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「哲学する」ということ

2013-09-15

「哲学とは何か」、この問題は、決して哲学者のみが考えるべき問題ではない。ここで本質論を述べるならば、そもそも哲学という学問は、哲学者自身のために存在しているのではなく、「“一般的”人間そのもの」のために存在している学問である。

哲学者が“哲学する所以”は、言うまでもなく「真理」を探究するためである。では、真理とは一体いかなるものを指すのであろうか。真理とは、いかなる時代・社会においても普遍的に存在し続ける「完全無欠な存在物」である。だが、今、我々人間がこの「真理」について哲学するとき、「本当にそのような“完全無欠な存在物”というものが存在するのであろうか」という“疑問”が生じる。この「完全無欠な存在物」について捉えるとき、以下のような論理(Logic A)が成り立つ。即ち、

–Logic A–
(1)「人間は『不完全な存在者(物)』である。」 → (2)「不完全な存在者(物)が『完全な存在者(物)』を知ることは“不可能”である。」 → (3)「“不可能”という概念は、本来いかなる場合においても“不可能”であるわけだから、不可能を可能として認識・理解することは“不可能”である。」

そもそも、「(巷で耳にする)不可能を可能にする“可能性”」とは、本来、始めからそこに可能性が内在している場合において該当する考え方である。言うまでもなく、「不可能」という概念に内在する本質は「『不可能』そのもの」であるわけだから、人間が一般社会で耳にする“不可能を可能にした”という「不可能の”category”(範疇)」には、当初から、そこに「不可能を可能にするための“(ある種の)可能性”」が内在していたと判断できる。

今ここで、この論理の流れで「真理」について捉えると、不完全な存在者である人間が「完全無欠な(永久不変な)存在者」を知ることは“不可能”であるという論理が成り立つ。そして、本来において、人間が、「完全無欠な存在としての『真理』」を認識・理解することは不可能な行為であると判断することができる。

人間は、「哲学は、“真理探究”を目的とする学問である」という大前提の下で思索するとき、前述の如く、そもそも人間が真理を認識・理解することは不可能であるから、「人間が哲学を研究する行為には何らの“具体的”利益もない」とも捉えることができる。だが、そう捉えることは“理性的存在者”としては賢明ではないと言わざるを得ない。

不完全な存在者である人間が「完全無欠、且つ、絶対的な真理」を知ることは不可能ではある。しかしその反面、人間は、哲学の研究を介して、少なくとも「真理を探究する“道のり”」を歩むことは可能となる。「真理を探究する“道のり”を歩む」、まさに、これこそが「哲学を研究する上で、『最も重要となる行為そのもの』」といえるのだ。

私は、長年、「“諸学問”(sciences)の基礎としての『哲学』」を研究してきた。しかし、未だに、「完全無欠な『知』、または、『真理』」への到達には至っていない。では、今後の研究においてはどうであろうか。

思うに、私自身、今後の研究において“真理それ自体”に到達することは不可能であろう。しかし、それでも私は、「真理を探究するための道のり」を歩んでいきたいと切望している。

私は、今後も、自分から率先して「真っ暗闇の“暗黒の世界”」に自分の身を置き、そこで“手探り状態”で前に進み、あるいは、後ろに戻り、もがき苦しみながら「『知』の光」、「『真理』の光」を“探求”する(探し求める)日々を送り続けていく。なぜならば、そうした行為そのものが、まさに、「哲学する」という行為であるからだ。

以上で述べた考え方から導き出せることは、哲学に“関係”する上で最も重要な点とは、「哲学の知識を得る」という行為にとどまることなく、「自分自身が哲学する」という行為であるということだ。

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