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読み物カテゴリ: ‘哲学詩’

哲学詩(最新作)

2023-11-26

衰退か、それとも、発展か

人は皆、
例外なく、年を取る

年を取るとは、
老いるという意味ではない

年を取るとは、
発展するという意味である

衰えるか否かという問題は、
自己管理の問題

発展するか否かという問題も、
間違いなく、自己管理の問題

人は、如何なる自己管理をするかで、
迎える日々において、
”衰退”、あるいは、”発展”のいずれかの道を歩む

本来、
人が生きるとは、
発展するということだ

人が経験するこの発展は、
死を迎えるその日も同じこと

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人間の”生き方の質”

付き合いが始まるとき
付き合いが終わるとき

付き合いの真実は、
この二者における礼儀・品行・所作・振舞いの有様の相違に、
その真実をうかがうことができる

人間関係の真実
この真実は、
お互いの付き合いが始まる最初の時点ではわからない

人間関係の真実
この真実は、
実際に付き合っている最中にはわかりにくい

人間関係の真実
この真実は、
付き合いが終わる最後の時点においてわかる

人間の”生き方の質”

一人の人間が、
他者との付き合いが終わるとき、
その相手と如何なる終わり方をするかで、
その本人において、
一人の人間としての”生き方の質”の真実が露見する

自分と他者の関係性について考えるとき、
後があるときの振舞い方、
あるいは、後がないときの振舞い方、
ここに、自分自身の”生の質”の真実が露見する

人間関係の様相は、
最初は、誰も同じ
最後は、人それぞれ

自分自身の”人間関係の質”の真実は、
その都度、人間関係が終わるときにわかる

美しく生きるか、
それとも、醜く生きるか、
それは、自分次第

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黙って行う人

”・・しようと思っている”という程度の思い

この程度の思いが、
現実になることはない

思いを現実にする人は、
構想を練り、
具体的な計画を立て、
黙って、それを行う人

自己実現できない人の典型は、
一事が万事において、
”・・しようと思っている”と言い続けるということ

”・・しようと思っている”と言わないようにしよう

賢者は、
決して、絵空事を言わない人

愚か者は、
簡単に絵空事を言い、
言うだけで、何も行わず、
絵空事の中に生きる人

賢者は、
本当に行うことだけを口に出す人

賢者は、
行うことを口に出し、
黙って、それを行う人

言うことは、誰にでもできる
その一方、
言ったことを行う人はごく僅か

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限界の境界線

人生は一度だけ
ならば、本日の今こそ、
奮起して、
自己の限界まで頑張ってみよう

そうすると、やがて、
今までは見えていなかった限界の境界線が見えてくる

そして、さらに、
その境界線を越えるほど頑張ってみよう

限界の境界線を越えるほど頑張ると、
新しい知に到達する

その知とは、
これまで考え、
捉えていた自己の限界は、
”真の限界”ではなかったということだ

凡人が捉える自己の限界、
それは、何の根拠もなく、
無意識のうちに信じ込んでいる”典型的”限界

人間は、
この典型的限界から自己を解放できたときに初めて、
”理性”の面前で、
自己の無経験と愚かさ、
そして、自己の”非理性性”を悟る

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理論と実践

机上の学問を愛する人は、
理論を重んじる

一方、
言葉で述べるよりも、実際の行動を好む人は、
実践を重んじる

理論と実践、
果して、これら二つは、
それぞれ異なるものなのであろうか

本質論を述べるならば、
理論と実践は、決して異なるものではない
これら二つは、
同じ範疇に存在するもの

理論は、これを簡単に言えば、”理屈”
だが、理論ばかり唱えていても意味を生じることはない

実践は、言うまでもなく、”目に見える形で行う”ということ
形を行うには、”形”を形づくる考え方を知ることが必要だ

賢者にとって、
理論と実践は、同じ範疇に属するもの

物事は、
理屈だけでは成就しない

物事を成就させるには、
まず第一に、しっかりと理論を理解し、
それを構築しなければならない

そして、その後、構築した理論を、
実際の現実として、それを行うことが必要だ

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想い

想いとは、
想う相手に届くものなのか

それとも、
届かないものなのか

私は今、考える

自分の心の奥にある想いは、
届けたい相手に届かないからこそ、
その想いに内在する力を維持できるのだ、と

人は、日々、
心の奥で、その想いを持つ続けることによって、
如何なる強風にも負けることなく前に進み、
力強く生きることができるのだ

想いは、
まさに、”力の源泉”そのもの

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Necessity of moderation

An extremist has a possibility to ruin his conduct
Even though he does good conduct,
It is necessary for him to pay attention as a matter of degree

Human mentality is unstable
It is sentiently affected by any of matters

For instance,
A matter, “kindness” is such a thing

If you are kind moderately,
How you are kind to your friend is valued by him

On the other hand,
If you are extremely kind to your friend,
What you do to him is not beautifully valued by him

Imagine,
There is a matter of degree in taking action

To think of moderation is fundamental to everyone
Moderation is a must for you to be more sophisticated yourself

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The price you unquestionably need to pay

To accomplish your purpose,
You ‘ve got to pay the price for it

The price you need is to persevere in your efforts for the one you wish to get

Make many sacrifices
If you do so,
You get what you really need

To live through having perseverance is unquestionably meaningful

Do you need to be poetic to live romantically?
To be poetic idly is not meaningful,
If you don’t severely persevere in your efforts

Graceful life is actualized in terms of refined sophistication you have in your heart
The quality of sophistication in your heart is bettered through all your fortunes by inches

The best way to actualize graceful life is to be brave
Nobody favors a person who is timid

History proves that Fortune favors the brave

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無知が齎す暴力

真理は真理

それは、どのようにしても、
決して変えることのできないもの

永久不変の真理の面前において、
不完全な存在者である我々人間は、
ただ、頭を垂れるのみ

人間は、
永久不変の存在を超越することはできない

永久不変の存在は、”真理”
真理は、”永久不変”

この真理が、
自己の存在性のど真ん中にある人間においては、
取り返しのつかない事態を招くことはない

無知、及び、無思索状態の下、
いたずらに抱く”高慢”

それは、まさに、
”愚の骨頂”

そして、それは、
”暴力”

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吐き気

吐き気がしてならない

吐き気、
それは、どうしようもない憤り

吐き気、
それは、銭金で生きている人は想像できない憤り

吐き気、
それは、知性の怒り

吐き気、
それは、理性の怒り

私は今、考える
吐き気がしてよかった、と

この経験は、明日も、
何ら、”変える必要性がない”ことを教えてくれる

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人間は”埃”である

我々人間は、
単なる”埃”である

この捉え方は、
人間について、
如何なる立ち位置から捉えるかによって、
その捉え方が大きく違ってくる

地球の表面で生息する人間にとって、
人間は人間、
埃は埃

だが、実際、
広大なる宇宙空間において捉える人間と埃の間に、
何ら、大きな違いはない

ただ、我々人間には、
一つだけ、決して忘れてはならないことがある

埃は、何も感じることもなく、
何も考えることもない

一方、人間は、日々、何かを感じ、
何かを考える

理性的存在者は、
埃として、自己の”微小さ”について、
しっかりと理性的に捉え、同時に、
人間は、”日々、感じ、考える埃である”、という真実と向き合う

人間は、自分自身が、
”宇宙に存在する微小なる埃”であると認識したとき、
欲を源泉として何かを所有し、
所有に支配されることの”無意味さ”を知る

この地球は、
実に、小石よりも小さい存在物

このように考えたとき、
埃である自分が、
”何かを所有する”というその経験自体、
本質的には、何ら、”意味のない経験”であることがわかってくる

17世紀に、ブレーズ・パスカルが、
人間を”葦”と解した

そして、21世紀に生息する私は今、
人間を”埃”と解する

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賦与された理性

理性は、
一体何のために存在するのか

理性は、
考える能力

この、”考える能力”は、
最初から、人間が備えているものなのか

それとも、何らかの理由で、
与えられたものなのか

この地球に生息する”ありとあらゆる生命体”について捉えるとき、
”人間のみが考える能力を備えている”というこの事実について、
これを、”単なる事実”として放置しておくべきではない

我々人間には、
考える能力が与えられた

”与えられた”、
これを、別の言葉で表現するならば、
”賦与された”ということ

賦与されたこの能力は、
まさに、”賦与された特権”

理性的存在者は、
この賦与された特権について自らの命で捉え、
この特権を使うとき、
”自らの命で使う必要がある”、ということを実感する

賦与された特権を、
腹を決めて、
自らの命で使う日々を積み重ねていくと、
人間は、やがて、
”自分自身の存在の尊厳性”について悟る日を迎える

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できることを”やらない”、という心の病

人間が無意識のうちに持つ心の病、
それは、本当はできるのに、
それを”やらない”ということ

人は、時として、
本当はできることを、
”できない”と言う

しかし、それは、
できないのではなく、
”やろうとしない”ということ

できないという言葉、
この言葉は、
ずるい言葉

できないという言葉、
この言葉は、
話を摩り替える言葉

できないという言葉、
この言葉は、
自分を小さなマッチ箱に閉じ込める言葉

できないという言葉、
この言葉は、
無意識のうちに、
自分を”心の刑務所”に入れてしまう言葉

”できない”と言わないようにしてみよう
最初から”できない”と考え、
”何もしようとしない心理状態”から自分を解放しよう

思うに、
やってみるとき、
最初から、完璧にやる必要はない

自分ができることを、
少しずつ丁寧にやっていけば、
しっかりと前に進める

自己中心的な我を捨て、欲を捨て、
清らかな心でやってみると、
やがて、”できない病”、
”やらない病”から離れることができる

人生は、
できるか・できないかではない

人生は、
必要なことを、
やるか・やらないかだ

人生は、
やれば、大きく変わる

その理由は簡単だ
人生は、”自分の行動”でつくるものだから

「哲学詩をゆっくりと読み、深遠なる言葉を鑑賞し、哲学する」 (東京・銀座にて、生井利幸が英語で講義)

2023-08-25

「作家における一日・24時間の過ごし方・・・作家は孤独を愛する」(東京・銀座にて、生井利幸が英語で講義)

2023-08-25

「詩を読み、哲学する・・・生井利幸著『文明の墓場 哲学詩』の読み方」(東京・銀座にて、生井利幸が英語で講義)

2023-08-25

哲学詩(最新作の掲載)

2023-08-13

空虚な感覚

空虚な感覚、
果してこれは、本当に”哀れな感覚”なのか

そもそも、人は、
幼い頃に、空虚な気持ちになることはない

子供の心は純粋だ
子供は、純粋であるが故に、
善と悪をはっきりと区別する

子供には、
”穢れのない活力”が漲(みなぎ)っている

この、穢れのない活力は、
純粋であるが故に湧き出る力

子供が大人になると、
皆、たくさんの経験をする

良い経験、
そして、悪い経験

大人になるとは、
一体どういうことなのか

人が、大人になれば、
”人は、様々な経験を積んで成長する”ということを悟る

空虚な感覚

この感覚は、
努力することなく、
汗を流すことなく、
いたずらに抱く感覚なのか

それとも、自分の命で、しっかりと世の中を見、
毎日、迎える一秒一秒において針の先端に立ち続け、
常に、限界の限界まで努力し、
”世の中の真実”を達観した人が、
確かな実感として感じ取る感覚なのか

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理性法が定める”程度の問題”

理性法、
それは、地球に生息する人類が理性的に捉える理法

理性法、
それは、理性によって理解する不可避的摂理

理性法、
それは、理性が導き出す原理原則

世の中には、
人間にとって美味しい側面、
そして、美味しくない側面がある

人間は、生来、
”欲張り”だ

人間はそれぞれ様々だが、
人間によっては、
常に、”美味しいところ”だけを取る者もいる

理性法には、
常に美味しいところだけを取る者は、やがて、
その美味しいところが取れなくなるという理法が存在する

何事においても、
”程度の問題”がある

人間が、この、程度の問題における”程度”を知り、
それを維持し続けるには、
いつ何時においても、理性的存在者として、
針の先端に立ち続けなければならない

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心の力に限界はあるのか

人は、
時々、疲れる

疲れたときは、
体を休ませよう

人は、
時々、怠(だる)くなる

では、怠くなったとき、
一体どうしたらよいだろうか

怠くなるとは、
身の力も、心の力も、
”消耗し尽くした”という状態

身の力、
そして、心の力を使い切ったという経験がない人に、
疲れた様相と、怠くなった様相の違いについて、
それを、”己の実感”としてわかることはない

怠くなったとき、
休むだけでは足りない

では、どうしたらよいだろうか

その答えは、
心の力を消耗し尽くした人にしかわからない

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足下の意味

賢者は、
日々、どこを見ているだろうか

賢い存在者であるならば、
常に、遠い未来を見ているに違いない

では、賢者は、一事が万事において、
遠い未来ばかりを見ているのだろうか

未来とは、
一体いつの時代を指すのだろう

10年後か、
20年後か、
それとも、100年後か

少しだけ考えると、
わかることがある

それは、今現在の時刻の”1秒後”も、
”未来の一部”であるということだ

毎日、迎える一秒一秒を命で刻む存在者にとって、
未来とは、数年後、数十年後の未来を指すわけではない

人間は、毎日、一秒一秒を経験しながら、
同時に、一秒一秒連続して、”直近の未来”を迎えている

今迎える一秒について、
それを最高の状態で迎え、
太陽の光の如く輝かせよう

今の一秒を輝かせる存在者は、
10年後の自分の生き方ではなく、
”今現在の自分の生き方”を輝かせる

今現在、輝いている存在者は、
自分の命で、しっかりと”自分の足下”を見ている

私は、自分の足下を見ない者が、
確かな先を見、
確かな歩みをした、という話を聞いたことがない

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技術的理性

言う、
言わない

この両者に、
何らかの違いはあるのか

理性的存在者は、
この両者において、
相当なる違いについて、”理性的”に捉える

非理性的存在者は、
”非理性的に”言って、
物事に混乱を生じさせる

理性的存在者は、
”理性的に”言わずに、
物事を制する

言う、
言わない

言わない技術、
私は、この技術を、
”技術的理性”と呼ぶ

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末期の水の味

人間が目指す最高峰の境地
人間は、最高峰の境地を、
”究極的境地”と呼ぶ

究極的境地、
この境地は、本当に実在するのだろうか

人間は、常に、
より上を見ている

日々、自分を律し、戒め、
戒め、律し、
より崇高な境地に到達しても、
人間は、さらに、より崇高な境地を目指す

どのような人間でも、
自分が目指す境地に到達した瞬間、
より高いところに、より崇高なる境地を見る

結局のところ、
人間が目指す境地に終りはない

末期の水の味は、
末期を迎えなければ、
それを知ることはない

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卓袱台(ちゃぶだい)を前にして哲学する

人間の幸福、
それは一体、どのように量ることができるのだろうか

言うまでもなく、
幸福の量について、
これを正確に量る方法はない

私は今、
哲学する

人間は、
自分の幸福度について、
自分の心の中で、
自分が実感する”心の満足感”の量によって、
自分自身の幸福度を量るのだ、と

本来、自分が幸福であるか否かという問題は、
自分自身で感じ取り、
それを判断するもの

他人が、自分が幸福であるか否かについて判断することなど、
まさに、”愚の骨頂”そのもの

四畳半一間で、
小さな卓袱台だけで生活する

自分が今、
この質素な生活を”幸せ”と感じるだけで、
ここに、”最高の幸せ”が存在する

卓袱台だけの生活
静かに哲学するとき、
ここは、まさに”最高の空間”

卓袱台を囲み、
ここには、広大に広がる宇宙空間がある

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顔の表情

顔の表情、
それは、心の鏡

顔の表情、
それは、一人の人間としての表玄関

人は、表玄関の印象次第で、
そこに入るか否かを判断する

顔の表情、
それは、人生経験の鏡

顔の表情には、
本人の生き様そのものが、
そっくりそのままの形で露見する

人生の半ばを過ぎたら、
自分の顔の表情に責任を持とう

人は大抵、
他人を、顔の表情で判断するから

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待つ意味

待つという行為には、二つある

一つは、待つということに意味があるもの
もう一つは、待つこと自体、意味のないもの

待つとき、
単に待つのみでは、
大切な時間を無駄にするだけだ

待つなら、
考えながら待ってみよう

待つなら、
行動しながら待ってみよう

感情を静め、
平常の心で待ってみよう

そうすれば、やがて、
待ち続けていたことに意味があったのか、
それとも、何らの意味もなかったのか、
はっきりとわかる日がやって来る

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改めて、”生”を哲学する時

鈍感か、
それとも、繊細か

人生において最も大切なことの一つは、
自分の愚かな行いについて、
それを、敏感に、そして、繊細に感じ取るということ

果てしない宇宙において人間存在を捉えるとき、
ちっぽけで、悲しい真実が見える

その真実とは、
ほとんどの人間は、
このことについて頗る鈍感であるということ

鈍感は、
幸いなことか、
それとも、悲惨なことか

人間は、
自分自身が持つ”鈍感”の悲惨さについて感じ取れた時、
改めて、より本質的に、
”生”を哲学する時を迎える

書くという行為に伴う”誇り”と”責任”

2023-06-30

書くという行為に伴う”誇り”と”責任”

”書く”とは、
考えるということ

その理由は明白だ
何かを書くためには、時間をかけて、
しっかりと考えなければならないからだ

では、考える行為は、
何かを書くための行為なのか

少しだけ考えるとわかるが、
実際は、そうではない

世の中には、毎日、たくさん考えても、
何も書かない人はいる

考えて、書く
書いて、考える

考えることと書くことに違いがなくなったとき、
人は初めて、書くことに”誇り”と”責任”を感じるようになる

行為の一形態としての”理性的思考”

2023-06-18

行為の一形態としての”理性的思考”

概して、思考の原点は、
二つある

一つは、
自己中心的な自我の実現を原点とする思考

そして、もう一つは、
自分以外の人々の利益・幸福を実現することを原点とする思考

自己の欲を実現するための思考は、
醜い思考

人々の幸せの実現を目指す思考は、
美しい思考

思考は、
”思考のための思考”であるべきではない

理性的存在者にとっての思考は、
”具体的な何か”を目的とする行為の一形態

理性的思考は、行為の一形態
そして、この思考は行為そのもの

理性的に、具体的な何かを実現する人においては、
思考は、”行為そのもの”

思考を実現する人は皆、
思考したその事を、即、行う人

考えた後、その事をすぐに行う人は、
行うとき、何ら、躊躇することはない

躊躇がないからこそ、
その思考が現実になるのだ

人類愛の原点

2023-06-12

人類愛の原点

血の繋がり、即ち、
血縁関係のない人々に向けた愛を、
”人類愛”と呼ぶ

今、考えてみよう、
人類愛の原点について

あなたは、自分の家以外の場所で過ごすとき、
自分の目の前にいる人に対して、
必要十分に気を遣っているだろうか

目の前の人、
隣の人、
そして、同じ場所にいる人々

どこの誰でも、家族や親戚を愛する
このことは、どのような人でも同じことだ

では、あなたは、
家族や親戚でない他の人々に対して、
同じような愛を行えるだろうか

今、自分の心の中心核に訊いてみよう
自分の家族・親戚同様に他人を愛せるか、
それとも、愛せないか、ということを

この世に、自分の子供を愛さない親はいない
では、他人の子供を愛する親はいるだろうか

自分の子供を愛するように、
他人の子供も愛してみよう

自分に子供がいても、
分け隔てなく、
他人の子供を愛せるようになったとき、
人類愛とは何か、について知る日がやってくるだろう

汗と血

2023-05-23

汗と血

汗は、意思の涙
血は、意志の涙

汗は、かけばかくほど、
目に見えない己の意思から、
”目に見える己の現実”へと変貌する

血は、流せば流すほど、
目に見えない己の意志から、
”目に見える社会の現実”へと変貌する

汗は、心の涙
血は、命の涙

命をはって生きる、
果して、これだけで足りるのだろうか

命をはって生きるにとどまらず、
命を生きてみよう

人間は、己の命を生きることで、
”真の社会的存在者”へと変貌するのだから

命を生きるとは、
命で、社会を生きるということ

この生き方に、
何ら、利己心はない

考えたことを行うに尽きる

2023-05-14

考えたことを行うに尽きる

人間は皆、毎日、
”新しい何か”を覚えようとしている

新しい何か、
この、”何か”とは、
一体何を指しているのか

覚えるということは、
暗記するということ

今、考えてみよう
人間は、一体どうして新しい何かを暗記しようとするのか

暗記の過程に、
何かを感じるという経験はない

暗記の過程に、
何かを考えるという経験もない

感じない
考えない

一人の人間として自分を捉えたとき、
これほど意味のない生の経験はない

何かを考えてみよう

何かを考えれば、
何かを始めるきっかけを生む

考えて、
始めるためのきっかけを生んだならば、
それを行うのみ

自分の生に意味を持たせるには、
一事が万事において、
考えたことを行うに尽きる

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