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読み物カテゴリ: ‘哲学への招待’

(基礎)形而上学として捉える”incoherence”

2014-01-13

人類は、古代から、様々な”incoherence”に直面し、その都度、その時代に到達した「(限定的)『知』」の範疇内において、可能な限りの真理探究を試みてきました。

本日の英語音声講義は、所謂、(基礎)形而上学として、「理性的存在者としての人間は、どのような論理で”incoherence”を捉えることができるか」という基礎的な問題について講じました。

英語音声講義

⇒ the metaphysical value of incoherence(英語音声講義)

Genuine culture is produced at the risk of your life.

2014-01-12

本稿では、「『真の教養』(genuine culture)とは、どのようなプロセスを介して養うことができるのか」という、人間存在における”極めて究極的な問題”について講じます。

言うまでもなく、「教養」の概念は、単なる「知識」(knowledge)とは本質的に異なる概念です。「真の意味における『教養』の養い方」を認識・理解するには、”上辺だけの知識”を得るという行為に先行して、まず第一に、「長年にわたる多種多様な人生経験」を備えていることが必要不可欠となります。

では、長年にわたる多様な人生経験を備えているという前提条件の下、人間は、真の教養を養う上において一体何を必要とされるのでしょうか。本講義においては、わたくし生井利幸が、全身全霊で「自身の身」を挺してこの問題について講じます。

英語音声講義

⇒ Genuine culture is produced at the risk of your life.(英語音声講義)

The significance to think the unthinkable in orde to persue the essence

2014-01-07

英語音声講義

⇒ The significance to think the unthinkable in orde to persue the essence(英語音声講義)

Reading the Bible in consideration of the nature of human beings as a “science,” theology.

2013-11-17

英語音声講義

⇒ Reading the Bible in consideration of the nature of human beings as a “science,” theology.(英語音声講義)

Wearing glasses poisoned makes you blindness in sciences.

2013-11-16

いかなる学問分野においても、真理を探究するそのプロセスにおいて「固定観念」(fixed idea)を持ってしまうと、その探究者自身を「盲目」(blindness)にさせてしまいます。このたびは、学問を志す読者の皆さんに向けて「真理探究を志す上での必須の考え方」を講じています。

学問(philosophia, sciences)と共に生きている読者の皆さん、あるいは、これから学問の道に入ろうとしている読者の皆さん、是非、以下の英語音声講義を受講してください。世俗的な損得勘定、邪念・雑念を取り払い、心の中に「清らかな無の境地」を作り出した上で英語音声講義を聴き込むと、「真の意味での学問の道」が見えてきます。

英語音声講義

⇒ Wearing glasses poisoned makes you blindness in sciences.(英語音声講義)

オランダのライデン大学で研究の後、日本の近代哲学・思想の土台づくりに貢献した西周先生

2013-09-29

言うまでもなく、「深く哲学する」という行為は、個々の人間に対して「唯一無二の存在者」として生きる勇気を与えてくれるものだ。では、この日本に、一体いつ頃から「哲学」(ギリシア語:philosophia)という概念が生まれたのであろうか(持ち込まれたのであろうか)。

歴史を振り返ってみると、江戸時代においては、日本語において「哲学」という言葉はなかった。日本で「哲学」という言葉が使われ始めたのは明治時代初期であり、当時、西洋思想・哲学における諸概念を日本に紹介した人物は西周先生(1829~97)である。

西先生は、「哲学」はもとより、「主観」「客観」「観念」「概念」「演繹」「帰納」「理性」「悟性」など、西洋哲学で基本となる諸概念を日本語に訳すことに務めた明治初期の啓蒙思想家・哲学者である。西先生は、青少年期には朱子学を学んだが、後に洋学の必要性に目覚め、1863年(文久3年)~1865年(慶応1年)年まで、オランダ最古の大学であるライデン大学に学んだ。ライデン大学(Universiteit Leiden)は、創立1575年のオランダ最古の大学。ライデン(Leiden、オランダ語の発音はレイデン)とは同国の西部に位置する都市を指し、ライン川の分流に臨む運河の街、また、ヨーロッパ有数の大学の街としても知られている。ライデンには、今でもルネサンス時代の建物が数多く残っており、同大学は、自然法の父であり、また、国際法の祖としても名を馳せたグロティウス(Hugo Grotius, 1583-1645)などの有名な学者を擁したことで広く知られている。

西先生は、オランダから日本に帰国後、徳川幕府の開成所の教授に就任。幕府が崩壊した後は、一時、沼津兵学校の教授として教壇に立ち、1870年(明治3年)、明治政府の要請により兵務省に入省。西先生は、1873年に明六社の創立に参画。その後、東京学士会院会長、東京師範学校校長、元老院議員、貴族院議員を歴任した。

西先生が影響を受けた哲学者は、A・コント、ジョン・スチュアート・ミル、W・ハミルトンなどである。主な著書は、『百学連環』、『百一新作』、『知説』、『人世三宝説』など。西先生は、百学連環(統一科学)を樹立することを「ヒロソヒー」と呼び、日本語ではこれを「哲学」と訳し、日本で初めて「哲学」という言葉を用いた学者である。

わたくし生井利幸は、かつて、オランダのフローニンヘン大学(Rijksuniversiteit Groningen)の法学部に研究室を構え、「医事法」(medical law)を研究していた。フローニンヘン大学は1614年創立で、オランダで二番目に古い大学である。フローニンヘンも、運河の街、大学の街として知られており、運河や自然に囲まれながら深い思索ができ、美術館、画廊、ブラウン・カフェなども点在しており、まさに「学問・文化・芸術の匂い」を満喫できる街である。

私自身、フローニンヘンに居を構えていた当時は、毎日、西先生のことを考えていた。言うなれば、西先生は、「私の心の中における『恋人』」のような存在である。

西先生は、私にとっては、”幼少期からの憧れの先生”であり、私の人生のほとんどの期間にわたって思い慕っていた西先生が研究生活を送ったオランダで「西先生と同じ空気を吸う日々を送る」という行為には、実のところ、私自身、自分の人生をかけた大きな意味が存在していた。「オランダで哲学する」、即ち、「オランダで哲学書を書く」という行為は、私自身、1)「西先生の精神を引き継ぐ」、2)「自分の『使命』(mission)を全うする」という意味でもあったのだ(「使命」の本当の意味は、自ら「自分の命」をはって実行に移さない限り、”確かな実感”として認識・理解できるものではないと私は考える)。

英語音声講義

英語で、上記・記述内容に関する講義を受講することができます。

⇒ 日本の近代哲学・思想の土台づくりに貢献した西周先生(英語音声講義)

トマス・アクィナス著、『神学大全』(Summa theologiae)における「人間の尊厳」

2013-09-20

中世イタリアのスコラ学最大の神学者・哲学者、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)は、同時に、ドミニコ会士、教会博士(doctor ecclesiae)としても知られている人物である。言うまでもなく、トマスの代表的著作は、所謂、『神学大全』(Summa theologiae)である。12世紀から13世紀にわたって多数のスコラ神学者(オセールのギレルムス、ヘイルズのアレクサンデルなど)によって『神学大全』(Summa theologiae)が執筆されたが、その中でもトマス・アクィナスの著作が最も評価が高いと明言できる。

トマスの『神学大全』は三部から成り、第一部の執筆は1266年、彼が41歳の時である。1274年、トマスは第三部の最終部分を仕上げようとしている時期に他界したが、ドミニコ会における彼の友人、ピペルノのレギナルドスが、トマスの『命題集注解』(Scriptum super libros sententiarum)から該当する部分を抜粋・編纂して完成させるに至った。

トマスは、「人間の生命」、そして「人間の尊厳・尊厳性」の概念について詳細に論じている。トマスが用いるラテン語のdignitasは、「尊厳」の他、「威厳」「品位」「重要性」「優位性」「威厳」「身分」「役割」などを意味するものだ。

トマスは、以下の如く述べる。即ち、「生命は、神によって人間に授けられた何らかの賜物であり、殺し、かつ生かすところの彼方の権能の下にある」と。これは、トマスが『神学大全』において述べた「人間の生命」についての大前提として捉えることができる。

キリスト教においては、旧約聖書以来、生命は神からの賜物であり、神と呼ばれる存在は、「命の道」を提供する「生ける水の泉」であり、且つ、「命の水」である。そして、新約聖書においては、神は、「豊かな命を与える者」であり、「生命を与える霊」であると述べられている。中世の神学者は、「神」や「生命」について、それらのすべてを聖書の立場から立脚して論じるのが通常であったが、トマスの場合はそうではなかった。

トマスは、それらを探究するにあたり、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスから強い影響を受けた。トマスは、アリストテレスの著書『政治学』(Politica)の一節を引用。『神学大全』においてこの世に存在する生命・いのちの価値について格付けを行った。

トマスは、『神学大全』において次の如く述べる、・・・即ち、生命の”階級”は、(1)低位に位置する存在は「生きているもの」(vivum)、(2)中間に位置する存在は「動物」(animal)、(3)上位に位置するものは「人間」(homo)であり、(4)これらの最上位にあるものが命への導き手としての「主」である、と。

トマスは、植物のように生きているところのものは、一般的にはすべての動物のためにあり、そして動物たちは人間のためにあると述べる。したがって、もし、人間が植物を動物に役立たせるために使用し、動物を人間に役立たせるために使用したとしても、それは決して不当なことではない。この考え方は、アリストテレスが『政治学』第1巻第8章で述べているところからしても明白である、と述べる。

トマスによると、植物を動物の使用に供するために、また、動物を人間の使用に供するために殺すことは、”神的な秩序づけ”そのものからして許されている。これは、事物の秩序においては、「不完全なものは、より完全なもののために存在する」という大前提から出発し、生成のプロセスにおいても、まず第一に植物のように(1)「生きているもの」があり、次に(2)「動物」、そして(3)「人間」が出現したのであるから、本来、植物は動物のためにあり、動物は人間のためにあると解される。すべての人間は、所謂、”動物の一種”として捉えられる。そして、人間は、他の動物よりも上位に位置づけられている存在である。そうである理由は、人間には、理性によってなされる「『真理』についての認識能力」があるからである。

理性は、まさに「神の似像」(imago Dei)といえるもの。トマスは、「理性」と「知性」は、人間にあってはそれぞれ別の能力であると捉えることはできないとし、理性的被造物がそれ以外の被造物を越える所以のものは、まさに「知性」「精神」にあるとした。

非理性的な存在である動物や植物も、人間と同じように”神的な秩序づけ”によって維持されているのであるが、それらは「理性的生命」を持ってはいない。それらは、常に、他者を介して、「自然本性的な衝動」によって動かされているだけである。言うなれば、動物や植物は、<自然本性的な奴隷状態>にあるのであり、究極的には「人間の使用に供される宿命を背負っている」のである。

『神学大全』では、「人格の品位」「諸々の人格の重要性」「人格の威厳」「人格の重要性」という表現が用いられている。この「人格」という語は”persona”であり、「品位」「威厳」「重要性」という語は”dignitas”が用いられている。当初、トマスは、personaという語を、「神について適切に語られる」、あるいは「神に対して最高度に適合する」と定義づけをしていた。そして後に、何らかの”優越性”、つまり、dignitasの要素を有する人間(さらには、理性的本性を有するすべて固体)に対してpersonaと呼ぶようになった。

トマスは、理性的な本性において自在するところのものは「非常な優位」を持つ、と説く。ここにおいて、トマスは、人間を、”理性的なもの”と捉えていたことがうかがえる。

非常な優位・尊厳性を保持する者は、「理性」を巧みに作用させ、認識したり知的に捉えることができる限りにおいては、そうした存在者を人間として解することができる。トマスにおいては、非常な優位・尊厳性のある人間とは、いわゆる「理性的存在者」のみを指す。罪人や悪人などの非理性的動物としての人間は、確かに<ヒト>ではあるが、そうした者たちを「尊厳」の所有者とみなすことはできないとした。

注)
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は、1225年、ナポリ郊外のアクィノ領・ロッカセッカ城で生まれ、5歳の時、モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院に入り、後にナポリ大学で学んだ。1244年にドミニコ会に入会し、45年にパリでアルベルトス・マグヌスに師事する。1256年、神学教授資格を授与され、同年、第1回パリ大学神学部教授に就任。72年、イタリアに戻りナポリ大学などで教えていたが、2年後の74年に没した。

「哲学する」ということ

2013-09-15

「哲学とは何か」、この問題は、決して哲学者のみが考えるべき問題ではない。ここで本質論を述べるならば、そもそも哲学という学問は、哲学者自身のために存在しているのではなく、「“一般的”人間そのもの」のために存在している学問である。

哲学者が“哲学する所以”は、言うまでもなく「真理」を探究するためである。では、真理とは一体いかなるものを指すのであろうか。真理とは、いかなる時代・社会においても普遍的に存在し続ける「完全無欠な存在物」である。だが、今、我々人間がこの「真理」について哲学するとき、「本当にそのような“完全無欠な存在物”というものが存在するのであろうか」という“疑問”が生じる。この「完全無欠な存在物」について捉えるとき、以下のような論理(Logic A)が成り立つ。即ち、

–Logic A–
(1)「人間は『不完全な存在者(物)』である。」 → (2)「不完全な存在者(物)が『完全な存在者(物)』を知ることは“不可能”である。」 → (3)「“不可能”という概念は、本来いかなる場合においても“不可能”であるわけだから、不可能を可能として認識・理解することは“不可能”である。」

そもそも、「(巷で耳にする)不可能を可能にする“可能性”」とは、本来、始めからそこに可能性が内在している場合において該当する考え方である。言うまでもなく、「不可能」という概念に内在する本質は「『不可能』そのもの」であるわけだから、人間が一般社会で耳にする“不可能を可能にした”という「不可能の”category”(範疇)」には、当初から、そこに「不可能を可能にするための“(ある種の)可能性”」が内在していたと判断できる。

今ここで、この論理の流れで「真理」について捉えると、不完全な存在者である人間が「完全無欠な(永久不変な)存在者」を知ることは“不可能”であるという論理が成り立つ。そして、本来において、人間が、「完全無欠な存在としての『真理』」を認識・理解することは不可能な行為であると判断することができる。

人間は、「哲学は、“真理探究”を目的とする学問である」という大前提の下で思索するとき、前述の如く、そもそも人間が真理を認識・理解することは不可能であるから、「人間が哲学を研究する行為には何らの“具体的”利益もない」とも捉えることができる。だが、そう捉えることは“理性的存在者”としては賢明ではないと言わざるを得ない。

不完全な存在者である人間が「完全無欠、且つ、絶対的な真理」を知ることは不可能ではある。しかしその反面、人間は、哲学の研究を介して、少なくとも「真理を探究する“道のり”」を歩むことは可能となる。「真理を探究する“道のり”を歩む」、まさに、これこそが「哲学を研究する上で、『最も重要となる行為そのもの』」といえるのだ。

私は、長年、「“諸学問”(sciences)の基礎としての『哲学』」を研究してきた。しかし、未だに、「完全無欠な『知』、または、『真理』」への到達には至っていない。では、今後の研究においてはどうであろうか。

思うに、私自身、今後の研究において“真理それ自体”に到達することは不可能であろう。しかし、それでも私は、「真理を探究するための道のり」を歩んでいきたいと切望している。

私は、今後も、自分から率先して「真っ暗闇の“暗黒の世界”」に自分の身を置き、そこで“手探り状態”で前に進み、あるいは、後ろに戻り、もがき苦しみながら「『知』の光」、「『真理』の光」を“探求”する(探し求める)日々を送り続けていく。なぜならば、そうした行為そのものが、まさに、「哲学する」という行為であるからだ。

以上で述べた考え方から導き出せることは、哲学に“関係”する上で最も重要な点とは、「哲学の知識を得る」という行為にとどまることなく、「自分自身が哲学する」という行為であるということだ。

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