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読み物カテゴリ: ‘哲学への招待’

You cannot find a “reasonable way” to pursue the essence and the truth without experiencing the difficulty.

2020-04-18

英語音声講義

⇒ You cannot find a “reasonable way” to pursue the essence and the truth without experiencing the difficulty.(英語音声講義)

The significance of fallibilism for the sake of the pursuit of a minute intellectual development scientifically

2020-04-11

Do human beings really comprehend that no human is infallible here on earth? Quintessentially speaking, it is surely true that nobody possesses impeccability in this human society.

It is said, “To err is human.” Furthermore, you are intellectually guided to think of the following matter, “To err is human, to forgive is divine.”

Everlasting peace in this human society shall be gradually realized through experiencing so many concrete cases continuously. The aforementioned idea introduced, “To err is human, to forgive divine” applied to both all individuals and all countries in the world is absolutely influential in pursuing peace perpetually on earth.

What human beings inevitably need to experience is having various substantial experiences which are concrete and inconcrete based upon fallibilism in their 24 hours every day though making thier history here on earth given supernaturally.

The dynamism of incommensurability

2020-04-02

The meaning and significance of a “state of incommensurability” shall be cerebrally pointed out by a cerebral being who supernaturally grasps the meaning of possession of “reason” given.

Because reason a human being possesses is by nature given for purpose of experiencing the matter, “the matter of incommensurability.”

In general, a reasonable being absolutely values commensurability to be just “reasonable” in the theories and cases facing. Conversely, a rational being cerebrally finds something new others have not found yet.

Rational beings are disciplined to experience the dynamism of incommensurability as their privilege given.

The two different ways of the interpretation regarding the existence of science

2019-09-07

英語音声講義

⇒ The two different ways of the interpretation regarding the existence of science(英語音声講義)

A rational existent naturally possesses the sapience to know his incapaciousness.

2019-08-05

Philosophically speaking, this theme is one of the very crucial and essential matters all of human beings should reasonably recogonize. Do we human beings recognize enough how we are incapacious in front of the absolute truth?

The important matter I’d like you to deliberately recognize and consider is that we by nature possess the sapience to know our incapaciousness. Are human beings “just animals” or “rational existents” here on this planet? You would be absolutely sure that you possess the sapience to know your incapaciousness on the condition that you meaningfully breathe the rational air as rational existents here on this planet.

It is truly up to you to recognize or not you possess such sapience or not. Now, I’d like you to deeply philosophize why the reason was given to you all.

英語音声講義

⇒ A rational existent naturally possesses the sapience to know his incapaciousness.(英語音声講義)

仏教学者・思想家、鈴木大拙先生との対話・・・鎌倉・東慶寺にて

2019-02-06

2019年2月3日(日)、わたくしは、鎌倉・東慶寺を訪れ、仏教学者・思想家、鈴木大拙先生(1870-1966)の墓前において、先生にご挨拶をしてきました(同日、東慶寺内にある哲学者・西田幾多郎先生のお墓も訪れました)。

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松ヶ岡文庫・入口

松ヶ岡文庫・入口

◆鈴木大拙先生のことば

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注)
『日本的霊性』/『鈴木大拙全集[増補新盤]』第8巻112頁から引用。鈴木大拙館作成・配布(石川県金沢市)。

仏教の祖、ガウタマ・シッダーサ (生井利幸による、仏教・英語音声講義)

わたくしには、寺を訪れると、自己の精神性の中で、仏教の祖、ガウタマ・シッダーサと対話をする習慣があります。

⇒ The enlightenment experienced by Gautama Siddhārtha(仏教・英語音声講義)

鎌倉・東慶寺にて、京都学派の祖、哲学者・西田幾多郎先生とお話をしてきました。

2019-02-03

2019年2月3日(日)、時間を捻出し、鎌倉の東慶寺を訪れ、京都学派の祖、哲学者・西田幾多郎先生の墓前にて祈りを捧げてきました。

鎌倉・東慶寺 西田幾多郎先生の墓前にて

西田幾多郎先生(1870-1945)は、日本における代表的哲学者であり、所謂、京都学派の創設者です。西田先生は、仏教・禅宗の境地、生の哲学、ドイツ観念論の論理を思弁的に統合した哲学者として活躍しました。

石川県で生まれた西田先生は、金沢の第四高等学校に入学。後に東京大学哲学科で学び、禅寺に参禅するために鎌倉に通い続ける日々を送ります。やがて、金沢の中学教師、第四高等学校教授になりました。

一方、座禅に専心するかたわら、深遠なる思索に没頭。1910年(明治43年)、京都大学に迎えられ同大学の教壇に立つ一方、田辺元、高坂正顕、西谷啓治、三木清などの哲学者・思想家を集めて「京都学派」を創設しました。主な著書としては、『善の研究』、『一般者の自覚的体系』、『無の自覚的体系』、『哲学論文集』などがあります。

本日は、西田先生の墓前にて、西田先生とお話をしてきました。そのお話の中の一つは、わたくしが創設した学問所である銀座書斎に於ける活動でした。

銀座書斎では、長きにわたるこれまでの啓蒙活動が実り、今、円熟期を迎えています。わたくしの弟子たちも、日々、自分を律し、全力で「世界レヴェルの英知・美意識の探究の道」を歩んでいます。

水と油

2018-10-14

2つの存在者があり、それぞれ互いに交じり合わない様相として、それを「水と油」と呼ぶことがあります。油は、可燃性の液体を指しますが、水との共通点もあります。それは、「油も水も、共に液体である」という事実です。

液体は、その類を問わず、上から下に流れます。例えば、川の水は、上流から下流へと流れます。そこに、油が入ると一体どうなるでしょうか。水と油が同化することはありませんが、共に、上流から下流へと流れていきます。

2018年10月に入り、2019年を迎えようとしている今、日本社会がこのままでいいと考える人の数は、かなり少数でしょう。では、何か、日本の未来を考える上で、何らかの得策・ヒントはあるでしょうか。

この世の中は、言うなれば、異なる価値観が交錯する世の中。それはそれとして、受け入れなければならない真実です。では、いかにしてこの世の中を良くしていくことができるのでしょうか。

この問題について考えるとき、川の流れ、即ち、「どのような成分を持つ液体でも、液体が液体である以上、上流から下流に流れる」という周知の事実に、この問題について考えるためのヒントがあると、わたくしは捉えます。

「勉強する目的」について考える

2018-09-23

すべての動物には、「本能」があります。動物は、食べるため、そして、生き残るために食べます。

同じように、人間にも、「本能」があります。人間も、他の動物と同じように、毎日、食べていかなければ、生きていくことはできません。しかし、人間には、本能だけでなく、「知能」もあります。知能は、「何らかの知的行為」を行う上で使う能力です。したがって、毎日、人間が生きるということは、毎日、知能を使うということでもあります。人間が知能を使う、それは、「人間は、知能を使い、より知的になる宿命を持っている」という意味を成します。

わたくしは、講演・講義等で、「人間が生きるということは、毎日、勉強することである」という趣旨のことを講じています。しかし、毎日、勉強するといっても、勉強のための勉強では、何ら、意味を成すことはありません。「人間は、一体何のために勉強するのか」、・・・これは、勉強における根本的問題です。

勉強は、勉強のためにするのではなく、「人間の幸福・発展」のためにするものです。もう少し具体的に言えば、「勉強は、人間愛、そして、人類愛を探究し、それを実現する」ためにあります。

人間は、このような「勉強における基本的方向性」を持ち続けるならば、常に、正しい方向に向けた勉強をすることができるに違いありません。

「生まれた」(be born)という“受身”の生の意味

2018-03-19

すべての人間は、この地球に生まれ、特定の国で教育を受け、やがて労働に従事する。「働く」という行為は、それ自体がどのような労働であっても、それを“真摯なる精神”で行うことにより、そこに「ある種の“尊厳性”(dignity)」が生まれ、人間は、徐々に、その尊厳性の中に「自身の働き甲斐・生き甲斐」を見い出すようになる。

世界のどのような人間においても、労働に労働に重ね、やがて“働き盛りの絶頂期”を経験し、その後、「自分の可能性における“限界”(limit)」について、確かな実感としてしみじみと感じ取るその日が到来する。

人間は、その限界を、地球に存する一個の存在者として、「この地球に生まれた」(was born here on the earth)という如き「『受身』としての存在者」として、「自分の存在の価値についての“意味づけ”」に関心を抱くようになる。そして、人間によっては、毎日試みる深い思索を介して、「真の意味において『自己を実現する』ということは一体いかなることを指すのか」という問題について自分なりの答えを導き出していく。

この答えを導き出した人間は、自分自身における人生の終焉を迎えるその日まで、「自分の存在の価値についての“意味づけ”」の具現(実現)に的を絞り、出し得るエネルギーのすべてを、「その“意味づけ”」の具現に向けて、世界で唯一無二と明言できる自己実現法を樹立するための厳格道を歩むようになる。

世界で唯一無二の自己実現法をしっかりと樹立するには、まず第一に、既に用意・準備されている「暖衣飽食の生活環境」を自らの意思で放棄することが必要不可欠である。“勇気を持って勇敢に”、自ら、自分自身を困難な環境に身をおき、日々、困難・苦悩と闘う日々を送ることが求められる。

人間は、日々、困難・苦労と真正面から向かい、“勇気を持って勇敢に”闘う日々を経験して初めて、「人間には一体どうして『理性』が賦与されているのか」という如き、人間存在の根本の根本としての究極的問題について「腹」で哲学することができるようになるのだ。

人間は、「人間には一体どうして『理性』が与えられているか」という如き究極的問題を「腹」で哲学する日々を続けると、人間は、やがて、”air saturated with reason”(理性で構築された空気感)の生み出し方、維持の方法、そして、その空気感を存分に満喫する方法について悟るようになる。

英語音声講義

⇒ 「生まれた」(be born)という”受身”の生の意味(英語音声講義)

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