺から追い出したのです。

思うに、今、現代に生きる私たちは、この逸話を通して、「道元がいかに自力による救済を追及し、代償を求めない人間愛を自らの手で
実践していたか」ということをうかがい知ることができると、私は感じます。禅宗における無常観をわかりやすく述べるならば、「この世
には完全無欠、あるいは絶対不変なものはない」ということ。私たちの身体を例にして考えるとわかりやすいことですが、人間の体にお
いては、常に、極めて短い時間的空間において、無数の細胞が滅び続け、その一方、無数の新細胞が生まれて新陳代謝を繰り返し
ています。そして、人間という存在物も、時が来れば、必ず「死」に至ります。人間が人間である以上、誰一人として永遠に行き続ける
ことは不可能なのです。他の動物ももちろんのこと、机、椅子、車、家はもとより、大自然も、決して永遠に存在することはできません。

私たち人間はすべて、「”永遠でない”生命の賦与」を受け、「限りある人生を生きる」という宿命を背負って生きています。人間の生命
は決して永遠でない、・・・・・このように捉える私は今、「迎える一瞬一瞬について、”頗る大らかに捉え”、自分にとって良いことも悪い
ことも存分に楽しんでしまおう」と考えています。



余暇に過ごす日本庭園にて、、、、、、、、、、、

2010年5月5日(水)







植物の高貴な囁き

都会の喧騒の中で、日々、慌しく過ごしていると、落ち着いて思索の時間を持つことは簡単ではないでしょう。私自身、来る日も来る日
も時間に追われる生活をしていますが、自宅では、できるだけゆっくりと自分の時間を持つようにしています。

自分の時間において私が最も重要視する時間は、植物を目の前にしてする「思索の時間」です。今回は、ここに、「植物の高貴さ」を
テーマにして書いた哲学詩を掲載させていただきたいと思います。



    植物の高貴な囁き
                                  生井利幸

    自然界は、人間に”生きる”を教えてくれる

    大自然に生きる動物は力強く吠える
    吠え、自らの生きるについて意気揚々と叫ぶ

    一方、植物における”生きる”を切望する叫びは、”囁き”そのもの
    植物は、自らの”生きる”について、まるで独り言を言うかのように囁く

    吠えるわけでもない
    動くわけでもない
    ただ、じっと囁くのみ

    その囁きは、まるですべての動物たちに、
    沈黙の中で生きることの高貴さ、
    そして、生きるを絶たれるとき、何の抵抗をすることなく、
    ”自然の摂理に従うことの高貴さ”を教えているかのようだ

    私は今、切実に感じる
    この、”沈黙の高貴さ”こそが、この世で最も高貴な有様である、と







自宅、「思索の間」にて、、、、、、

2010年3月19日







背中の痛みが教えてくれた「生きるということの”重さ”」

この銀座書斎日記をスタートして最初に掲載したエッセーでも書きましたが、2007年のある時期において、私の背中が、まるで鉄板の
ようにカチカチに硬くなり、動くと、上半身に激痛が走るという過酷な状態が続きました。当時は、歩くのも大変な状態でしたが、2009年
あたりからほぼ平常に歩けるようになり、背中の痛みもかなり緩和し、現在では、幸いにして、”普通の痛さ”となりました。

2010年を迎えた現在の私の背中の状態は、普通の痛さを感じる程度のものとなりましたが、それでも、毎日、痛さに耐え忍ぶ生活を
送っています。私自身、作家という立場からこのことを論じるならば、私は、ある意味で、この「背中の痛み」に感謝しています。その理由
は、背中の痛みは2007年から始まりましたが、その間、私自身、「痛みに耐え忍びながら、”体全体で哲学する日々を送る”」という、
作家として、大変貴重な日々を過ごすことができたからです。

「経験は学びの母」と言う如く、痛みも、学びの母に違いありません。私は、若い世代の頃、病気になり入院した経験はあるものの、それ
以外は、健康に恵まれ、何不自由のない生活を送ってきました。人間は、理屈でどのように理解していようとも、長い間、恵まれた生活
を送っていると、「健康で生きていられる」ということに感謝することを忘れ、とんでもない”負の方向性”へと進んでしまう愚かさを備えた
存在者でもあります。このような観点から述べられることは、この数年間における背中の痛みは、理性的に、人間の「生」と「死」につい
てじっくりと捉え、それを哲学する上で極めて貴重な経験となったということです。

現在、私は、日々、背中の痛みを通して、自分自身の「非力」「無力」「愚かさ」「無知」等を”確かな実感”として感じ取り、来る日も来る
日も、全身全霊で、それらと真正面から闘う日々を送っています。私は、この地球に存する”一個の人間”として、決して、安易な道を歩
むことなく、「自ら、自分自身を、”真っ暗闇の暗黒の世界”に突き落とし、そこで、もがき苦しみ、身を挺して思索し、やがては、そこから
自力で這い上がり、太陽の光り輝く大地へと足を運ぶ」という一連の試練を経験しています。

言うまでもなく、作家にとって、この試練は、ほんの一回だけでは足りません。私は、「這い上がった後、再度、自分を暗闇の中に突き落
とし、そこで、もがき苦しみ、思索を重ね、また、そこから自力で這い上がる」という如く、何度でも試練を経験する覚悟を決めています。

ここからは一般論として述べますが、「太陽の光り輝く大地へと足を運びたい」という切望、このことを別の言葉で表現するならば、
「夢を実現したい」ということでもあります。私は、「人間は、夢を、頗る積極的に抱くべきだ」と捉えています。そして、今、毎日、様々な
人々と接するその時間的空間において、いかなる人間においても、「夢は、一度だけでなく、何度でも抱くべきだ」と切実に感じます。

夢を抱くことは、即、「生きる熱情」を生じさせる源泉にもなります。人生は一度だけ。たった一度しかない人生において、「熱情」を持って
生きずして一体何のための人生なのでしょうか・・・・・。

2010年2月10日







求めるのではなく、「与える喜び」に生きてみよう

「他人の人生観や価値観を理解する努力をすることなく、自分の価値観や願望ばかりを他人に押し付ける」、・・・・・世の中には、このよ
うな考え方から抜け出せない人が相当いると捉えます。

「人間の本性」(human nature)という観点から述べるならば、視野の狭い人、即ち、個々の木ばかりにとらわれ、森全体を見ることがで
きない人は、この<典型>から抜け出すことは極めて難しいと言わざるを得ません。

無論、他人に何かを求めることは、決して悪いことではありません。自分の気持ちに正直になり、その気持ちに基づいて他人にそれを欲
するという行為は、ある意味、正直と言えば正直な有様です。しかし、この人間社会において、存在するすべての人間が皆、同じように
他人に何かを求めるだけのために生きているとしたら、この人間社会は、間違いなく、「不の方向」へと進んでいってしまいます。

「他人に求める」という行為は、”程度の問題”を超えない限り、それは許容の範囲であるには違いありません。しかし、人間という存在
者は、単に求めるだけでは「自らの存在価値・意味」を全うできない存在者でもあります。

今、私は、読者の皆さんに提言します。日々、求めることばかりに目を奪われるのではなく、「与える」という行為に目を向けてみてはい
かがでしょうか。

人間は、「他人に与える」という行為を誠意を持って行うことにより、自身の心の中で、「喜び」を感じることができる理性的存在者です。
私たち人間は、「与える」という行為、即ち、「他人に幸福や喜びを与える」という行為を通して、人間として存在する喜び、そして、人間と
して生きる喜びをひしひしと感じることができるのです。

自分の我を通すことよりも、他人の心情を理解することに努めてみましょう。そして、他人に求めるよりも、他人に何か与えるために自分
の時間を使ってみましょう。

概して、利己心に基づき、相手に対して自分の我を通そうとすればそるほどに、その相手からは、自分が望む評価をされることはなく
なっていきます。一方、自分の我を通そうとするのではなく、心からの愛情を基盤として相手の立場や心情を理解しようとすればするほ
どに、相手も、自分を理解しようと努めてくれるようになるものです。

西洋文明社会、そして、東洋文明社会においても、より良い人間関係を構築する源泉となるものは、「お互いにおける”相互理解”」その
ものです。他者とより良い関係を築くためには、まず第一に、他者を理解しようと努めること。私たち人間は、このことをしっかりと踏まえ
ている限り、「人間関係における”大きな落とし穴”」に落ちなくてすむのです。

「喜び」を持って、他人に何かを与えてみましょう。人間は、日々、そうした前向きの生き方をすることで、より素敵な人生を謳歌すること
ができるのです。

2010年1月22日







自分自身の無力・非力と闘う

昨日、東京・赤坂のサントリーホールにて、ショパンのピアノ協奏曲第2番へ短調作品21、そして、ブラームスの交響曲第1番ハ短調
作品68の演奏(指揮:小林研一郎、演奏:日本フィルハーモニー交響楽団)を聴いてきました。

最初に演奏されたショパンのピアノ協奏曲第2番は、梯剛之さんがピアノを演奏しました。梯剛之さんは、生後一ヶ月で小児癌により失
明されていますが、4歳半からピアノの世界に入られました。

才能のある音楽家にとって、「音」は、単なる音ではなく、「心の中における映像そのもの」なのだと捉えます。聴力を失っても大作曲家と
して数々の偉業を成し遂げたベートーヴェンの激動の人生は世界中の人々が知るところですが、音楽は、自身の心の持ちようで、実に、
いかようにでも自分の精神世界を構築、あるいは、満喫することができる代物なのだと思います。

私は、長年、ベートーヴェンの交響曲を愛し続けていますが、特に、交響曲第5番ハ短調作品67は、これまでの人生において、数千回
は聴いていると思います。音楽家ではない私が、「第五を数千回聴く」ということは、ある意味、普通ではない回数でしょう。しかし、私自
身、それほどまで多く第五を聴いているのには、確かな理由があります。

ご承知のように、同じ交響曲でも、指揮者の解釈によって、演奏の様相はかなり違ってきます。私自身、CDやDVDはもとより、コンサート
における数々の生の演奏を通して、これまで様々な解釈と出会ってきました。私は、「指揮者は、自らの命を削って音楽の解釈を行う
”哲学者”である」と考えます。芸術は、それを真摯に捉えれば捉えるほど、その深遠なる様相の前で、厳粛、且つ、謙虚な姿勢で跪くし
かなくなります。まして、世界史に多大な影響を与えた芸術家の作品を自分なりに解釈し、公の場で披露するとなると、それは、まさに、
命を削るほどの膨大なエネルギーを消耗することになります。

真摯な姿勢で芸術・文化、あるいは、学問に携わる人間は、決して無限ではない時間的空間において、日々、命を削っています。どの
ような分野においても、探求者は、その中身を知れば知るほど、自分自身における無力・非力を思い知らされる命運を背負っています。

自分自身の無力・非力と真正面から闘う、・・・・・私は、これこそが、「哲学」を基盤とする自分自身の執筆活動における”あるべき姿”
なのだと考えます。

2010年1月18日







真の「知」(sophia)は、無言である

事物における本質を知るには、言うまでもなく、幾多もの試練を乗り越え、探求者自身の力で思索に思索を重ねる必要があります。

本質(essence)は、決して、自ら、探求者に接近することはなく、理性的存在者である探求者自身が、”極めて積極的に”それを探求し続
けない限り、その境地(本質的境地)に到達することは不可能です。

積極的に歩み寄ってくる「本質」(本質らしき本質、言葉を換えれば、本物を装った”偽者”)は、大抵の場合、自ら探求者に接近し、探求
者を惑わし、”本来、探求者が求めている本質とは全く異質のもの”を探求者に与えようとします。

例えば、資本主義経済社会においては、企業が、営利追求のみを目的とし、顧客に対して愛情も誠意もない商品・サービスを売ろうとす
る行為は、言うなれば、それは、「”本物を装った偽者”の押し売りそのもの」として捉えることができます。

深い観点から述べるならば、この”経済社会”は、右も左も、本物を装った偽者が交錯する”虚像社会”です。その虚像社会において、
事物における本質を見極め、真に価値のある事物、あるいは、境地に到達したいならば、私たち人間は、世の中に蔓延る安易なネオ
ン・雑音に惑わされることなく、常に、深い思索を試みることが必要不可欠となります。

真の知は、”無言”です。それ故、知の探求者は、永遠と続く暗闇の中で、自分自身の力でそこに到達しなければなりません。

西洋文明社会では、人間は、「理性」(神から与えられた理性、reason given by God)の存在は、「真の知に到達するために在るもの」と
いう捉え方をすることが一般的です。「理性の存在についてそれをいかに捉えるか」、この問題は、常に、理性的存在者であろうとする
人間にとって、極めて重要な問題となります。

2010年1月13日







人間は、苦しい経験を通して、「生きる価値」を知る

どのような人においても、人生におけるある一定の時期において、「楽をしたい」「苦労をすることなく、簡単に生きていきたい」と考えなが
ら生きる日々があるでしょう。

それは、それとして、べつに悪いことではありません。より楽しく、できる限りスムーズに毎日を送りたいという願望を持つことは、言うな
れば、「人間の本性」そのものでしょう。

しかし、楽をして生きていると、決して今の自分を高めることはできません。無論、「一生、何ら、”自分の限界”と勝負することなく、好ん
で簡単な道を選ぶ」という生き方は決して”悪”ではありません。しかし、人間は、たった一度の人生において、自らの「生」において、
本当にそれで満足することができるのでしょうか。

思うに、楽な経験からは何も生まれません。人間は、日々、困難な経験を積み重ねながら、一つひとつ大切なことに気づき、「生きる」と
いう行為の価値を知るのです。

「生」の真の価値を知るということ、・・・・・ある意味で、このことを知るには、自身の人生を全うし、「人生の終焉」を迎える直前にならなけ
ればわからないでしょう。

これを読む読者の皆さん、そして、私自身も、今、「生」の価値を知るその”途上”にいます。途上ではありますが、私たちは、それでも、
「生」の価値を知るべく、日々、極めて真摯な姿勢で、一日一日の「生」を味わうことはできます。

「生」を味わうには、「苦」を通る必要があります。そうした観点を踏まえ、私は、迎える一日一日において、自ら率先して、自身の生活の
中に「苦」を迎え入れようと思います。

人間の思考というものは、実に面白い代物です。「苦」は、回避するのではなく、それを積極的に迎え入れると、やがて「喜び」となってい
きます。私は、人間が、”理性的存在者”である所以は、まさに、ここに在るのだと捉えます。

2010年1月11日







人間は一体何のために生きるのか

人間は皆、「今の自分を高めたい」という願望を持っています。私たちは、自分を高めるために、たくさんの本を読んで知識・教養を養い、
あるいは、周囲の優れた人々とコミュニケーションを図り、自分を高めるためのより良い知恵を得ようとします。

言うまでもないことですが、大切なことに気づくためには、それなりのエネルギーを要します。来る日も来る日も、単に、ぼーっとしている
だけでは、人間は、何ら前に進むことはできません。

一方、世の中には、「人類愛の精神」を基盤として、「自分を高めるだけでなく、他者をも高めたい」と真摯に考え、自身の命を削りながら
他者の利益・幸福のためにエネルギーを使っている人もいます。

自分が自分自身の利益追求・幸福実現のために様々な気づきを得ることはそれなりのエネルギーが必要となりますが、自分の利益・
幸福のためだけでなく、他人の利益・幸福、ひいては、広く、一般社会やコミュニティーの利益・幸福実現の一助になるべく生きている人
は、躊躇なく、”前者以上の膨大なエネルギー”を毎日使っているということも私たちは知るべきでしょう。

概して、世の中には、二つのタイプの人間がいます。第一に、「自分のためだけに生きる人」。そして、第二に、「自分のためだけでなく、
他者の幸福も視野に入れて生きる人」。これを読む皆さんは、一体どちらの生き方に価値を見い出すでしょうか。

人間は、一体何のために生きるのでしょうか。”一個の理性的存在者”としての価値ある生き方とは、一体どのような生き方なのでしょう
か。

2009年12月5日







小さなことを大切にしながら、一歩一歩しっかりと

何不自由のない生活をしていると、本当に大切にするべきことについて、鈍感、あるいは、盲目になることがあります。

例えば、人様の心遣い。長い間、来る日も来る日も他人から親切にされ続けていると、いつの間にか、「人から親切にされる」ということ
に対して何も感じなくなり、「人間の心の尊さ」について”鈍感”になっていくことがあります。

はっきりと述べるならば、”鈍感”になるぐらいであれば、まだ間に合います。しかし、”盲目”になってしまうと、その本人はとんでもない
ない方向性へと進むことになります。

「今の自分に酔うことなく、常に自分を律し、戒める。一方、人に対しては温かい心で接する」、このように生きることで、人間は、”真っ暗
闇の迷路”に入らずにすみます。

まずは、自分をしっかりと見つめ、「自分は一体どのような立ち位置に立っているのか」ということを考え、自分自身の足で、しっかりと
大地を歩いてみましょう。大きなことよりも、むしろ、小さなことを大切にしながら。一歩一歩しっかりと。

そうすることで、きっと、「本当の自分が本当に望む、”自分独自の道”」が見えてくるに違いありません。

2009年10月27日







銀座書斎への訪問をご希望の読者の皆様方へ

また、新しい月曜日を迎えました。とにかく一週間が過ぎ去るのが速く、私にとっての一週間は、7日間というよりも、3、4日しかないよ
うに感じてなりません。

この銀座書斎は、言うまでもなく私自身の思索と執筆のための空間ですが、その一方、この書斎は、広く、一般の読者の皆さんにも
開放しております。

一般の読者の皆さんにおいては、銀座書斎に訪問したい場合、次の2つの方法があります。一つは、<1>「直接、書斎に電話して、
ご用件をお話いただき、可能な日時を相談の上、アポイントメントを取る」、そして、もう一つは、<2>「生井利幸執筆の本やコラム、ある
いは、このウエブサイト上の文章・詩などについてのご感想をメールでお送りいただき、<書斎で面会して話をしたい>というご希望を
お書きいただき、その後、アポイントメントを取る」という方法です。

ご訪問の際には、ゆっくりとお話をすることができます。お話する内容は、人によって様々です。基本としては、私自身の執筆作品につい
てのお話になりますが、その他、「今、悩みがあるのですが、相談に乗っていただきたい」ということでも結構です。銀座書斎でのお話
は、”ミニ茶話会”のような雰囲気で、コーヒーを飲みながら楽しく行われます。

2009年10月19日







「教養」とは一体いかなる概念なのか?

最近の銀座書斎では、「”教養”とは一体いかなる概念なのか?」という話題に花が咲いています。言うまでもなく、この世の中には、
物事をたくさん知っている人は大勢います。本や雑誌、新聞、あるいは、インターネットを通して、様々な知識・情報・データを得る人は、
日本全国に、あるいは、世界中にたくさんいます。しかし、表面的に”もの”を知っていても、「それをどのように活用し、どのように社会や
コミュニティーのために役立てるか」について深く考える人は、現実にはそう多くはないでしょう。

思うに、日本でも、海外でも、普通の教育を受けた人ならば、言語上の語彙として、「知識」(knowledge)・「教養」(culture)という言葉は
知っているものです。しかし、実際問題として、これら二つの概念について、それらをしっかりと把握・理解している人は少ないでしょう。

知識とは、「単にものを知っている」ということです。つまり、知識は、何かを知ろうとするプロセスにおいて得た情報・データそのものを指
すものです。一方、教養とは、既に得た情報・データなどについて、それらを、他者やコミュニティー、さらには社会一般の「幸福」
(happiness)や「利益」(benefit)を実現するために役立てるための知恵(wisdom; intelligence)を意味する言葉として捉えることができま
す。1)「知っている」ということと、2)「役立てる」ということ、これら両者は、根本的に異なる概念であるわけです。

さらに少し深い話をすると、英語で「文化」を"culture"と呼びますが、このcultureという言葉は、同時に、「教養」という意味を持ちます。
言うまでもなく、世界に存する様々な「文化」、あるいは、「知」(sophia、ギリシア語で”知”、”英知”を意味する)を面前とし、その「精髄」
「真髄」(the quintessence; the essence)に触れるためには、それなりの「教養」(culture; cultivation)を備えていることが必要となりま
す。

英語における"culture"という言葉は、「文化」であると同時に「教養」という概念を意味する言葉。日本文化はもとより、海外における
多様な文化に接し、それらについて深く味わうためには、幅の広い教養が必要となるのです。



ご参考: ソクラテスが唱えた「無知の知」について
2009年10月16日







例えば、”100円の価値”について

今、東京・銀座3丁目の銀座マロニエ通りから、「新鮮な豆腐はいかがでしょうか」という爽やかな声が聞こえてきます。豆腐一丁の値段
を考えると、「街を歩きながら豆腐を売る」という行為について、色々と考えさせられる思いをします。

「一丁の豆腐を売るために、汗を流しながら、自分の足で歩く。そして、自分の声で人を呼び寄せ、単価の安い商品をコツコツと売る」と
いう仕事をすること・・・。この人は女性ですが、恐らく、同世代の(一般的な)会社員よりは、遥かにお金の価値(あるいは、ビジネスの
難しさ)がわかる人でしょう。

「大地の上にしっかりと足を踏み入れ、自分の足で前に進み、人様に<喜び><幸せ>をお届けする」、・・・想像ですが、この人は、
きっと、迎える一日一日において、「生きる」という意味をしっかりと噛み締めながら過ごしているに違いありません。これからも、経験に
経験を重ね、さらに、「人の世における本質」を感じ取っていくものと思います。

   毎月、決まったお給料をもらえるのが当たり前。
   仕事は、常にあるのが当たり前。
   時間は、あるのが当たり前。
   自分は、健康であるのが当たり前。
   臓器は、使い放題使えるのが当たり前。
   水は、飲みたいときに飲めるのが当たり前。

日々の生活において、一事が万事、このような考え方で過ごしていると、

   「人間として本当に大切にするべきこと」
   「私たち人間は一体何者なのか」
   「この世に生まれてきたのは一体何のためなのか」
   「”一個の存在者”として価値ある生き方とはどんな生き方なのか」

などについて、極めて盲目となってしまいます。

私自身、日々、しみじみと思うことがあります。それは、「大切なことの前で盲目にならないこと」。そうならないためにも、やはり、
日々、”思索する存在者”でありたいものです。

2009年9月14日







銀座書斎において、無料で教養講座を開催する意味

先日の2009年8月29日(土)、当事務所・銀座書斎にて、一般社会人向けに教養講座を開催しました。タイトルは、「理性」と「感性」
の間に見えるもの・・・西洋文明社会において学問と芸術が追求し続けてきた"エッセンス"について考えるというものです。

この教養講座は、生井利幸事務所が行う社会貢献活動の一環として行われるものです。受講費は一切無料なのですが、これには明確
な理由があります。

現代社会においては、様々な団体・専門家が、広い会場を借りて、一般向けセミナーを開催しています。セミナーを開催するにあたり、
主催者は誇大広告を出し、まずは”客集め”を行います。無論、伝えたいことがあるからこそセミナーを開催するのでしょうが、ほとんどす
べてが”セミナー・ビジネス”として行われているものです。そうです。セミナーは、事前に上手に宣伝して大勢の参加者を集めればいい
お金になるのです。

言うまでもありませんが、当事務所・銀座書斎で開催する教養講座は、一般世間で行われているような営利追求を目的とするセミナー
ではありません。銀座書斎で開催する教養講座で講義を行う講師は、言うまでもなく、わたくし生井利幸。公平無私な学問の精神を
基盤として、私利私欲を全く排除し、「本当に大切なこと」「本当に伝えるべきこと」を伝えることを”唯一の目的”とする教養講座です。

「真実を伝える」「本質を伝える」というその行為は、口で言うほどに簡単ではありません。真実や本質を伝えるには、伝えるその本人に
おいても、それなりの辛苦・心の痛みが伴います。

教養講座として私自身が行っている活動は、東京・銀座3丁目の一角で行う小さな活動です。しかし、この小さな活動は、少しずつ続け
ていくことにより、やがては、<何らかの具体的な形>としてその様相を変えていくと私は考えています。今、教養講座で講義を行う私
自身が最も望むことは、「教養講座を受講した方々が大切な<気づき><知恵>に出会い、お住まいのコミュニティーや一般社会、ある
いは、職場において、その<気づき><知恵>を何らかの形で役に立てていただきたい」ということです。

「知」(philosophy)は、パワフルな代物です。知に触れることは、勇気のいることであり、また、触れるその過程においても、様々な困難に
遭遇します。しかし、私は、それでも、人間は、知に触れるべきだと考えます。人間は、自らを”理性的存在者”であると捉える以上、
人間は、安易な道を自ら回避し、積極的に、「困難な学びの道」を歩むべきだと考えます。ドイツの観念論哲学者、イマニュエル・カント
(Immanuel Kant, 1724-1804)が唱えた如く、そうでなければ、人間が、自己自身を、”理性的存在者”と呼ぶことに、何ら妥当性を見い
出すことができなくなります。

人間の人生には限りがあり、そして、たった一度の人生であるからこそ、教養講座にご参加いただく皆様方には、常に、価値ある生き方
を模索していただきたいと願っています。私は、今後も、そのために、時間を捻出し、一切無料で講義を行っていく決意をしております。

この不景気のご時勢に、東京のど真ん中で、このような活動を行う作家事務所はどこにもありません。そうであっても、私は、「愛情」と
「厳粛な想い」を心の中に秘め、これからも頑固に続けていきます。




こちらをクリックすると、教養講座当日の様子をご覧いただけます。
2009年9月1日







ニーチェから学ぶ、「痛み」の価値

ニヒリズムを提唱した19世紀後半のドイツの哲学者、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)は、「人間は、まず第一に
自らの本質を問い直し、厳しい現実を直視し、その上で自分自身の力で逞しく生きなければならない」と唱えました。

ニーチェは、自らの命を削って、<19世紀後半期の”思索しない西洋文明社会”>に対して警告の鐘を鳴らした最も偉大な哲学者の
一人です。ニーチェは、当時、”活字文化の力”で、既存の宗教観・価値観・思想に支配されていた人間社会に対して”警告”を鳴らし、
「今こそ目を覚ませ。今こそ、自分の力で思索し、自分の足で歩け!」と、一人ひとりの人間に対して”人間存在における極めて重要な
メッセージ”を投げ掛けたのです。

「警告を鳴らすには痛みが伴う」、逆に言えば、「痛みを通過することなく警告は鳴らせない」というこの様相は、西洋でも東洋でも同じで
あるといえます。このことは、哲学の分野に限らず、文学、美術、音楽など、”何らかの本質”について表現する分野において該当する考
え方です。即ち、創作においては、「ものを感じ、考え、それと並行して、それなりの苦悩・試行錯誤を通過して初めて、その<抽象の
個>が<具体の個>として、”一つの形”として具現化されるのです。

ものを生み出すには、それなりの痛みが伴います。逆に言えば、痛みを味わうことなくして、ものは生み出せません。

私は一般書店に行くと、吐き気をもよおすことがあります。私自身、書店に行くと、常に目に映ってしまうことと言えば、「これをやれば
簡単に成功できる」「簡単に・・ができる」といった”ある種のeasy wayを述べる本”が目立つ場所に置かれ、物事の本質をしっかりと唱え
ている本が目立たない棚の奥に置かれているという様相です。書店において、しばしば、このような様相を見るとき、私は、何とも言葉で
は言い難い、”実に悲しい気持ち”になります。

「痛みは、お金を払ってでも経験するといい」、私自身、これまで世界中の人々と接してきた経験から、”このことはまさに真実である”
ということを感じます。

2009年8月4日







土をいじることによって触れることができる”真の意味でのcultivation”

英語の動詞に、cultivateという言葉がありますが、これは、古くはラテン語に由来する言葉です。本来、cultivateは、「畑を耕す、栽培す
る」という意味で使われる場合が多い言葉ですが、一方では、「啓発する、磨く、高める、(人格、品性を)陶冶する」という意味で使われ
ることもあります。

英語の諺に、"Reading cultivates mind."という言葉がありますが、これは、「読書は精神を高める」という意味を成します。現代の文明
社会に生きる理性的存在者は、常に、本を愛し、本を読むことによって自己を高めようと努めています。本は、人間に知識・情報を与え、
理性的存在者は、その、”与えられた知識・情報”を参考材料として深遠なる思索をすることにより、自分なりの知恵を生み出すことがで
きます。

私は今、人類史における数々の節目をつくってきた偉人たちに、心からの敬意を表します。心からの敬意を表する唯一の理由は、
決して、私自身を深遠なる思索の道へと案内していただき、いわゆる、”活字文化創造の小さな担い手”になるべく導いてくれたからで
はありません。

私は今、既存の固定観念から一切離れて、”真の意味でのcultivation”について哲学しています。哲学して気づいたことは、

   「人間は皆、<”不完全な”理性的存在者>としてcultivateしている間においては、先の時代の偉人たちが著した本(活字で表現 
   した”知”)に触れて自分なりの知恵を見い出そうとする。だが、ある段階を超え、ある境地に到達すると、人間は、偉人たちが著し
   た本からではなく、土をいじることによって自らの”究極的なcultivation”を見い出すことになる」

ということです。

無論、知恵の源泉をどこに見い出すかは、個人によって様々です。ただ、今、私がここで述べたいことは、私個人の見解としては、
「知恵の源泉は土いじりに内在する」ということです。

今現在は、私自身、まだまだ未熟で、未発展な<”不完全な”理性的存在者>でしかありません。しかし、いつの日か、今現在の自分
自身にはわからない極めて未確定な将来において、活字を読まず、そして、活字を書かずに、土をいじりながら一瞬一瞬を過ごす日を
迎えるでしょう。その日こそ、私は初めて、「真の意味での”土の匂い”」について認識することができるのだと想像します。そして、
その、「真の意味での”土の匂い”」について認識することができた暁にこそ、私は初めて、”真の意味でのcultivaton”について触れるこ
とができるのだと考えます。

本日、日本時間の2009年7月19日(土)の午前、国際宇宙ステーション(ISS)に長期滞在中の若田光一さんが、計画以来、四半世
紀が経過した日本実験棟「きぼう」の最後の構成部分「船外実験施設」の設置作業を完了しました。歴史を遡り、日本人として初めて
宇宙に行ったのは、当時、TBS勤務のジャーナリスト、秋山豊寛さんです。

秋山さんは、1990年12月にジャーナリストとして宇宙に行きましたが、帰還後は、TBSを退社し、福島県で農業を始めました。秋山さ
んは、宇宙での滞在を通して、ある”極めて重要なこと”に気づき、その後のご自身の生き方・方向性について大転換したのでした。
「東京の雑踏を離れて、新鮮な空気の下で、自分の足で土を踏み、自分の手で土をいじり、人間が生きていく上で最も大切な農作物を
つくる」という秋山さんのこの決断は、「人間存在の意味と価値」を示唆してくれる”極めて偉大な決断”であったと私は捉えています。

人間は本来、「自然」から出発し、後に、「文明」「文化」に身を寄せますが、理性を介して究極の境地を知ると、また再び、「自然」(土)
に”生きる尊厳性”を見い出す存在者なのではないでしょうか。普通の場合、若いうちに”人間存在の究極”を知ることは難しいと思いま
すが、人間はしばしば、自らの人生の終焉を迎えるその一瞬において、「自分の本当の姿」(”地球に存する些細な存在者”としての
本来の姿)を感じ取るのだと思います。

職業や財産にかかわりなく、人間の一生というものは、本来、「夢の中の”些細な一瞬”」なのだと私は感じます。

2009年7月19日







人間は、数多くの困難・矛盾と闘って初めて、新しい概念・創造物をつくることができる

哲学的に”人間存在の意義”について述べるならば、人間は皆、一個の「人格」を備え、同時に、一個の人格についての認識から、自ら
の理性で”一個人”としての価値を見出すことができるわけです。しかし、その一方、思索しない存在者の常として、「現実をしっかりと
見据えることなく夢の世界に生きる」という、ある意味で、極めて悲惨な道を歩んでしまう人もいます。

「夢の世界に生きる」とは、本来の自分の能力・技術を把握・認識することなく、「”本当は自分はこうなんだ”と、一方的、あるいは、勝手
な思い込みをしながら生きる」という行為について指すものです。現実を見据えることなく勝手な思い込みをする、このような”ステレオ
タイプ”は、通常、非理性的な、<自己陶酔型の人間>にみられる現象といえます。

既に存在する概念や創造物に準じて生きる場合、彼(彼女)はある意味で、そうした存在物の面前において、謙虚に、そして、厳粛に
生きることが肝要だと考えます。この場合、彼(彼女)に求められることは、「自分は何者でもない。したがって、既存の存在物の前では
謙虚でなければならない。謙虚であることが、何者でもない自分が前に進むための最低限の条件である」という、”地に足の着いた考え
方”でしょう。

一方、既存の概念や創造物に依存することなく、新しい概念や創造物を生み出そうとする場合、彼(彼女)は、一体どのようなスタンスを
堅持することが求められるのでしょうか。

「新しいものをつくる」、それを行うには、普通の人間の常識を遥かに超えたエネルギーが必要となるばかりでなく、自らの命をも削ること
になります。このように考えるならば、新しいものをつくるには、普通の人間以上の夢を抱き、普通の人間以上の勝手な思い込みをする
必要性があると思ってしまうものです。ところが実際、新しいものをつくる人間に求められる前提条件は、「普通の人間以上の謙虚さその
もの」です。

基本的に、新しいものは、目の前の現実をしっかりと把握せずして易々とつくれるものではありません。今までに無い新しい概念・
創造物を生み出すためには、まず第一に、「極めて謙虚な姿勢で、目の前の現実と向き合い、幾多の困難や矛盾と闘う」というそれなり
の経験が必要となります。

新しいものをつくるそのプロセスにおいて、彼(彼女)は、幾多の困難や矛盾と格闘し、相当な期間においてその格闘の道を歩むことなし
に新しい境地に辿り着くことはできないでしょう。思うに、人類の発展に貢献した偉人たちは、普通の人間と比べて、このあたりの発想法
が根本的に違うのだと感じます。

2009年7月14日






些細な一瞬としての人間の「生」は、”極めて偉大な一瞬”でもある

人間は、今現在、健康で幸せな毎日を送っているとしても、いずれは死に至りま
す。思うに、人間は、この世に別れを告げるとき、自身の心の中で「いい人生だっ
た!」と思えるところにこそ、長い間、自分なりに頑張ってきた意味合いを見出せ
るのでしょう。

私は毎日、自分の「死」を意識しながら生きています。と言いましても、私自身、
特に、重い病気にかかっているというわけではありません。

死を意識する理由は、実は、たった一つです。それは、死を意識して毎日を送る
と、現在の自身の「生」について、”より強く”、そして、”よりしっかりと”意識するこ
とができるからです。

長く生きた人が自らの人生の終焉を迎えるときの言葉として、私はしばしば、この
ような話を耳にします。それは、ベッドに横たわっている、”まさに今、この世に別
れを告げようとしている直前の一瞬”において、その本人が静かな声で、「人の
一生なんてものは、夢の中のほんの一瞬のようなもの」と呟くということ。

例えば、80年生きた人生であっても、広大な宇宙の時間と比較するならば、それ
は本当に些細な一瞬。人間一人が過ごす80年は、常に何かが生まれ、消滅し、
変化し続けているこの世においては、実に些細な一瞬でしかないわけです。しか
し、この些細な一瞬は、同時に、”極めて偉大な一瞬”でもあります。

フランスの哲学者、ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)は、著書 『パ
ンセ』(Pensees)において以下のような言葉を述べています。
「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が
武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのに十分である。しかし、宇宙がかれをおしつぶしても、
人間はかれを殺すものよりもいっそう高貴であろう。なぜなら、かれは自分の死ぬことと、宇宙がかれを超えていることとを知っている
が、宇宙はそれらのことを何も知らないからである。そうだとすれば、われわれのあらゆる尊厳は、思考のうちにある。われわれが立ち
上がらなければならないのは、そこからであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えるよう
につとめよう。これこそ道徳の本源である。」(1)

西洋文明社会においては、「考えることの重要性」を説いたパスカルの哲学は”理性的存在者”であり続けたいとする人間にとって最も
基本的な考え方の一つとして捉えられています。人間は広大な宇宙と比較すると、本当に些細な存在。しかし、それは、「理性」を介し
て思考することのできる”日々考える存在者”。「個」としての人間の存在は、天文学的には、取るに足りない極めて些細な存在です
が、それは、間違いなく、”自ら思考する存在者”。人間は、日々、理性的存在者として思考するところに「自らの尊厳」を見出すことが
できるのです。

銀座書斎の今朝は、この、「思考の重要性」について考える”清々しい知の空気”が漂っていました。

注)
(1) パスカル著、由木康(訳)『パンセ』、第6編「思考の尊厳」347、白水社、142頁参照。
2009年6月29日







「生きる」ということ

数日前、親戚で不幸があり、昨日、葬儀に参列しました。葬儀に参列し、様々な場面で心の奥底でたくさんのことを感じる一方、
私は、改めて、人間の「生」と「死」について深く思索しました。

私たち人間は、健康で生きているときには、「生きている」というその事実について、ほとんど特別な感情を抱かずに毎日を過ごしてし
まっています。深い意味で言うならば、いかなる人間においても、「今現在、空気を吸って生きていられる」という事実は極めて幸いな
事実なのですが、人間は毎日、何不自由なく過ごしていると、この幸いな事実について感謝しなくなります。

人間は皆、病気になって初めて”健康のありがたさ”について身に染みて感じるようになり、さらには、何かのきっかけで自身の死を
意識し始めると、自身の「生の価値」について考えるようになるものです。

今、私のある友人の母は極めて重い病気にかかっています。そして、その友人は、自分の母の病気をきっかけとして、「人間の死」に
ついて深く考えるようになりました。

ある日、その友人が私にこう言いました。

   「母が健康であった頃には人の死なんてほとんど考えることはなかったけど、自分の親が重い病気になって初めて、人間の命は
   決して永遠ではないということをしみじみと実感した」と。

無論、「人間は永遠には生きられない」「人間は皆、いずれは死を迎える」ということは、幼い子供でも知っていることです。「人間の命
は永遠ではない」ということは誰でも知っている「人間の”生の有様”」ですが、この有様について、知識でなく”確かな実感”として
認識するには、やはりそれなりの経験が必要なのでしょう。

人間は皆、自分の人生を生きるその過程において、様々な経験を積んでいきます。「場数を踏み、そして、少しずつ、大切な気づきを
得ていく」、人間は皆、現在の年齢にかかわらず、常に、この繰り返しによって、少しずつ前に進んでいくのだと思います。

2009年6月22日







デルポイのアポロン神殿で響き続けている箴言、「汝自身を知れ」

時は古代ギリシア。今日は、2009年の現代文明社会に生きる私たちにとっては遥か遠い”太古の時代”(人々の記憶の及ばない
時代、from time immemorial)において唱えられた箴言、「汝自身を知れ」という言葉について考えてみます。

この箴言は、紀元前7−6世紀において、古代ギリシア七賢人として名高いスパルタのキロン、ミレトスのタレスなどによってデルポイ
のアポロン神殿に奉納された箴言であり、古代から現代に至るまで、西洋文明社会の人々に対して「真摯な姿勢を持って自分自身を
振り返ることの大切さ」を教えてきた言葉です。

「汝自身」とは言うまでもなく”自分自身”のこと。この言葉を読んで、「自分のことを知れとは一体どういうことか」と感じる読者の方も
いることでしょう。

思うに、概して、私たち人間は、意外にも、「”自分の真の姿”を知らない(または、それについて気づかない)」で毎日を過ごしてしまっ
ているものです。ご承知のように、この世の中には、情報が溢れています。1)「人間は常に、情報に振り回されて生きている」、
2)「度を越えてあり過ぎる情報が、人間の思考の機会を希薄にさせている」という捉え方は、既に、先日の日記(2009年6月1日
付)でも述べました。

率直に述べるならば、このことは、私自身においても決して例外ではありません。私も、しばしば、自分の姿、即ち、「自分がおかれた
状況」「自分の立ち位置」について客観視することができず盲目になることがあります。即ち、本来、人間には「目」が賦与されていま
すが、目があるという事実は即、「何でも見える」という”事の有様”を指しているわけではありません。実際、私たちが自分の目で見
ている事物は、”単に目に映る物質的存在物”であり、その物質的存在における”物”の意味、そして、その背景にある様々な要因に
ついて十分に把握しているわけではありません。

また、このことは、賦与された「耳」についても同じことがいえます。人間は、自身の耳で、多種多様な音、例えば、人の声、文明の
利器から発せられる人工的な音(雑音)、あるいは、自然界における様々な音などを認識することができます。しかし、音の認識にお
いて、大抵の場合、”音そのもの”ばかりに気をとられ、「音の背景に一体何があるのか」という”本質的側面”に注意を向けることは
ほとんどありません。

読者の皆さん、今、再び、初心にかえり、さらに広い見地から「自分自身」について振り返ってみてはいかがでしょうか。静寂の中、
ゆっくりと自分を振り返ることにより、きっと、「自分が本当に進むべき道」について気づくことができるものと想像します。

2009年6月14日







ラ・トゥール作、≪大工ヨセフ≫から感じる「人間のミッション」

「人間は、一体何のために生きるのか」、この問題は、哲学者や文学者、あるいは
芸術家にとって最大の関心事の一つです。

私は幼少の頃から、人間の生き方について様々な疑問を感じて毎日を過ごしてお
りました。私は子供ながらに、「人生、いかに生きるべきか」という人間存在として
の根本問題について考え、そして、試行錯誤を繰り返してきました。

「人生、いかに生きるべきか」という問題は、言うなれば、「人間はどのように生き
るべきか」という問題です。私は長い間、「人間の生き方」そのものについて考え
てきましたが、ある時期から、「人間は一体何のために生きるのか」という問題
関心に自分が傾向していったことを、今、鮮明に思い出します。

先日、国立西洋美術館で開催されている「ルーブル美術館展・・・17世紀ヨーロッ
パ絵画」に行ってきました。今回、様々な絵画を鑑賞しましたが、私にとって最も
大きかった心の旅は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour, 1593-
1653)が描いた絵画、≪大工ヨセフ≫でした。

洗練された明暗法を駆使し、清らか極まりない静寂の雰囲気の中、ヨセフが大工
仕事をしている姿が描かれています。ヨセフの面前では、幼少のキリストが蝋燭を
持ってヨセフを見守っています。

私自身がこの絵画から感じることは、ヨセフの目線が表現する”聖なるミッション”
の描写です。言うまでもないことですが、人間は、単に、パンのみに生きるのでは
ありません。すべての人間は、何らかのミッションを持ち、そのミッションを行うべ
く、”生きる糧”としてのパンを食べるわけです。人間は、そうした自己の生き方に
おいて自らの「尊厳」を見い出し、”ミッション遂行者としての生きる喜び”を感じる
のです。

今回は、読者の皆さんに一つご提案したいと思います。

皆さん、迎える一日一日を”自分なりのミッション”を持って生きてみませんか。
パンのために生きる(仕事をする)のではなく、「”自分なりのミッション”を遂行する
ために自分の人生を生きる」という考え方を持つことにより、きっと、より充実した
毎日を送ることができるに違いありません。








2009年6月8日・・/////・・・・







私にとっての銀座書斎の位置づけ

銀座書斎は、本来、作家・生井利幸が思索と執筆を行うための場所です。私は、もともとは大学で研究・教育に携わっておりました
が、ある時期において、学問のみに身を投じることに疑問を抱くようになりました。そこで、私は、学問に加え、その他の分野、即ち、
文化(比較文化)・芸術などを視野に入れ、”極めて総合的に”、自分なりのメッセージを一般社会に発進していきたいと思うようにな
りました。いわばこの時期が、”研究者から作家への転進のプロセス”となった時期であるということができるでしょう。

現在、銀座書斎は、”生井利幸事務所が希求する「知」の発進ステーション”として、実に様々な活動において使用されています。
銀座書斎は、「知」に触れたいと切望する一般の方々、即ち、公平無私なスタンスで学問・文化・芸術に触れたいという方々に対し
て、常に歓迎の心でお迎えしております。

残念なことですが、現在の日本の文明社会は、決して健全な社会であると捉えることはできません。これまでの歴史を振り返るなら
ば、今、日本は確かに便利な時代を迎えております。特に、近年におけるインターネットの普及により、人々は、実に容易に情報を
手にすることができるようになり、日々の生活において「わからないこと」「疑問が生じたこと」があると、即座に、インターネットの
検索ページを使って調べます。

その反面、人々は、自分の力では考えないようになりました。情報が簡単に手に入るようになった一方、人々は、自分の行動さえ
も、「情報が示す”情報”」に過度に依存し、知らず知らずのうちに情報に振り回されております。

ここで大切なことを一つ述べます。情報は、あくまで情報。世の中がどんなに便利になっても、その利便性に自分の「個」が飲み込
まれないように心掛けましょう。

今、最も必要なことは、「個人として自分は一体どうあるべきか」「個人として自分の方向性を定めるには一体どうしたらいいのだろう
か」、そのような問題について、しっかりと自分なりに考えるということです。

「一個の個人として、独自の存在者として自分をつくる」、このことをダイレクトに実行するには非常に勇気のいることです。しかし、
泣いても笑っても、人生は一度きり。どんなに健康で生きていても、人間は皆、病気になり、最終的には自らの人生の終焉を迎えま
す。

「たった一度だけの人生を精一杯生きたい」「人生における限られた時間をより有意義に使いたい」、銀座書斎は、そうした方々を
対象として、様々な学びの場をご提供していきます。

現在、準備中の企画の一つは、教養講座の開催です。教養講座は、一つのテーマにつき一回で完結する公開講座です。教養講座
へのご参加はすべて無料。すべての教養講座は、生井利幸事務所の”社会貢献活動の一環”として行われます。

近日中に、教養講座についての告知を致します。ご興味のある方々のご参加をお待ちしております。

以下にて、わたくしの哲学詩、「悲惨極まりない”文明の墓場”」をご紹介します。


悲惨極まりない”文明の墓場”

わたしは今、自然の暗闇の中で蝋燭を灯し、静寂の夜を過ごす
一歩外に出ると、人工的なネオンと雑音で蔓延する”文明の墓場”がそこにある

文明社会は、一見すると、極めて理知的な空間の中において、
理性と理性が相互に交錯しているかのようにも見える

だが、わたしは、この現代社会においては、
文明それ自体が、”尊厳性ある理性的思考”を遠ざける源流と化してしまっているように思えてならない

今、わたしは改めて思う
この文明社会は、人間の”純粋理性”に容赦なく”毒”を塗っている、と

来る日も来る日も、文明の利器に溺れる人間の様相をこの目で見るわたしは今、
一人でも多くの人間が、この”毒された文明”から適度な距離を保ち、
純粋理性を介して、”より尊厳性のある思索”を試みることを願ってやまない

2009年6月1日







”試練”と闘ってきたこの2年間

ご承知のように、私は現在、東京・銀座を拠点として様々な活動を行っております。私は、アメリカに居を構えていた頃より、実に
様々なテーマで本を執筆してきました。その類は、哲学、人間の生き方、アメリカ論、比較文化論、思考法・発想法、コミュニケー
ション、交渉術・社交術、ビジネス、仕事術、家族愛など、実に様々です。これまでに出版した単行本は15冊。その中の数冊は、
海外でも翻訳され、各国の出版社によって単行本化されています。

数年前、私は長い海外生活にピリオドを打ち、日本に帰国しました。帰国した当初も、継続的に数冊ほどの本を出版しましたが、
2年前の2007年において、これまでの人生において経験したことのない”厳しい試練”が私を襲ってきました。

その試練とは、ある日、突然、まったく文章が書けない状態に陥ってしまったのです。当時、数本ほどの企画が進行していました。
そのため、私は毎日、原稿に向かっておりました。しかし、毎日スラスラと書いていた日々を送っていたある日、途轍もない倦怠感・
だるさ・吐き気などに襲われ、その上、涙が止まらなくなってしまったのです。

そうした中、私は、「自分の弱さに負けてはならない」と自分の心に言い聞かせ、来る日も来る日も原稿に向かいました。しかし、
いっこうに筆が進みませんでした。というよりも、何をどのように試みても、”書くための発想”がまったくわかなかったのです。言うま
でもなく、この、「発想がわかない」という事実は、作家にとっては、”極めて致命的な事実”です。

この当時、ほぼ同時期に、背中にも異変が起きました。

一体どういうことでしょう。私の背中が、硬い鉄板と同じくらい、カチカチに硬くなってしまったのです。

今、思い出します。背中が”鉄板状態”になった最初の数ヶ月は、来る日も来る日も上半身に激痛が走り、「歩くのがやっと」という
過酷な状態が続きました。背中の鉄板状態は、実に2年間続きました。現在は背中の状態も落ち着き、多少の痛みはあるものの、
普通の生活をする上では何ら支障の無い状態となりました。

私にとって、背中の痛みは、言うなれば「今後の人生において自分が一体何を書いていくべきか」という問題について考える絶好の
機会となったものです。

率直に言うならば、背中の痛みは、いわゆる”自己矛盾との葛藤”から生じたもの。私は、この、”巨大な矛盾感”に押し潰されそう
になり、心の奥底で連続的に生じた自己矛盾との葛藤のすべてが、直接的に、自身の背中に伸し掛かってきてしまったのです。
事実、当時の私の背中は、単に硬いだけでなく、まるで大きな石を自らの背中に乗せているかのような、極めて重く、苦しい状態で
ありました。

この2年間において何が一番辛かったかというと、この、”心の奥底における自己矛盾との葛藤”について誰にも言えなかったという
ことでした。実際、言うも言わないも、この事実は、外部の人には口が裂けても言えない事実です。ものを書くことを仕事とする人間
が、外部に対して「書けない」という事実を洩らすことは、いわば”仕事ができない”という意味そのもの。それは、”極めて致命的な
事実”であったのです。

2009年も中盤を迎えた今、私の心の中は実に晴れ晴れしております。

暗闇の中での長い試行錯誤を経験し、現在は、作家としてのこれからの方向性も見えてきました。暗闇の中でもがき苦しんでいた
この2年間において、少し大袈裟ですが、”ある種の地獄”も経験しました。

今、私には、皆さんに対して、私自身における表現の道具である「活字」を通して、”発信するべきもの”がたくさん見えてきていま
す。私は今、日々、静寂の中で、極めて理性的に思索に思索を重ね、”ものを書く存在者”として新しい門出を迎えようとしておりま
す。

これからも、生井利幸は、日々、東洋文明社会と西洋文明社会双方の文化・芸術・学問等が”交差”、あるいは、”交錯”するこの
日本において、極めて厳粛、且つ、厳格なる創作精神を基盤として、「日本の活字文化のさらなる発展」を視野に入れ、真心を込め
て、そして、丁寧に、様々な”文化的メッセージ”を発信していく所存でございます。

今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

2009年5月29日





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