AX

読み物カテゴリ: ‘哲学への招待’

トマス・アクィナス著、『神学大全』(Summa theologiae)における「人間の尊厳」

2013-09-20

中世イタリアのスコラ学最大の神学者・哲学者、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)は、同時に、ドミニコ会士、教会博士(doctor ecclesiae)としても知られている人物である。言うまでもなく、トマスの代表的著作は、所謂、『神学大全』(Summa theologiae)である。12世紀から13世紀にわたって多数のスコラ神学者(オセールのギレルムス、ヘイルズのアレクサンデルなど)によって『神学大全』(Summa theologiae)が執筆されたが、その中でもトマス・アクィナスの著作が最も評価が高いと明言できる。

トマスの『神学大全』は三部から成り、第一部の執筆は1266年、彼が41歳の時である。1274年、トマスは第三部の最終部分を仕上げようとしている時期に他界したが、ドミニコ会における彼の友人、ピペルノのレギナルドスが、トマスの『命題集注解』(Scriptum super libros sententiarum)から該当する部分を抜粋・編纂して完成させるに至った。

トマスは、「人間の生命」、そして「人間の尊厳・尊厳性」の概念について詳細に論じている。トマスが用いるラテン語のdignitasは、「尊厳」の他、「威厳」「品位」「重要性」「優位性」「威厳」「身分」「役割」などを意味するものだ。

トマスは、以下の如く述べる。即ち、「生命は、神によって人間に授けられた何らかの賜物であり、殺し、かつ生かすところの彼方の権能の下にある」と。これは、トマスが『神学大全』において述べた「人間の生命」についての大前提として捉えることができる。

キリスト教においては、旧約聖書以来、生命は神からの賜物であり、神と呼ばれる存在は、「命の道」を提供する「生ける水の泉」であり、且つ、「命の水」である。そして、新約聖書においては、神は、「豊かな命を与える者」であり、「生命を与える霊」であると述べられている。中世の神学者は、「神」や「生命」について、それらのすべてを聖書の立場から立脚して論じるのが通常であったが、トマスの場合はそうではなかった。

トマスは、それらを探究するにあたり、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスから強い影響を受けた。トマスは、アリストテレスの著書『政治学』(Politica)の一節を引用。『神学大全』においてこの世に存在する生命・いのちの価値について格付けを行った。

トマスは、『神学大全』において次の如く述べる、・・・即ち、生命の”階級”は、(1)低位に位置する存在は「生きているもの」(vivum)、(2)中間に位置する存在は「動物」(animal)、(3)上位に位置するものは「人間」(homo)であり、(4)これらの最上位にあるものが命への導き手としての「主」である、と。

トマスは、植物のように生きているところのものは、一般的にはすべての動物のためにあり、そして動物たちは人間のためにあると述べる。したがって、もし、人間が植物を動物に役立たせるために使用し、動物を人間に役立たせるために使用したとしても、それは決して不当なことではない。この考え方は、アリストテレスが『政治学』第1巻第8章で述べているところからしても明白である、と述べる。

トマスによると、植物を動物の使用に供するために、また、動物を人間の使用に供するために殺すことは、”神的な秩序づけ”そのものからして許されている。これは、事物の秩序においては、「不完全なものは、より完全なもののために存在する」という大前提から出発し、生成のプロセスにおいても、まず第一に植物のように(1)「生きているもの」があり、次に(2)「動物」、そして(3)「人間」が出現したのであるから、本来、植物は動物のためにあり、動物は人間のためにあると解される。すべての人間は、所謂、”動物の一種”として捉えられる。そして、人間は、他の動物よりも上位に位置づけられている存在である。そうである理由は、人間には、理性によってなされる「『真理』についての認識能力」があるからである。

理性は、まさに「神の似像」(imago Dei)といえるもの。トマスは、「理性」と「知性」は、人間にあってはそれぞれ別の能力であると捉えることはできないとし、理性的被造物がそれ以外の被造物を越える所以のものは、まさに「知性」「精神」にあるとした。

非理性的な存在である動物や植物も、人間と同じように”神的な秩序づけ”によって維持されているのであるが、それらは「理性的生命」を持ってはいない。それらは、常に、他者を介して、「自然本性的な衝動」によって動かされているだけである。言うなれば、動物や植物は、<自然本性的な奴隷状態>にあるのであり、究極的には「人間の使用に供される宿命を背負っている」のである。

『神学大全』では、「人格の品位」「諸々の人格の重要性」「人格の威厳」「人格の重要性」という表現が用いられている。この「人格」という語は”persona”であり、「品位」「威厳」「重要性」という語は”dignitas”が用いられている。当初、トマスは、personaという語を、「神について適切に語られる」、あるいは「神に対して最高度に適合する」と定義づけをしていた。そして後に、何らかの”優越性”、つまり、dignitasの要素を有する人間(さらには、理性的本性を有するすべて固体)に対してpersonaと呼ぶようになった。

トマスは、理性的な本性において自在するところのものは「非常な優位」を持つ、と説く。ここにおいて、トマスは、人間を、”理性的なもの”と捉えていたことがうかがえる。

非常な優位・尊厳性を保持する者は、「理性」を巧みに作用させ、認識したり知的に捉えることができる限りにおいては、そうした存在者を人間として解することができる。トマスにおいては、非常な優位・尊厳性のある人間とは、いわゆる「理性的存在者」のみを指す。罪人や悪人などの非理性的動物としての人間は、確かに<ヒト>ではあるが、そうした者たちを「尊厳」の所有者とみなすことはできないとした。

注)
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は、1225年、ナポリ郊外のアクィノ領・ロッカセッカ城で生まれ、5歳の時、モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院に入り、後にナポリ大学で学んだ。1244年にドミニコ会に入会し、45年にパリでアルベルトス・マグヌスに師事する。1256年、神学教授資格を授与され、同年、第1回パリ大学神学部教授に就任。72年、イタリアに戻りナポリ大学などで教えていたが、2年後の74年に没した。

「哲学する」ということ

2013-09-15

「哲学とは何か」、この問題は、決して哲学者のみが考えるべき問題ではない。ここで本質論を述べるならば、そもそも哲学という学問は、哲学者自身のために存在しているのではなく、「“一般的”人間そのもの」のために存在している学問である。

哲学者が“哲学する所以”は、言うまでもなく「真理」を探究するためである。では、真理とは一体いかなるものを指すのであろうか。真理とは、いかなる時代・社会においても普遍的に存在し続ける「完全無欠な存在物」である。だが、今、我々人間がこの「真理」について哲学するとき、「本当にそのような“完全無欠な存在物”というものが存在するのであろうか」という“疑問”が生じる。この「完全無欠な存在物」について捉えるとき、以下のような論理(Logic A)が成り立つ。即ち、

–Logic A–
(1)「人間は『不完全な存在者(物)』である。」 → (2)「不完全な存在者(物)が『完全な存在者(物)』を知ることは“不可能”である。」 → (3)「“不可能”という概念は、本来いかなる場合においても“不可能”であるわけだから、不可能を可能として認識・理解することは“不可能”である。」

そもそも、「(巷で耳にする)不可能を可能にする“可能性”」とは、本来、始めからそこに可能性が内在している場合において該当する考え方である。言うまでもなく、「不可能」という概念に内在する本質は「『不可能』そのもの」であるわけだから、人間が一般社会で耳にする“不可能を可能にした”という「不可能の”category”(範疇)」には、当初から、そこに「不可能を可能にするための“(ある種の)可能性”」が内在していたと判断できる。

今ここで、この論理の流れで「真理」について捉えると、不完全な存在者である人間が「完全無欠な(永久不変な)存在者」を知ることは“不可能”であるという論理が成り立つ。そして、本来において、人間が、「完全無欠な存在としての『真理』」を認識・理解することは不可能な行為であると判断することができる。

人間は、「哲学は、“真理探究”を目的とする学問である」という大前提の下で思索するとき、前述の如く、そもそも人間が真理を認識・理解することは不可能であるから、「人間が哲学を研究する行為には何らの“具体的”利益もない」とも捉えることができる。だが、そう捉えることは“理性的存在者”としては賢明ではないと言わざるを得ない。

不完全な存在者である人間が「完全無欠、且つ、絶対的な真理」を知ることは不可能ではある。しかしその反面、人間は、哲学の研究を介して、少なくとも「真理を探究する“道のり”」を歩むことは可能となる。「真理を探究する“道のり”を歩む」、まさに、これこそが「哲学を研究する上で、『最も重要となる行為そのもの』」といえるのだ。

私は、長年、「“諸学問”(sciences)の基礎としての『哲学』」を研究してきた。しかし、未だに、「完全無欠な『知』、または、『真理』」への到達には至っていない。では、今後の研究においてはどうであろうか。

思うに、私自身、今後の研究において“真理それ自体”に到達することは不可能であろう。しかし、それでも私は、「真理を探究するための道のり」を歩んでいきたいと切望している。

私は、今後も、自分から率先して「真っ暗闇の“暗黒の世界”」に自分の身を置き、そこで“手探り状態”で前に進み、あるいは、後ろに戻り、もがき苦しみながら「『知』の光」、「『真理』の光」を“探求”する(探し求める)日々を送り続けていく。なぜならば、そうした行為そのものが、まさに、「哲学する」という行為であるからだ。

以上で述べた考え方から導き出せることは、哲学に“関係”する上で最も重要な点とは、「哲学の知識を得る」という行為にとどまることなく、「自分自身が哲学する」という行為であるということだ。

6 / 6123456
生井利幸事務所 〒104-0061 東京都中央区銀座3-14-2 第一はなぶさビル5F
Copyright© 2003-2020, Toshiyuki Namai All Rights Reserved.